ep. 73 胤血(1)
放っておけなかった。
敬愛する兄に拒絶された曜桂の目に浮かんだ、胸の底が抜け落ちるような痛みが、青の体を動かしていた。
「曜桂君!!」
硬直した少年の腕を掴んで引き上げた、その瞬間。
首筋から胸元にかけて、灼けた鉄を押し当てられたような熱が走った。
全身の力が一瞬で抜け、視界が斜めに傾いた。
砂利の上に背中から叩きつけられ、二度跳ね、三度転がって止まる。
口の中に砂の味が広がり、喉の奥から鉄の匂いがせり上がった。
「シユウ!!」
秋彪の声。
幼い頃に叱られた時の、藍鬼と同じだと思った。
勝手に森の奥へ入って雨に打たれ、悴んだ指先で懸命に師の裾を掴んだ日と。
「シユウ!」
耳元で声がして背中に腕が回り、上体を引き起こされる。
やけに重たく感じる手を持ち上げて、青は血に濡れた指で秋彪の袖を掴んだ。
「師……しょ……ぅ」
呼びかけは、ごぼりと粘ついた液体に絡む。
「……っ」
秋彪の瞳に、薄墨の影が掠める。
するりと青の指がほどけ、滑り落ちた。
「青!」
叫んでから、秋彪は息を詰める。
「――せい……?」
何故、そう呼んだのか。
「黒士!」
「!」
背後から近づいてくるイズナの声で我に帰る。
秋彪は青の体をゆっくりと砂利の上に仰向けに寝かせた。
襟を左右に開き衣の合わせを押し広げると、左の鎖骨の下から胸の中央へかけて、四本の爪痕が斜めに走っている。傷は思いのほか深くなく、骨までは届いていない。急所も外れていた。
「何だ、これは……」
傷口の周囲に、数本の黒い帯のようなものが絡みついている。
微かに湿り気があり、触れた指先に独特の生温い感触が残る。
生き物の一部のようでもあり、植物の根のようでもあった。
指先でそれを摘まみ上げると、千切れた縄にも似た黒い繊維は、力なく垂れ下がるだけで動かない。青の肌に張り付いていた残りの数本も、引けば抵抗なく剥がれた。
「こいつが、急所を守ったのか」
秋彪は黒の帯を何気なく、青の血で汚れた手に握らせた。
次に傷の周辺を掌で強く圧迫しながら、自らの袖口に歯を立てる。
一息で引き千切った布を、器用に片手で青の肩の下を通して胸を斜めに巻き、口と片手で固く結び上げた。
「お仲間の怪我は……私のせいで」
曜桂が振り返りざまに駆け寄ってきた。
同時に、反対側からイズナが息を切らせて追いつく。
「ど、どうしたのですか!?」
青を挟んで再対面した二人の目が、交差した。
「あ」
「あ」
小さな声が、同時に零れ、同時に伏せられる。
互いに言葉のない小さな会釈だけを向け合い、すぐに、二人の意識は倒れた青へと戻った。
「この方が……シユウ殿、なのですか」
イズナが、額当てのない青の素顔を見て、僅かに目を瞠った。
「傷は思ったよりも深くはない、が」
秋彪は懐から薬剤符を一枚引き抜いた。
止血の布の縁から覗く傷の周縁に黒紫色の斑が滲み出し、枝を伸ばすように広がっていく。
東ではいわゆる「妖瘴」と呼ばれる症状だ。
「解呪」
符を挟んだ秋彪の手が、サラシの上から傷口に押し当てられる。
黒い手甲の下で仄かな白い光が灯り、符が端から溶けて消えた。
「傷口周辺の毒は消えた。イズナ」
秋彪は顔を上げた。
「は、はい!」
「浄毒を頼む。毒が、深い」
「はい!」
イズナは大きく頷き、青の脇に膝をついた。
覗き込んだ顔からは、血の色が失われている。
唇は血で汚れ、額には脂汗が浮いているのに、触れた頬には体温が失われつつある。
浅く短い呼吸は途切れがちで、吸う息と吐く息の間隔が、少しずつ長くなっていた。
「蛟の毒だ……」
曜桂の顔に、芳しくない色が浮かぶ。
同胤が持つ毒の威力を、誰よりも理解していた。
「曜桂様! そやつらは禍鬼の連中では」
背後から、龍泉の兵が警戒を露に近づく。其々《それぞれ》が腰の得物に手を添えていた。
「この方々は恩人だ。無礼は許さぬ!」
曜桂が振り返り、一喝した。兵たちの足が止まる。
「兄上を連れて、先に屋敷に戻れ。離れの奥部屋へ入れ、見張りを立てろ。それから角駿を三頭、ここに残してくれ」
兵たちは顔を見合わせるも、すぐに順服を決め、「は」と短く応じて踵を返した。既に数人の臣下たちの手によって、倒れた兄の搬送準備が進められている。
曜桂が再び、秋彪へ向き直った。
「亀鏡宮の医局への移送が必要だろうか。必要であれば家臣らに担架を作らせる」
「助かる。まずはここで応急処置をできるところまで――」
秋彪の言葉が、途切れた。
視線が、青の手元に落ちている。
自然と、イズナと曜桂の目がそれを追った。
青の掌に握られた黒い帯――ミツキの結鬚が、指の隙間で小刻みに震えている。
「な、何ですかこれは」
「蛇?」
唐突に、青の袖口から、襟の下から、衣の合わせの隙間から、次々と同じ黒い鬚が這い出した。
「きゃっ!」
「うわっ」
イズナと曜桂が、同時に身を引く。
