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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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310/311

ep. 73 胤血(1)

 放っておけなかった。

 敬愛する兄に拒絶された曜桂の目に浮かんだ、胸の底が抜け落ちるような痛みが、青の体を動かしていた。


「曜桂君!!」

 硬直した少年の腕を掴んで引き上げた、その瞬間。

 首筋から胸元にかけて、灼けた鉄を押し当てられたような熱が走った。

 全身の力が一瞬で抜け、視界が斜めに傾いた。


 砂利の上に背中から叩きつけられ、二度跳ね、三度転がって止まる。

 口の中に砂の味が広がり、喉の奥から鉄の匂いがせり上がった。


「シユウ!!」

 秋彪の声。

 幼い頃に叱られた時の、藍鬼と同じだと思った。

 勝手に森の奥へ入って雨に打たれ、かじかんだ指先で懸命に師の裾を掴んだ日と。


「シユウ!」

 耳元で声がして背中に腕が回り、上体を引き起こされる。

 やけに重たく感じる手を持ち上げて、青は血に濡れた指で秋彪の袖を掴んだ。


「師……しょ……ぅ」

 呼びかけは、ごぼりと粘ついた液体に絡む。


「……っ」

 秋彪の瞳に、薄墨の影が掠める。

 するりと青の指がほどけ、滑り落ちた。


「青!」

 叫んでから、秋彪は息を詰める。


「――せい……?」

 何故、そう呼んだのか。


「黒士!」

「!」

 背後から近づいてくるイズナの声で我に帰る。

 秋彪は青の体をゆっくりと砂利の上に仰向けに寝かせた。


 襟を左右に開き衣の合わせを押し広げると、左の鎖骨の下から胸の中央へかけて、四本の爪痕が斜めに走っている。傷は思いのほか深くなく、骨までは届いていない。急所も外れていた。


