#9 踊り場
絶望的な死闘を潜り抜け、右側の洞窟の最奥部で巨大な青白いブレスドラゴン級を撃破した翌日のこと。
我々の帰還と共に、ここ第二階層の前線基地にはつかの間の安堵が広がる。一方で、私の口内にはあの不味い戦闘食の薬品のような後味が、未だにこびりついていた。昨夜は疲労のあまり、配給された緑色のどろどろとしたシチューを流し込むように食べつくすと、すぐに泥のように眠ってしまったためだ。せめて、うがいをしてから寝るんだった。
目覚めて体の各部を点検すると、魔力を限界まで絞り出したことによる気怠さは残っているものの、骨や筋肉に異常はない。私は軍服の埃を払い、一刻も早く口内の不快感を拭い去るべく、基地の端に設けられた売店へと足を向けた。
「はい、いらっしゃーい! 今日もみんな、生きてる!?」
仮設のテントが並ぶ殺風景な通路に、ヨハンナの底抜けに明るく、そしてやや皮肉交じりでよく響く声が響き渡っていた。
ところで、この世界の人類は皆、多かれ少なかれ魔導を使うことができる。とはいえ、その大半は生活のちょっとした足しになる程度のささやかなものだ。例えば、ヨハンナが使っているのは「声を響かせる魔導」だ。拡声器など使わずとも、彼女の通る声は基地の端から端まで届く。
かつて、戦列歩兵が横一列に並び、マスケット銃を構えて号令と共に撃ち合っていたような時代であれば、指揮官の声を全軍に行き渡らせるこの魔導は、戦局を左右するほど大いに役立っただろう。だが今は無線機が普及し、戦闘機が空を舞う現代においては、こうして売店で客寄せのために使われる程度のものに成り下がっている。
「あ、マルガレーテ! いらっしゃい。またいつも通り、いや、それ以上にひどい顔してるわよ」
「余計なお世話だ。化け物竜と戦った上に、その後に食べた不味い戦闘食の味のせいだ。あれを毎日食わされていたら、味覚が破壊されそうだ」
「そういうことなら、いいものがあるわよぉ。といっても、いつものだけどね」
ヨハンナはウインクをしつつ、木箱の裏からよく冷えたコーラの瓶と、塩気の利いたスナック菓子の袋を取り出した。私は代金の硬貨を渡し、それを受け取る。栓を抜いて一気に喉へ流し込むと、炭酸の鮮烈な刺激と強烈な甘味が、脳髄の疲れまで洗い流してくれるようだった。
ふと、売店の奥で忙しく立ち働くヨハンナを見ながら、私は魔導という力について思考を巡らせた。
魔導とは、教本や言葉で誰かから習うものではない。実際に他者が魔導を使うのを観察し、その術式や魔力の流れをその身で感じることで、自身の内で言語化不可能な感覚として体得することにより初めて使えるようになる。だからこそ、魔導士には個人の「資質」と「経験」が如実に表れる。
私の場合は、攻撃用の光魔導や炎魔導に加え、周囲の気配を察知する魔力探知、そして先日の死闘の中で得た、ワイバーン級が放つ障壁を体得し、ぶっつけ本番で実践した「防御魔導」が使える。どれも実戦的で、強力なものだ。
かといってヨハンナのあの「声を響かせる魔導」も体得できるかといえば、そうではない。いくら優秀な魔導士でも、全ての魔導を体得できるわけではない。彼女が声に魔力を乗せる際のあの独特な術式は、私にはどうやっても感じ取ることができないのだ。魔導とは、かくも属人的で、不条理で、だからこそ奥が深い。
「ふぅ……生き返る」
売店の隅に置かれた弾薬箱の椅子に腰掛け、スナック菓子をかじりながら安堵の吐息を漏らしたその時だ。
「やあ、フィッシャー軍曹。奇遇だな」
声のする方を見上げると、そこにはハインリヒ・ヴァーグナー曹長が立っていた。彼もまた、手にはコーラの瓶を握っている。
昨日の出撃前、高Gへの耐性の低さから死地に赴くことに酷く沈んでいた彼だが、今はどうだ。その表情には、あの恐るべき巨竜を打ち倒し勝利を得て、四機揃って生還を果たしたという確かな自信と、一種の昂揚感が満ちていた。
「ヴァーグナー曹長。隣、空いてます」
「失礼するよ。いやあ、昨日の君の盾には本当に助けられた。あれがなければ、僕らはあの青白い炎でまとめて、骨の髄まで蒸発させられていただろうね」
「小官も必死でした。あとほんの少し、炎魔導が長かったらどうなっていたか……本当に、運が良かっただけです」
