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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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ep. 73 胤血(2)

 その頃――遥か東方、凪之国。


 里薺りせいは、都の外れにある転送陣へと足を向けていた。

 青に管理を託された、森の小屋の風通しと掃除のために。

 それが里薺にとって、青の無事を願う祈りの代わりであった。


 道すがら、懐から通行証の木札を取り出す。

「これは」

 異変は明らかだった。

 角張った筆致で走る赤い血文字と、隅に捺された龍の血判。

 いずれも色が、褪せかけていた。


「一師に、何かが?」

 蚕面かいこめんの奥で、小さな動揺があふれる。


 里薺は白い石畳の道を逸れ、街路の木陰に足を止めた。

 木札を両手で持ち直し、文字の一画一画を子細に辿る。


 血判通行証の血文字は術力で封じられているため、経年による色褪せは生じない。

 昨日までは確かに、焼印のようにくっきりと木肌に染み付いていた赤が、今は雨に打たれた書のように掠れている。


玄瑞げんずい様……いや、山吹様にご報告するべきか」

 里薺は木陰に佇んだまま、てのひらの中の木札を握りしめていた。



 立ち上がってみると、体が妙に軽かった。


 足裏に触れる砂利の凹凸おうとつの感触をきっかけに、体の末端から中心にかけて感覚が戻り始める。四肢の隅々にまで澄んだ水が通ったかのように、体の芯からすっきりとんでいた。


