ep. 73 胤血(2)
その頃――遥か東方、凪之国。
里薺は、都の外れにある転送陣へと足を向けていた。
青に管理を託された、森の小屋の風通しと掃除のために。
それが里薺にとって、青の無事を願う祈りの代わりであった。
道すがら、懐から通行証の木札を取り出す。
「これは」
異変は明らかだった。
角張った筆致で走る赤い血文字と、隅に捺された龍の血判。
いずれも色が、褪せかけていた。
「一師に、何かが?」
蚕面の奥で、小さな動揺が溢れる。
里薺は白い石畳の道を逸れ、街路の木陰に足を止めた。
木札を両手で持ち直し、文字の一画一画を子細に辿る。
血判通行証の血文字は術力で封じられているため、経年による色褪せは生じない。
昨日までは確かに、焼印のようにくっきりと木肌に染み付いていた赤が、今は雨に打たれた書のように掠れている。
「玄瑞様……いや、山吹様にご報告するべきか」
里薺は木陰に佇んだまま、掌の中の木札を握りしめていた。
*
立ち上がってみると、体が妙に軽かった。
足裏に触れる砂利の凹凸の感触をきっかけに、体の末端から中心にかけて感覚が戻り始める。四肢の隅々にまで澄んだ水が通ったかのように、体の芯からすっきりと清んでいた。
ただ、頭だけが重たい。
寝過ぎた朝のように瞼の裏がぼんやりとして、額の奥に薄い幕が垂れている疼きが残った。
「シユウさま!」
声につられて下を向くと、白銀の綿毛のような頭髪が目に入った。
幼い少年が腹にしがみついている。
「シユウさま、どこか痛い?」
「……痛み……は無いよ。ありがとう」
青は少年へ、微笑みを返した。
なぜこの子が自分に懐いているのか、分からない。
名前は。
この子の、名前は。
「……み」
碧い瞳を見つめ返しているうちに、風に揺れた幕の隙間から陽が覗くように、頭の中に音と文字が浮かび上がってくる。
「み、つき……?」
声に出した瞬間、小さな体が跳ねた。
「うんっ!」
満面の笑みを弾けさせ、少年――ミツキは青の胴にしがみつく両腕に力を込める。
「う」
思いのほか、力が強くて、痛い。
白銀の髪の下で、ぴい、ぴいと子犬のような鼻鳴きが聞こえた。
「お体は、大丈夫そうですね」
幾分か年下であろう少女が、横から恐る恐るに顔を覗き込んでくる。
頬に散らした淡い鱗が、螺鈿細工のようで綺麗だ。
黒い装いの上に、青緑の麻ノ葉桔梗柄の肩掛けを重ねた姿。
知らない相手ではないはずだ。
嫌な印象はない。
むしろ親しみがあった。
「記憶が、混濁しているのですか」
少女の横から、遠慮がちな声がかかる。
まだ線の細い、少年だ。
この子のことも、知っている気がする。
華奢な風情の中に、猛々《たけだけ》しい精神が宿っていることも。
それでも、やはり、名前が浮かばない。
「自分のことは、分かるか」
少年と少女の一歩前に立つ男にそう言われて、青は片手を自分の顔へ持ち上げた。
額に触れ、鼻梁を滑り、頬の輪郭を確かめていく。
視線を下ろしていくと、黒装束の胸元が大きく開けられて、切り裂かれた襟が見えた。指先で摘まんでみると、血が乾いて繊維が固くなっている。
己の両手を包む手甲が目に入る。
滑らかな黒革の表面に、銀板が縫い付けられていた。
指先で硬い面を撫でると、浮き彫りの凹凸が伝わる。
「龍……?」
指先に、力を込めた瞬間だった。
「っぅ!」
左腕に、鋭い痛みが走った。
手甲に触れた指先から、肘を通り、肩を抜けて、頭蓋の奥にまで突き刺すような衝撃。青はミツキを抱え込むように上半身を丸めた。
「シユウさま!?」
ミツキが慌てて、己の体で青を支えようとする。
「どうした」
男が手を伸ばし、青の肩に触れた。
「僕、は……」
青はミツキを抱き込んだまま身を折り、痛みをやり過ごそうと強引に呼吸を繰り返す。
「せ、い」
唇が、震えながら言葉を探した。
「大月……、いや、私、僕、は、シユウ……? 毒術の……」
記憶の破片を繋ぎ合わせようとして、繋がらず、また散る。
少しずつ痛みが引くと共に、青はゆっくりと体を起こした。
