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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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308/310

ep. 72 双つの湖(8)

 膨れ上がった暗赤の巨躯から紫黒の触手が千手に広がり、白(みずち)の首に、胴に、ひれに絡みついて雁字搦がんじがらめにする。銀鱗に黒い焼痕が広がり、触れた箇所から腐食が始まっていた。


「何か近づいてくるぞ!」

 その時、丘上から湖での戦いを見守っていた水守たちの目が、北側の水底から急接近する巨大な魚影をとらえていた。

 水塊を突き上げて現れたのは、巨大ななまず


「あいつは」

 青の記憶が、瞬時に巻き戻る。

 玄武に飛ばされた時にも目撃した、主を襲った妖鮎だ。


 横に大きく裂けた口の内には、無数の鋸歯のこぎりばが黒光りする環を描いて並んでいる。六つの眼球がそれぞれ不揃いに動いた。


「二対一ではさすがに……えっ」

 苦々しく呟いた青の視界の端を、紅い影が掠めた。

 森の縁から岸辺へ飛び出してきた、緋色の着物。


「つむちゃん!?」

 青の反応に気づき、秋彪しゅうひょうも即座に視線を移す。

 短い足で懸命に砂利を蹴り、小さな背中は湖上の白い主だけを目指していた。


「つむちゃん! 危ない!」

 丘の斜面から新たな影が飛び出す。

 イズナだ。

 丘を駆け下りた勢いのまま滑り込んで追いついて、幼い体を抱き止めた。


「やだあ! 主さまが死んじゃう!」

 つむはイズナの腕の中で身をよじり、小さな両手で空を掻く。

 背後から永濯えいたくが駆けつけ、息を切らせて祐真ゆうしんも追いつこうとしている。


「今、主に近づいたら取り込まれてしまうかもしれない」

「どういうことだ」


 青の独言に、秋彪が問いかけた。


「あの子ははんざき霊胤たまつぎ、主の供物と定められた子なのです」

御籠祭おこもりまつりにえ、か」


 秋彪の切れ長の瞳が、イズナと父親の手に引かれていく幼い姿を見やった。

 そこへ祐真も合流している。


「!」

 湖からの吠え声に振り返れば、妖鮎の巨体が白い主に喰らいついていた。

 鋸歯の環が鱗を噛み砕き、白い胴から青い霊気の飛沫が散る。

 そこへ西の禍つ獣がさらなる瘴気の触手を扇状に広げ、波紋を蹴散らして迫った。


「主さまっ!」

 幼い悲鳴に応えるように――湖上に突き出した白い穹窿きゅうりゅうの連なりが、一斉に蒼光を放った。

 水底に沈んでいた、巨大な太古の骸、ひれの巨骨が水面を割って波濤はとうを掻きはじめる。


「化石が動いた!?」

 青は声をひっくり返し、


「古代の主さまだ!」

 目撃した湖畔こはんの民らが、そう口を揃えた。


 それは、封じられた眠りからの目覚め。


 湖底に癒着した地層を引き千切り、巨大な骨格が水膜を押し上げて立ち上がる。

 やがて水面を突き破ったのは、古のみずちの頭骨だった。


――コォオオオオオォォ……


 咆哮とも、骨を抜ける風鳴りともつかぬこえが渡る。

 白の蛟を抱くように水瀑すいばくが上がった。

 紫黒の触手が灼け千切れ、白鱗に食い込んだ鋸歯が砕けて、妖鮎の巨体が仰け反り跳ねた。


 祖霊それいを背にあらわして立つ東の主は長い首を振り上げ、妖鮎には目をくれず、禍つ獣と化した西の蛟を睥睨へいげいする。

 黄金の双眸がたぎった刹那、ひらいた蒼光が幾条ものさくとなって同胞を搦め捕った。


『グ、ォ……ッ』

 抵抗は瞬時に、白く燃え上がった光に呑み込まれる。

 東西――陰陽の蛟たちの輪郭が光の中に溶けた。

 まぶたくほどの光は、滴が落ちるほどのうちに収束する。


「何が……?」

 ためらいがちに開いた水辺の民らの眼の先、湖の中央で、巨影が身を起こそうとしていた。

 純白の鱗を持ち、背筋に沿って白銀の鰭が高く聳える蛟の姿、ただひとつ。


 巨影が天を仰ぐ。

 限界まで伸ばした首先で顎門あぎとが開かれ――咆哮した。


 音を超えた現象が湖を打ち震わせる。

 湖底の砂ごと水を巻き上げ、沸き立たせ、楕円状に放射する。

 湖を埋め尽くさんとしていた異形の妖魚、妖鮎が光の中で霧散した。