「謙遜することはないさ。君は間違いなく我々、第二対竜戦闘隊の命の恩人だ」
ヴァーグナー曹長はコーラを一口飲むと、ふぅと息を吐き、どこか遠くを見るような、とろけるような目つきになった。
「実はね、僕には故郷に婚約者がいるんだ。幼馴染でね、僕が魔導士として軍に入るのを、泣いて止めてくれた優しい娘なんだけどさ」
唐突に始まった色恋沙汰に、私はスナック菓子を口に運ぶ手を止めた。
「彼女には、苦労ばかりかけている。でもね、今回のこの隕石孔の調査任務が終わったら、僕には十分な恩給が出るはずだ。その時は軍を退役して、故郷で彼女と式を挙げるんだ。そうだな、地元で小さなパン屋でも開きながら、静かに暮らしたいと思ってね」
「それは、素晴らしい夢ですね。きっと、楽しい生活が待ってると思いますよ」
「だろう? ちなみに、彼女の焼く黒パンはすごく絶品なんだ。早くこの薄暗い穴倉から抜け出して、彼女の顔と再会し、その黒パンを味わいたいものだよ」
嬉々として語るヴァーグナー曹長。兵士が戦場で故郷の女の話をするのは、軍隊におけるある種の様式美のようなものだが、同時にそれは「死亡フラグ」と呼ばれる縁起の悪い行為でもある。もちろん、そんな迷信じみたことを口にして彼の機勢を削ぐつもりはなかったが、私の内心の僅かな危惧を、横から冷酷な声が叩き斬った。
「くだらん。そんなに浮かれていると、次の出撃で真っ先に死ぬぞ、ヴァーグナー」
振り向くと、そこにはヴィルヘルム・ファルケンベルク曹長が腕を組んで立っていた。鋭い目つきと、常に周囲を威圧するようなその佇まいは、昨日共に死線を潜り抜けたというのに少しも丸くなっていない。
「ファルケンベルク曹長、何もそこまで言わなくてもいいじゃないですか。我々はあの大将閣下の無茶な命令をこなし、勝ったんですよ。少しの安らぎくらい、許されてもいいはずでしょう」
同僚から怒鳴られて意気消沈し、うつむくヴァーグナー曹長を庇うように、私は口を挟んだ。しかし、ファルケンベルク曹長は鼻で笑った。
「安らぎ? フィッシャー軍曹、お前も甘いな。我々が倒したのは門番の一匹に過ぎない。大将閣下の探す『本体』とやらは、まだこの下で口を開けて待っていると聞いた」
「えっ、あれがこの隕石孔の探し物ではなかったのですか?」
「昨日、大将閣下に付き添った工作兵からの話だ。どうやらあれは、この隕石孔の秘密の一端に過ぎないらしい。奥には、もっとどデカいのがあるんだとさ」
彼は弾薬箱を蹴り寄せて、私たちの向かいにどかと座り込んだ。
「ヴァーグナーのような、女のスカートの裾を追いかけるような甘ったれた精神では、この先の戦場は生き残れん。そもそも、お前はなぜこんな地獄の底にまで志願してきたのだ、フィッシャー軍曹よ。お前ほどの魔力があれば、後方で安全にふんぞり返ることもできたはずだろう」
「そんなことはありません。今や地上は大きな戦争もなく、おまけに魔導士を必要とする場なんてほとんどありません。だから私は、自分の魔導の力を最大限に活かせる場所を求めただけです。それが、この隕石孔の空だったというわけです」
「ふん、優等生らしい模範解答だな。だが、俺は違うぞ」
ファルケンベルク曹長は、ギラギラとした野心を隠そうともせず、言葉を紡いだ。
「俺がこの撃竜のパイロットを目指したのは、ひとえに『功名』のためだ。この国を脅かす魔物や竜どもを叩き落とし、誰もが認める撃墜王となる。その名声と軍部での実績を元手に、いずれ俺は軍を抜け、政界へ転じるつもりだ」
「政界、ですか? ということは、政治家になるおつもりで?」
「そうだ。我がザクセン共和国の政治は、腐敗しきっている。首相や大臣が私腹を肥やし、企業と癒着して私利私欲のため蓄財に励んでいる連中ばかりだ。この前線で血を流す兵士たちのことなど、数字の羅列としか思っていない。そんな硬直した政治に、俺が鉄槌を下す。そのための、ここはただの踏み台に過ぎないのだよ」
彼の熱弁を聞きながら、私はどこか人生の進み方を間違えているような、危ういものを感じた。
彼の志は立派かもしれない。しかし、政界に行くなら戦場ではなく、まずは有名な政治家の秘書にでもなった方が近道だと思うのだが。とはいえ、戦場で生き残るための原動力としては、それくらい強烈なエゴは必要なのかもしれない。