「シユウ」
呼ばれて、顔を上げる。
自覚があるほどに泳ぐ視線が、正面から肩を支える男を捉えた。
「あなたは……」
同じくらいの背丈、体格。
隙のない鋭さと涼やかさが共存する相貌が、神妙にこちらを見据えている。
雨雲のような薄墨の右目。
一方の左目には三日月のように金色が差しており、その左右の不揃いが、どこか人ならぬ印象を纏わせていた。
青はその目を見つめた。
二つの色が炎の陰りに揺れる光景が、記憶の底で瞬いた。
焚き火だ。
焚き火の向こう側に、この目があった。
記憶の中で炎が揺れ、膨れ、頭の中を埋め尽くす。
「熱っ……」
紅蓮の帳が、視界いっぱいに揺らめいている。
産毛を焦がすほどの熱が頬を灼き、火の粉が降りかかる。
燃え盛る壁の向こうで、巨獣の影が暴れていた。
――下がっていろ。
と、立ち塞がる背中。
闇に溶ける黒い装束。
低く落ち着いた、男の声。
あの声は。
あの夜の、あの炎の、あの――頭の中の幕が、熱風に煽られて大きく捲れた。
その向こうに言葉が、文字が、名前が隠れていて、あと少しで見えるのに見えない。
「誰……」
胸の奥で、何かが堰を切った。
温かさと、痛みと、懐かしさと、胸を握り潰されるような切実さが一度に押し寄せて、体の内側を灼く。
この人を知っている。
この人のことを。
ずっと、ずっと――求めていた。
なのに、その理由を思い出せない。
胸腔の奥が焼き尽くされそうだ。
熱が喉を這い上がり、目の奥に溜まっていく。
瞬きをすれば、決壊して零れそうだった。
吸っても吐いても、息苦しさが抜けない。
この苦しみを、知っている。
記憶の底で、雨音がした。
あれは、どこか薄暗くて狭い空間、繁吹き雨が天井や壁を叩いていた。
その真ん中で、泣いて、泣いて、ただひたすらに泣くことしかできず、手足を我武者羅に振り回して硬い床を叩いた。何度も、何度も。
心の痛みと比べて、手足の痛みなど、何ほどのこともなかった。
「し……」
師匠――と呼びかけた唇が、凍りつく。
押し出そうとするほどに、喉の奥に言葉が詰まる。
頭と胸が爆発してしまいそうだ。
溢れかけた感情を堰き止めたくて、青はその場に蹲った。
「シユウさま……やっぱり、どこか痛い?」
小さな体が、背中に飛び乗るように覆い被さる。
短い腕で精一杯、肩口にしがみついて頬を押し当ててきた。
陽にさらした麦わらの温もりと匂いに包まれて、青は膝に顔を埋めたまま、思考を閉じた。
*
「あの」
秋彪とイズナに向けて、曜桂が一歩、進み出た。
「どうぞ我が家にいらしてください。ご静養や治療が必要ではないですか」
曜桂の視線が、動かなくなった青を見やる。
「黒士……」
戸惑うイズナの視線が、判断を求めて秋彪へ向いた。
三つ、呼吸を数える間の沈黙を挟み、
「世話になる」
秋彪は短く応えた。
「ぜひ。いま角駿の準備をさせます」
ほっと、面ざしから強張りが抜けて、曜桂は水際で待機している家臣たちの元へと駆けていった。
「黒士、よろしいのですか……」
イズナが声を落として秋彪へ問いかけた。
視線はちらちらと、ミツキに抱きつかれたまま蹲っている青を気にかけている。
「好都合だ」
師の簡潔すぎる答えに、一瞬、イズナの眉が僅かに曇った。
だが今の青に必要なのは、療養が可能である安全な環境。
律盟衆を「禍鬼」と忌み嫌っていた龍泉家を、味方につけられた。
この国の中枢への渡りをつける好機でもある。
曜琳のことも心配だ。
「そうだ……あの、黒士」
再び秋彪を呼び止め、イズナはずっと握りしめていた黒い襟留めを、差し出した。
「シユウ殿の襟留めです。預かっていただけませんか」
「俺が?」
差し出した秋彪の掌の上に、イズナは鬼豹をそっと乗せた。
「黒士より頂戴した仮面と同じ、鬼豹だそうです。珍しい偶然ですよね!」
「鬼豹……」
秋彪の指が、襟留めを摘まみ上げる。
涼やかな薄墨の瞳に、小さな波紋が落ちた。
「黒猫ではなかったのか」
秋彪の親指が、獣の背をやわく撫でた。




