第6話:新しい名前と、沈黙の盾
「七七四番。お前に名前はあるか」
エレン中佐の問いに、私は手枷を外された手首をさすりながら答えた。
「……レイ。そう記憶しています」
「そうか。ならばレイ、お前の最初の仕事だ。ついてこい」
彼女は踵を返し、テントの外へ歩き出した。
憲兵の監視はすでにない。私は静かに彼女の背中を追った。
夜明け前の最前線。
軍の精鋭部隊が、息を殺して出撃の合図を待っていた。彼らの視線の先、およそ三百メートル離れた谷の入り口には、敵の強固な防衛魔法『鉄壁の盾』が青白い光を放ってそびえ立っている。
「あれのせいで、我が軍の進軍が三日遅れている。大砲も上位魔法も弾き返された」
エレン中佐は双眼鏡を下ろし、私を一瞥した。
「壊せるか」
私は目を細め、谷を塞ぐ青白い光の壁を観察した。
光の表面に浮かび上がる、複雑に絡み合った魔力の線。強固に見えるが、どこか不自然に力が偏っている箇所がある。
「……五分、時間をいただけますか」
「許可する」
私は陣地から歩み出た。
精鋭部隊の兵士たちが、いぶかしげな視線を向けてくる。無理もない。武器も持たない泥だらけの平民が、単身で敵の絶対防衛線に向かって歩き出したのだから。
光の壁まで残り十メートル。
肌がビリビリと痺れるほどの魔圧を感じる。
私は立ち止まり、足元に落ちていた折れた鉄の短剣を拾い上げた。
壁を構成する魔力の流れを視覚化する。全体の強度は申し分ない。だが、これだけ巨大な防壁を維持するために、地脈から魔力を汲み上げる「吸い上げ口」に相当な負荷がかかっている。
言葉による説明は不要だ。
私はただ、光の壁の根元、地面と魔力が交わる一点を見つめた。
(ここだ)
拾った短剣を逆手に握り、その一点に向けて、正確な角度で刃を突き立てた。
ガィンッ!
金属が硬い岩にぶつかる鈍い音。
短剣の刃が欠け、私の手にも強い痺れが走る。
それだけだった。
光の壁にヒビが入ることも、爆発が起きることもない。
背後から、味方の兵士たちの失望したようなざわめきが聞こえ始めた。ただの狂人の奇行だと思われたのだろう。
だが、私は刃を突き立てたまま、小さく「三」と数えた。
一。
二。
三。
フッ……。
突如、谷を塞いでいた巨大な青白い光が、ロウソクの火を吹き消すように消滅した。
音も、光の余波もなく。ただ、防壁が存在していたという事実だけが、空間から綺麗に消え去った。
「……なっ!?」
「壁が、消えたぞ……!?」
精鋭部隊の兵士たちが呆然と声を漏らす。
敵の陣地からも、信じられないものを見たような動揺の気配が伝わってきた。
私は欠けた短剣を捨て、静かに振り返った。
エレン中佐だけが、当然の結果を見たというように冷たい笑みを浮かべていた。
「全軍、突撃しろ」
彼女の短く鋭い号令とともに、進軍のラッパが夜明けの空に響き渡る。
私の新しい仕事が、本格的に始まった瞬間だった。