 ただ、頭だけが重たい。

 寝過ぎた朝のようにまぶたの裏がぼんやりとして、額の奥に薄い幕が垂れているうずきが残った。


「シユウさま!」

 声につられて下を向くと、白銀の綿毛のような頭髪が目に入った。

 幼い少年が腹にしがみついている。


「シユウさま、どこか痛い?」

「……痛み……は無いよ。ありがとう」


 青は少年へ、微笑みを返した。

 なぜこの子が自分に懐いているのか、分からない。


 名前は。

 この子の、名前は。


「……み」

 碧い瞳を見つめ返しているうちに、風に揺れた幕の隙間から陽が覗くように、頭の中に音と文字が浮かび上がってくる。


「み、つき……?」

 声に出した瞬間、小さな体が跳ねた。

「うんっ!」

 満面の笑みを弾けさせ、少年――ミツキは青の胴にしがみつく両腕に力を込める。


「う」

 思いのほか、力が強くて、痛い。

 白銀の髪の下で、ぴい、ぴいと子犬のような鼻鳴きが聞こえた。


「お体は、大丈夫そうですね」

 幾分か年下であろう少女が、横から恐る恐るに顔を覗き込んでくる。


 頬に散らした淡い鱗が、螺鈿らでん細工のようで綺麗だ。

 黒い装いの上に、青緑の麻ノ葉桔梗(あさのはききょう)柄の肩掛けを重ねた姿。


 知らない相手ではないはずだ。

 嫌な印象はない。

 むしろ親しみがあった。


「記憶が、混濁こんだくしているのですか」

 少女の横から、遠慮がちな声がかかる。

 まだ線の細い、少年だ。


 この子のことも、知っている気がする。

 華奢きゃしゃ風情ふぜいの中に、猛々《たけだけ》しい精神が宿っていることも。


 それでも、やはり、名前が浮かばない。


「自分のことは、分かるか」

 少年と少女の一歩前に立つ男にそう言われて、青は片手を自分の顔へ持ち上げた。

 額に触れ、鼻梁びりょうを滑り、頬の輪郭を確かめていく。


 視線を下ろしていくと、黒装束の胸元が大きく開けられて、切り裂かれた襟が見えた。指先で摘まんでみると、血が乾いて繊維が固くなっている。


 己の両手を包む手甲が目に入る。

 滑らかな黒革の表面に、銀板が縫い付けられていた。

 指先で硬い面を撫でると、浮き彫りの凹凸が伝わる。


「龍……?」

 指先に、力を込めた瞬間だった。


「っぅ!」

 左腕に、鋭い痛みが走った。


 手甲に触れた指先から、肘を通り、肩を抜けて、頭蓋の奥にまで突き刺すような衝撃。青はミツキを抱え込むように上半身を丸めた。


「シユウさま!?」

 ミツキが慌てて、己の体で青を支えようとする。


「どうした」

 男が手を伸ばし、青の肩に触れた。


「僕、は……」

 青はミツキを抱き込んだまま身を折り、痛みをやり過ごそうと強引に呼吸を繰り返す。


「せ、い」

 唇が、震えながら言葉を探した。


「大月……、いや、私、僕、は、シユウ……? 毒術の……」

 記憶の破片を繋ぎ合わせようとして、繋がらず、また散る。

 少しずつ痛みが引くと共に、青はゆっくりと体を起こした。


「シユウ」

 呼ばれて、顔を上げる。

 自覚があるほどに泳ぐ視線が、正面から肩を支える男を捉えた。


「あなたは……」

 同じくらいの背丈、体格。

 隙のない鋭さと涼やかさが共存する相貌が、神妙にこちらを見据えている。


 雨雲のような薄墨の右目。

 一方の左目には三日月のように金色が差しており、その左右の不揃いが、どこか人ならぬ印象を纏わせていた。


 青はその目を見つめた。

 二つの色が炎の陰りに揺れる光景が、記憶の底で瞬いた。


 焚き火だ。

 焚き火の向こう側に、この目があった。

 記憶の中で炎が揺れ、膨れ、頭の中を埋め尽くす。


「熱っ……」

 紅蓮のとばりが、視界いっぱいに揺らめいている。

 産毛を焦がすほどの熱が頬を灼き、火の粉が降りかかる。

 燃え盛る壁の向こうで、巨獣の影が暴れていた。


 ――下がっていろ。


 と、立ち塞がる背中。

 闇に溶ける黒い装束。

 低く落ち着いた、男の声。


 あの声は。

 あの夜の、あの炎の、あの――頭の中の幕が、熱風に煽られて大きくめくれた。


 その向こうに言葉が、文字が、名前が隠れていて、あと少しで見えるのに見えない。


「誰……」

 胸の奥で、何かがせきを切った。

 温かさと、痛みと、懐かしさと、胸を握り潰されるような切実さが一度に押し寄せて、体の内側を灼く。


 この人を知っている。

 この人のことを。


 ずっと、ずっと――求めていた。

 なのに、その理由を思い出せない。

 胸腔の奥が焼き尽くされそうだ。

 熱が喉を這い上がり、目の奥に溜まっていく。

 瞬きをすれば、決壊して零れそうだった。


 吸っても吐いても、息苦しさが抜けない。

 この苦しみを、知っている。


 記憶の底で、雨音がした。

 あれは、どこか薄暗くて狭い空間、繁吹しぶき雨が天井や壁を叩いていた。


 その真ん中で、泣いて、泣いて、ただひたすらに泣くことしかできず、手足を我武者羅がむしゃらに振り回して硬い床を叩いた。何度も、何度も。

 心の痛みと比べて、手足の痛みなど、何ほどのこともなかった。


「し……」

 師匠――と呼びかけた唇が、凍りつく。

 押し出そうとするほどに、喉の奥に言葉が詰まる。


 頭と胸が爆発してしまいそうだ。

 あふれかけた感情をき止めたくて、青はその場にうずくまった。


「シユウさま……やっぱり、どこか痛い?」

 小さな体が、背中に飛び乗るように覆い被さる。

 短い腕で精一杯、肩口にしがみついて頬を押し当ててきた。


 陽にさらした麦わらの温もりと匂いに包まれて、青は膝に顔を埋めたまま、思考を閉じた。



「あの」

 秋彪とイズナに向けて、曜桂が一歩、進み出た。


「どうぞ我が家にいらしてください。ご静養や治療が必要ではないですか」

 曜桂の視線が、動かなくなった青を見やる。


「黒士……」

 戸惑うイズナの視線が、判断を求めて秋彪へ向いた。


 三つ、呼吸を数える間の沈黙を挟み、

「世話になる」

 秋彪は短く応えた。


「ぜひ。いま角駿かくしゅんの準備をさせます」

 ほっと、面ざしから強張りが抜けて、曜桂は水際で待機している家臣たちの元へと駆けていった。


「黒士、よろしいのですか……」

 イズナが声を落として秋彪へ問いかけた。

 視線はちらちらと、ミツキに抱きつかれたまま蹲っている青を気にかけている。


「好都合だ」

 師の簡潔すぎる答えに、一瞬、イズナの眉が僅かに曇った。


 だが今の青に必要なのは、療養が可能である安全な環境。

 律盟衆を「禍鬼まがき」と忌み嫌っていた龍泉家を、味方につけられた。

 この国の中枢への渡りをつける好機でもある。


 曜琳のことも心配だ。


「そうだ……あの、黒士」

 再び秋彪を呼び止め、イズナはずっと握りしめていた黒い襟留えりどめを、差し出した。


「シユウ殿の襟留めです。預かっていただけませんか」

「俺が?」

 差し出した秋彪の掌の上に、イズナは鬼豹をそっと乗せた。


「黒士より頂戴した仮面と同じ、鬼豹きひょうだそうです。珍しい偶然ですよね!」

「鬼豹……」


 秋彪の指が、襟留めを摘まみ上げる。

 涼やかな薄墨の瞳に、小さな波紋が落ちた。


「黒猫ではなかったのか」

 秋彪の親指が、獣の背をやわくでた。

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