 最後に残ったのは、白銀の蛟だけ。

 渦巻いていた黒い波濤の余韻が鎮まっていく。

 泡沫が消え、濁りが沈む。


「西の蛟を取り込んだか」

 静けさの中、青の耳朶じだに秋彪の平静な声が届いた。


「露流河の、露の時みたいです……」

 青の記憶に残っている、白妙と一つになり境界の守護者として完全体を成した河の化身の姿が、重なる。


「東西の湖が一つになった今、主はふたりである必要がない――と」

 青は、はっとした。


――あれは、この湖の『理』


 秋彪の言葉の意味が、すとんとに落ちた。


 背後で、砂利を踏む音がする。

「父上……」

 龍泉家の兄弟が、彼らの父が姿を消した湖を呆然と見つめている。

 とりわけ、弟の肩に腕を担がれた兄の顔色は、体温を失くした色に沈んでいた。


 湖の中央に凛と首を持ち上げていた白銀の蛟が、不意に力を失う。

 長い首がだらりと垂れ落ち、水紋を生んだ。

 巨躯がゆるやかに傾ぎ、流されるように岸の方へと近づく。


「ぬしさま!」

 幼い声が、砂利を蹴る。

 緋色の着物が波打ち際へ駆けた。


「つむ、っ……」

 丸く幼い体が、水が指の隙間を抜けるように、するりと父親の腕を滑り抜けた。


「つむちゃん!」

 すかさずイズナと祐真が追いすがり、小さな手首や肩を掴む。

 だがそれも、氷が掌の中で溶けていくように、逃げていった。

 空気を掴んで勢い余った祐真の体が、砂に転がる。


「え……」

 困惑するイズナと祐真の目に、何かを悟ったような永濯の横顔が映った。


 白銀の長いふんが、ざぶんと岸辺へ這い上がった。

 顔までが精一杯で、首から下は力なく波打ち際に横たわる。

 鱗が弱々しく明滅していた。


「ぬしさま」

 紅い着物が、白く大きな吻に飛びついた。

 つむが、せいいっぱいに広げた両腕で主を抱きしめる。

 幼い体を鼻先に押し付けて、頬を鱗に寄せた。


 黄金の双眸が薄く開く。

 温もりが触れる接点から、淡い光が灯った。


 小さな光の粒は瞬く間に膨れ、広がり、幼い体を包み込んだ。

 光は鱗を伝い、長い首を巡り、胴を走り、白銀の鰭の先端にまで到達し、さらに膨れ上がってまゆの形を成した。


御籠おこもりだ……」

 水守の誰かが、そう口にした。


 繭の中心から、さらに強い光が脈打つ。

 一拍ごとに膨れ、大きくなり、そして音もなく破裂した。


 ほつれの中心から、丸い白い光の塊が、むくりと身を起こす。

 短く太いあしが膜を突き破って砂利を踏みしめ、引きずるように体を前へ押し出し、大きく丸みを帯びた頭部がゆっくり持ち上がって、湖を向く。


 最後に大きく平たい尾が繭の残骸からずるりと滑り落ち、びたり、と湿った音を立てて砂を叩いた。


 繭から生まれ出たのは、白銀のはんざき

 湖に向かって、巨大な口が、貝のごとく開いた。


 ――ォォ、……ォォオオオ……


 産声うぶごえが、東西を繋ぐ広大な湖を渡る。

 応えるように、水底で光の線が走った。

 幾何学模様を描きながら東へ西へと枝分かれし、けがれの残滓ざんしを散らして巡って、やがて全てが一つの焦点――艶やかな白銀の体躯へと収束していく。


 光を追いかけて、湖面が碧に切り開かれた。

 波紋が岸辺に届く頃には、東西に繋がった湖の隅々にまで、清冽せいれつな水に満たされていた。


 ――ォ……ン


 白の鯢は、もったりと口を閉じた。

 つるりと艶やかな体表が、湖面に反射する陽光を受けて輝きを放つ。

 鯢の形が解け、光輝に溶けていく。


 収縮し収束した光の中心に立っていたのは、幼い少女、ただひとり。

 紅い着物は、光にせたような無垢色に変わっていた。


 白銀の主の姿はもうどこにもなく、太古の主の骸も消え、ただ少女の小さな足先を、清廉な波が優しく撫でつける。


「……つむ……?」

 呼びかける永濯の声が、震えた。


 少女が、丸い顔をゆっくりと振り向かせた。

 言葉はなく、ただ微笑んだ。

 桃色の小さな唇が、父を「とと」と呼ぶことは、なかった。


「あれって……」

 青の呟きに、秋彪が静かに応えた。

「新たなことわり、というところだろう」


 新たな湖の、新たな主が生まれた瞬間だった。

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