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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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309/310

ep. 72 双つの湖(9)

 新たなる主の誕生を見届けた水守たちが、丘を降りて湖畔へ集う。

 一人、また一人と、無垢色の着物の前に跪き、深く頭を垂れ、口々に「はんざきの主さま」と唱えた。


「つむちゃん……」

 祐真も、水守たちの間に混じって膝をつく。

 畏怖いふとも異なる感慨が、そばかすの頬を血潮色にほのかに染める。


 つむは永濯の脚に抱きついていた。

 ぴたりと丸い頬と体を寄せ、微笑に細めた瞳で湖畔の民たちを見渡している。


「つむ?」

 父・永濯は沈痛と安堵が混ざり合った複雑な胸中で、脚に伝わる変わらない娘の体温を感じていた。


 それでも娘は父の呼びかけに「とと」と応えることはない。

 ただ、民たちの敬虔けいけんな眼差しへ微笑みを返していた。


「新しい湖と、新しい霊……か……」

 イズナは、胸元に組んだ両手が汗ばんでいることに気づいて、腰のあたりでこっそりと拭う。

 一つの信仰が塗り替わる、もしくは継承された歴史的な場面を目の当たりにした興奮の熱が、まだ冷めない。


「あ」

 ふと、西の方角を振り返る。


「黒士と、シユウ殿は?」

 澄み渡った湖面の向こう、かつて鉄亀ノ森との境界があった先の水辺に、小さく四つの人影が見える。


 イズナは、湖の西岸に向けて、村人たちの輪からそっと身を外した。



 龍泉家の兄弟は言葉なく、父が消えた湖面を見つめていた。

 あしの向こうの波紋は消え、湖は嘘のように凪いでいる。


「もう、良い」

 曜桂の肩から、兄の腕が外れた。

 支えを失った体が僅かによろめくが、兄は自分の足で踏みとどまり、弟から半歩、距離を取る。


「あ……兄上」

 消沈した足取りで後退る兄へ、曜桂は手を伸ばした。


「兄上、いっしょに」

 ぴたり、と兄の足が止まる。

曜琳ようりんを迎えに行きましょう。三人で、家に帰るのです」

「……」


 兄は応えなかった。

 濡れてほつれた髪が額に張り付き、目元に深い影を落としている。

 薄い唇は力なく閉じられたまま、ただ弟の次の言葉を待つ。


 少し離れた岩場で、青と秋彪が兄弟の様子を見守っていた。


「父上は、もう――」

 曜桂は喉の奥で、ぐっと嗚咽になりかけた息を飲み込む。

 西の方から、ひずめの音と人の声が近づいてきた。


「若様!」

「若様、ご無事で!」

 龍泉の兵たちだ。


 臣下たちの声に鼓舞されるように、曜桂は「兄上」と再び口を開いた。

「皆に、兄上がご当主となることを、宣言しましょう」

「当主……?」


 戦慄わななく唇に揺らぐ声が、零れた。

 濡れそぼった髪の奥で、黒い空洞のような瞳が、弟をねめつける。


 曜桂はひるまなかった。

 乾ききらない涙の跡を残した頬を紅潮させて、真っ直ぐに兄を見上げて口を開く。


「湖は生まれ変わり、新たな主が降臨されました。水守のみずちを祖に持つ龍泉家もまた、歩みを新たにせねばなりません。それを導けるのは、兄上しか――」


「やめろ」

 低い声だった。


「どのつらを下げて、当主を名乗れというのだ」

 緩慢に上がったその顔は白く、かつて凛としていた目元は落ち窪んで深いくまが刻まれている。


弟妹ていまいの裏切りを見抜けず、みすみす砦を沈没させ、父上を止めることも、救うこともできなかった不肖ふしょうの子が、当主だと?」

「兄上! 私も曜琳も、心から、兄上をお支えしたいと――」

「笑止!!」


 一喝が湖面を叩き、水鳥が数羽、驚いて飛び立つ。