一本、二本、十本、数えきれぬほどの黒い繊維が、空気を求めるように伸び上がり、互いに絡み合い、編み上がり、織りなして――足先から、胴、尾、首の順番に黒狼の輪郭を形作っていった。最後は額に、螺旋を描きながら天を突く一本の角が突き上がる。
鬚で編まれた一角の黒狼は、青の傍らで四肢を踏ん張り、体を低く沈めた。
『グゥウウウウ……』
喉の奥から絞り出された唸りに呼応して、角の先端に光が灯る。
光は角の表面を伝い、螺旋の溝を辿って根元まで流れ落ちる。
光は額から降りて尾の先までの全身を包み込み、繭の形に膨らんだかと思うと、炸裂した。
「っ!」
「きゃ!」
網膜を焼かれるほどの眩しさに、誰もが顔を背ける。
灯りを吹き消すかの如く白光がすとんと落ちた。
恐々と開いた瞼の向こうに人影が映る。
そこに、幼い少年がひとり、立っていた。
白銀の柔らかな髪、透ける肌に、半袖や履き物から伸びる、華奢な手足。
「み、見つけた……」
少年――ミツキは頬を赤く染め、全身で荒い息をつく。
「やっと見つけた……っ、シユウさま!」
膝をもつれさせながら、秋彪やイズナを押しやって、倒れている青の元へ駆け寄り崩れ落ちるように抱きついた。
「この子、翡翠邦で見たような」
イズナは押しのけられた体勢のまま、記憶を巡らせる。
シユウの側について回っていた、黒犬の獣人の子どもだ。
「曜桂様」
古参の家臣の一人が、曜桂の背に声を寄せた。
「黒い体に一角……あの童はまさか――」
その先は、ミツキの叫び声に掻き消される。
「シユウさま、シユウさま!」
ミツキは青の胸に縋りつき、何度も名前を呼んで体を揺さぶった。
「動かすな、毒が回る」
秋彪の手が、ミツキと青の間に差し込まれる。
「ダメっ!」
ミツキは秋彪の手を振り払おうとして、顔を上げた。
「あ……」
秋彪と目が合った瞬間、びくりと体が強張り、細い肩が小さく竦む。
みるみる鼻の頭や頬が赤くなって、泣き出す直前の赤子のように唇が歪んだ。
「ぼ、僕が、助けるんだから……」
震える声を絞り出し、ミツキは秋彪の手をゆるりと押し戻す。
「……」
秋彪は逆らわなかった。
ミツキは青の上にふわりと身を屈める。
白銀の髪が青の頬や顎を撫で、小さな唇が、爪痕が走る鎖骨の上にそっと触れた。
淡い光が、灯る。
ミツキの小さな体表を、仄かな燐光を放つ銀の粒子が流れ、青の皮膚と触れ合う接点から傷口へと染み込む。
「壊疽が……」
黒紫の斑が、みるみる薄らいだ。
皮膚の肌理から毒々しい色素が褪せていくに従い、青の顔色に薄い赤みが差していく。浅く途切れがちだった呼吸が、深く、穏やかな波を取り戻していった。
「シユウさま」
ミツキは小さな手で、青の頬を左右から挟む。
「起きて」
ぺち、と軽く叩く。
「起きて、シユウさま」
ぺち、ぺち。
幼い掌が、焦れるように何度も頬を打つ。
秋彪は慎重に手を伸ばし、止血のために巻いた布を解いた。
黒紫の壊疽も、爪の裂傷も、消えている。
ただ一箇所、左の鎖骨の上に判のように小さな痕が残った。
三日月に似た、小さな獣の牙が押し当てられたような痣だ。
「……ぅ」
青の唇から吐息が漏れ、閉じられていた瞼が重たげに持ち上がる。
「シユウさま!」
ミツキが歓声を上げて青の腹に巻きついた。
「……?」
青はゆっくりと顔を持ち上げた。
体の節々を確かめるように、少しずつ、体を起こしていく。
砂利の上に座して、自分の腹にしがみつく小さな体を、ぼんやりと見下ろした。
続いて秋彪、イズナ、曜桂へと、寝起きの子どものような黒い瞳が、通り過ぎる。
「良かった……」
イズナは、胸を撫で下ろした。
ほっと長い息を吐いて伏せた目線の先で、砂利の上に転がる黒い塊が目に留まる。
拾い上げるとそれは、鬼豹を象った襟留めの装飾品だった。
工匠の友人が拵えたものだと、以前に聞いたことがある。
「気分は、どうだ」
秋彪が、青の顔を覗き込みながら問いかけた。
「えぇっと……僕、は……」
青の乾いた唇が、かろうじて意味を成す、掠れた声を発する。
言葉はそれきり、止まった。
「シユウさま、僕ね」
ミツキが青の腹に頬を埋めたまま、堰を切ったように話し始めた。
「シユウさまの匂いをずっと探してたんだ。里からずっとずっと、糸を辿るの。すごく遠かったんだけど、でもだんだん近くなってきて――」
頭を撫でてくれる手が、ない。
不安になり、ミツキは顔を上げて青を見た。
「シユウさま……?」
焦点の合わない黒い瞳が、空を泳いでいる。
「シユウ殿、これを」
イズナは襟留めを青の前に差し出した。
だが返ってきたのは、
「……?」
感情が抜け落ちた面持ちで、小さく首を傾げる。
それだけ。
「黒士、これは」
イズナは助けを求めて秋彪へ目配せをする。
「ああ……」
秋彪は眉間に薄く苦渋を浮かべ、迷子のように視線を彷徨わす青の様子を観ていた。無意識に左手が重々しく上がって、己の襟に隠れた頸に触れる。
指先が、黒く色が沈着した小さな痣を撫でていた。