「何だ、これは……」

 傷口の周囲に、数本の黒い帯のようなものが絡みついている。

 微かに湿り気があり、触れた指先に独特の生温い感触が残る。

 生き物の一部のようでもあり、植物の根のようでもあった。


 指先でそれを摘まみ上げると、千切れた縄にも似た黒い繊維は、力なく垂れ下がるだけで動かない。青の肌に張り付いていた残りの数本も、引けば抵抗なく剥がれた。


「こいつが、急所を守ったのか」

 秋彪は黒の帯を何気なく、青の血で汚れた手に握らせた。


 次に傷の周辺を掌で強く圧迫しながら、自らの袖口に歯を立てる。

 一息で引き千切った布を、器用に片手で青の肩の下を通して胸を斜めに巻き、口と片手で固く結び上げた。


「お仲間の怪我は……私のせいで」

 曜桂が振り返りざまに駆け寄ってきた。

 同時に、反対側からイズナが息を切らせて追いつく。

「ど、どうしたのですか!?」


 青を挟んで再対面した二人の目が、交差した。

「あ」

「あ」

 小さな声が、同時に零れ、同時に伏せられる。

 互いに言葉のない小さな会釈だけを向け合い、すぐに、二人の意識は倒れた青へと戻った。


「この方が……シユウ殿、なのですか」

 イズナが、額当てのない青の素顔を見て、僅かに目をみはった。


「傷は思ったよりも深くはない、が」

 秋彪は懐から薬剤符を一枚引き抜いた。

 止血の布の縁から覗く傷の周縁に黒紫色の斑が滲み出し、枝を伸ばすように広がっていく。


 東ではいわゆる「妖瘴」と呼ばれる症状だ。


「解呪」

 符を挟んだ秋彪の手が、サラシの上から傷口に押し当てられる。

 黒い手甲の下で仄かな白い光が灯り、符が端から溶けて消えた。


「傷口周辺の毒は消えた。イズナ」

 秋彪は顔を上げた。


「は、はい!」

「浄毒を頼む。毒が、深い」

「はい!」

 イズナは大きく頷き、青の脇に膝をついた。


 覗き込んだ顔からは、血の色が失われている。

 唇は血で汚れ、額には脂汗が浮いているのに、触れた頬には体温が失われつつある。

 浅く短い呼吸は途切れがちで、吸う息と吐く息の間隔が、少しずつ長くなっていた。


みずちの毒だ……」

 曜桂の顔に、芳しくない色が浮かぶ。

 同胤どういんが持つ毒の威力を、誰よりも理解していた。


「曜桂様! そやつらは禍鬼まがきの連中では」

 背後から、龍泉の兵が警戒を露に近づく。其々《それぞれ》が腰の得物に手を添えていた。


「この方々は恩人だ。無礼は許さぬ!」

 曜桂が振り返り、一喝した。兵たちの足が止まる。


「兄上を連れて、先に屋敷に戻れ。離れの奥部屋へ入れ、見張りを立てろ。それから角駿かくしゅんを三頭、ここに残してくれ」


 兵たちは顔を見合わせるも、すぐに順服じゅんぷくを決め、「は」と短く応じて踵を返した。既に数人の臣下たちの手によって、倒れた兄の搬送準備が進められている。


 曜桂が再び、秋彪へ向き直った。

亀鏡宮ききょうぐうの医局への移送が必要だろうか。必要であれば家臣らに担架を作らせる」


「助かる。まずはここで応急処置をできるところまで――」

 秋彪の言葉が、途切れた。

 視線が、青の手元に落ちている。


 自然と、イズナと曜桂の目がそれを追った。

 青の掌に握られた黒い帯――ミツキの結鬚たまのおが、指の隙間で小刻みに震えている。


「な、何ですかこれは」

「蛇?」


 唐突に、青の袖口から、襟の下から、衣の合わせの隙間から、次々と同じ黒いひげが這い出した。


「きゃっ!」

「うわっ」

 イズナと曜桂が、同時に身を引く。


 一本、二本、十本、数えきれぬほどの黒い繊維が、空気を求めるように伸び上がり、互いに絡み合い、編み上がり、織りなして――足先から、胴、尾、首の順番に黒狼の輪郭を形作っていった。最後は額に、螺旋らせんを描きながら天を突く一本の角が突き上がる。