 近づきかけていた兵たちの足も、凍りついて鈍る。


「!」

 青は思わず半歩を踏み出す。

 秋彪が、小さく首を横に振った。

 背後、東の湖畔沿いから近づいていたイズナの、砂利を踏む軽い足音が躊躇ためらいがちに止まった。


「双子は凶兆のたね――とは、誠だったのだ……双の蛟とうみが辿った運命を見ても瞭然」

 長兄の目が、ぎろりと曜桂を刺す。

 肩の輪郭が揺らぎ、背後に鉄紺の蛟の影が見え隠れした。

 首筋や顎に、鱗模様が明滅する。


「お前たちが生まれた時から、龍泉の破滅は始まっていたのだ!」

 激情に感応し、鉄紺の鱗が浮き上がった。指が裂けて鉤爪かぎつめと化し、背から刃のごときひれが肉を破って伸び上がった。


「兄上……?」

 激昂げっこうを浴びて、曜桂は身を固める。

 伸ばしかけた手が、力なく落ちた。


「哀れな子らと情けをかけたのが、過ちだった!」

 叫びの最後の一音と共に、爪の刃が振り上げられた。


「あに……うえ……」

 曜桂は無に染まりつつある瞳で、半蛟と化した兄を見上げていた。


「曜桂君!!」

 飛び出したのは、青だった。


 硬直した曜桂の腕を引き上げながら、自らの半身で曜桂をかばう――瞬間、鉄紺の爪が青の鎖骨を噛んだ。


「っぁ!」

 斜めに走った衝撃が肩から胸を裂き、衣ごと肌を引き千切った。


「――な」

 曜桂の頬に温い飛沫が飛ぶ。

 青の体は弾き飛ばされ、砂利に跳ねて転がった。


「シユウ!!」

 秋彪の指先から針が放たれる。蛟の振り上げた肩、鱗の隙間に突き立った。

 ジュッ、と酸が肉を灼く音とともに白煙が噴き出す。


『グォッ!』

 蛟が仰け反り、身悶える。


「シユウ!」

 秋彪は砂利を滑り込み、青の背に腕を回して抱き起こした。

 首が力なく垂れる。青は応えなかった。


『オノレ……ッ』

 肩から白煙をくすぶらせたまま、鉄紺の鉤爪が再び振り上げられる。


「っ!」

 兄の凶爪きょうそうを映した曜桂の瞳に、黒焔がゆらめいた。

 頬の涙が急速に乾いて風にさらわれる。


「やめろ!!」

 絶叫し、立ち上がった少年の姿が瞬時に黒鉄の蛟へ変容――裂けるほどに開かれた喉の奥から、圧搾された幾条もの水槍が射出された。一条が鉄紺の肩を貫き、二条が脇腹を抉り、三条目が前肢の鱗を砕いて突き抜ける。


『ガァアッ!』

 続けて曜桂の太い尾がしなり、渾身の一振りが兄の胴を薙いだ。

 骨を砕く鈍い衝撃音と共に、鉄紺の巨躯が水際へ叩きつけられる。

 砕けた鱗の破片が水面へ飛び散った。


 あっけない幕切れだった。


 水煙と砂礫されきが降り落ちて視界が晴れると、波打ち際に残されていたのは人の姿でうつ伏せに倒れる兄の姿だった。


 寄せ返す波が、動かない半身を繰り返し洗っている。


「はぁ……、は……」

 喘鳴ぜんめいと共に黒鉄くろがねの蛟の姿も揺らいで、泥と血に汚れた少年の姿が現れる。


「若様、これは一体!」

 駆けつけた龍泉の兵たちが、兄弟の結末を前に足を縫い留めている。


「聞け……」

 荒い息を噛み殺して曜桂は、西を背に立ち尽くす兵たちへ向き直った。


「聞け!」

 一喝。

 男たちの背筋が伸びた。


「龍泉の名を汚す不届きものらは倒れた……たった今より、私が新たな龍泉の当主である!!」


 声は凛としてよく響き、湖面を渡る。

 兵たちの沈黙の視線が、波に晒される背中と、砂を踏みしめて立つ若者の姿との間を、行き来した。


 やがて――

「曜桂様」

 最前列にいた古参の家臣が角駿かくしゅんを降り、一人、砂利に膝を落とす。


 革と鋼が軋む音を合図に、二人、三人と連鎖し、やがて一団の全てが片膝をついて頭を垂れた。

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