「そうですか。応援してます、曹長。立候補したら、私も一票を投じます。政治家になった暁には、あの戦闘食の味を改善する法案を通してください」
私が皮肉めかしてそう言うと、ファルケンベルク曹長は少しだけ目を丸くし、やがてフッと短い笑いを漏らした。
「ふん。言われずとも、あの泥水のようなシチューは、俺が真っ先に廃止してやる」
そして彼は、急に真剣な面持ちになり、私を真っ直ぐに見据えた。
「フィッシャー軍曹。この際だからはっきり言わせてもらう。俺はお前のその才能を、露骨にライバル視している。撃墜王の称号を手にするのは、俺だからな。お前には負けん」
仲間内での宣戦布告とも取れるその言葉を叩き出した直後、彼は少しだけ視線を逸らし、ボソリと付け加えた。
「だが……昨日の戦闘では、お前のその力に命を救われた。それだけは、礼を言う。恩に着るぞ」
それだけ言い残すと、ファルケンベルク曹長は踵を返し、足早に去っていった。
残された私とヴァーグナー曹長は、顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「不器用な人だなぁ、彼は。あれで政治家なんかになれるのかね」
「ええ。でも、悪い人ではなさそうです」
戦闘機という無機質な鉄の塊の中にも、乗員の数だけ血の通った人生がある。
愛する者のために生きて帰ろうとする者。野望のために死地を利用しようとする者。私のように、己の力の存在意義を証明しようとする者。皆、ここに来た理由は様々だ。あの冷徹なシュタイナー大尉でさえ、過去の深い傷を抱えながらも、退役することなく我々を率いてくれている。
この薄暗い隕石孔の深淵で、三十五名の隊員たちは、いや、陸軍を含む前線基地の兵士たちはそれぞれの想いを抱えながら、見えない明日に向かって進んでいるのだ。私はその事実を、改めて噛み締めていた。
そんな我々のささやかな日常の裏側で、軍の歯車は冷酷に、そして確実に回り始めていた。
売店を出て滑走路の方へ向かうと、昨日までの疲弊した空気が一変し、物々しい熱気が基地全体を包み込んでいるのが分かった。
上層部からの度重なる要請により、地上からの大規模な増援部隊が次々と到着していたのだ。螺旋通路を下ってくる軍用トラックの列は途切れることなく、真新しい軍服に身を包んだ歩兵たちが慌ただしく整列させられている。
さらに、飛行場の一角には、我々第一、第二に次ぐ、新たな「第三対竜戦闘隊」の機体が並べられ始めていた。双胴竜はもちろん、貴重な単座式の撃竜も数機配備されている。
そして何より私の目を引いたのは、重々しい金属音を響かせながら搬入されてくる陸軍の新型兵器だった。分厚い装甲に覆われた四式中戦車の砲塔部分が改造され、そこには通常の大砲ではなく、巨大な魔石を組み込んだ「魔導戦車」と呼ばれる兵器が投入されていた。
「あれが、魔導砲搭載の戦車か……」
すれ違った整備兵が、私の視線に気づいて囁いた。
「すごい数だろ? 軍司令部は本気だ。あのレーマン大佐の怒鳴り声が、司令部テントから一日中響きっぱなしらしいぜ。なんでも、大将閣下は今週以内に次の階層を完全に制圧しろと命じたそうだ」
私は無言で頷いた。
あの青白い巨竜が守っていたパイプオルガン型の機械は、どうやら単なる「末端」に過ぎなかったらしい。エーベルハルト大将が狂気とも言える執念で探し求める『本体』は、さらに深い暗闇の底で我々を待っている。
増強される圧倒的な軍事力。大量に消費されるであろう命と弾薬。
賑わう基地の喧騒の中で、私は一人、冷たい風を感じていた。
このつかの間の平穏は、平和などではない。次の戦いの前の、ただの「踊り場」に過ぎないのだ。
少し休めば、また次の、さらに急で過酷な戦いが待っている。
その階段の先にあるのは、一体何なのか? 大将閣下の言う「本体」とは、何のことなのか。
どうにも解せない。これほどの大量の兵力を投入して、なおやり遂げようとする何かが、この奥にあると軍の上層部は知っているということになるからだ。が、末端にはまるで知らされない。
私は腰のホルスターに収められた魔石の杖にそっと触れながら、迫り来る次なる過酷なる激戦を、静かに予感していた。