 鬚で編まれた一角の黒狼は、青の傍らで四肢を踏ん張り、体を低く沈めた。


『グゥウウウウ……』

 喉の奥から絞り出された唸りに呼応して、角の先端に光が灯る。


 光は角の表面を伝い、螺旋の溝を辿って根元まで流れ落ちる。

 光は額から降りて尾の先までの全身を包み込み、まゆの形に膨らんだかと思うと、炸裂した。


「っ!」

「きゃ!」

 網膜を焼かれるほどの眩しさに、誰もが顔を背ける。


 灯りを吹き消すかの如く白光がすとんと落ちた。

 恐々と開いたまぶたの向こうに人影が映る。


 そこに、幼い少年がひとり、立っていた。

 白銀の柔らかな髪、透ける肌に、半袖や履き物から伸びる、華奢な手足。


「み、見つけた……」

 少年――ミツキは頬を赤く染め、全身で荒い息をつく。


「やっと見つけた……っ、シユウさま!」

 膝をもつれさせながら、秋彪やイズナを押しやって、倒れている青の元へ駆け寄り崩れ落ちるように抱きついた。


「この子、翡翠邦ひすいほうで見たような」

 イズナは押しのけられた体勢のまま、記憶を巡らせる。

 シユウの側について回っていた、黒犬の獣人の子どもだ。


「曜桂様」

 古参の家臣の一人が、曜桂の背に声を寄せた。

「黒い体に一角……あの童はまさか――」


 その先は、ミツキの叫び声に掻き消される。


「シユウさま、シユウさま!」

 ミツキは青の胸にすがりつき、何度も名前を呼んで体を揺さぶった。


「動かすな、毒が回る」

 秋彪の手が、ミツキと青の間に差し込まれる。

「ダメっ!」

 ミツキは秋彪の手を振り払おうとして、顔を上げた。


「あ……」

 秋彪と目が合った瞬間、びくりと体が強張り、細い肩が小さくすくむ。

 みるみる鼻の頭や頬が赤くなって、泣き出す直前の赤子のように唇が歪んだ。


「ぼ、僕が、助けるんだから……」

 震える声を絞り出し、ミツキは秋彪の手をゆるりと押し戻す。


「……」

 秋彪は逆らわなかった。


 ミツキは青の上にふわりと身を屈める。

 白銀の髪が青の頬やあごを撫で、小さな唇が、爪痕が走る鎖骨の上にそっと触れた。


 淡い光が、灯る。

 ミツキの小さな体表を、ほのかな燐光を放つ銀の粒子が流れ、青の皮膚と触れ合う接点から傷口へと染み込む。


壊疽えそが……」

 黒紫のはんが、みるみる薄らいだ。


 皮膚の肌理きめから毒々しい色素がせていくに従い、青の顔色に薄い赤みが差していく。浅く途切れがちだった呼吸が、深く、穏やかな波を取り戻していった。


「シユウさま」

 ミツキは小さな手で、青の頬を左右から挟む。


「起きて」

 ぺち、と軽く叩く。


「起きて、シユウさま」

 ぺち、ぺち。

 幼いてのひらが、焦れるように何度も頬を打つ。


 秋彪は慎重に手を伸ばし、止血のために巻いた布を解いた。

 黒紫の壊疽も、爪の裂傷も、消えている。


 ただ一箇所、左の鎖骨の上に判のように小さな痕が残った。

 三日月に似た、小さな獣の牙が押し当てられたようなあざだ。


「……ぅ」

 青の唇から吐息が漏れ、閉じられていた瞼が重たげに持ち上がる。


「シユウさま!」

 ミツキが歓声を上げて青の腹に巻きついた。


「……?」

 青はゆっくりと顔を持ち上げた。

 体の節々を確かめるように、少しずつ、体を起こしていく。


 砂利の上に座して、自分の腹にしがみつく小さな体を、ぼんやりと見下ろした。

 続いて秋彪、イズナ、曜桂へと、寝起きの子どものような黒い瞳が、通り過ぎる。


「良かった……」

 イズナは、胸を撫で下ろした。


 ほっと長い息を吐いて伏せた目線の先で、砂利の上に転がる黒い塊が目に留まる。

 拾い上げるとそれは、鬼豹きひょうを象った襟留めの装飾品だった。

 工匠の友人がこしらえたものだと、以前に聞いたことがある。


「気分は、どうだ」

 秋彪が、青の顔を覗き込みながら問いかけた。


「えぇっと……僕、は……」

 青の乾いた唇が、かろうじて意味を成す、掠れた声を発する。

 言葉はそれきり、止まった。


「シユウさま、僕ね」

 ミツキが青の腹に頬を埋めたまま、せきを切ったように話し始めた。


「シユウさまの匂いをずっと探してたんだ。里からずっとずっと、糸を辿るの。すごく遠かったんだけど、でもだんだん近くなってきて――」


 頭を撫でてくれる手が、ない。

 不安になり、ミツキは顔を上げて青を見た。


「シユウさま……?」

 焦点の合わない黒い瞳が、空を泳いでいる。


「シユウ殿、これを」

 イズナは襟留めを青の前に差し出した。

 だが返ってきたのは、


「……?」

 感情が抜け落ちた面持ちで、小さく首を傾げる。

 それだけ。


「黒士、これは」

 イズナは助けを求めて秋彪へ目配せをする。


「ああ……」

 秋彪は眉間に薄く苦渋を浮かべ、迷子のように視線を彷徨さまよわす青の様子を観ていた。無意識に左手が重々しく上がって、己の襟に隠れた頸に触れる。


 指先が、黒く色が沈着した小さな痣を撫でていた。

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