#33 束の間
第十六階層での死闘を終えた私たちは、かつてない疲労の中にいた。
強酸を撒き散らす液状竜との戦闘は、我が第二対竜戦闘隊に小さくない傷跡を残した。辛うじて勝利を収めたものの、機体の損耗は激しく、消耗した魔力もすぐには回復しない。
結果として、私たちは第十七階層への進軍を一時停止し、この薄暗い隕石孔の平地に築かれた仮設基地にて、部隊の再編と機体の徹底的な整備を行うこととなった。
「おーい、その三番目のレンチ、取ってくれ」
私の機体の周りで、カチカチと整備兵たちが振るうレンチの音が、この格納庫内に反響している。一方では、外れたリベットを付け直す作業が続いている。
私が愛用している二機の「撃竜」、一番機がメインで、もう一方の二番機は本来、予備機だが、連日の戦闘で両機ともボロボロになり、今やどちらもカウリングを剥がされており、私の目の前には一番機の心臓部である千二百馬力星型エンジン「七式発」を露わにしていた。
「軍曹、こりゃひどいな。過給機にまで竜の残滓がこびりついてやがる。分解清掃には三日はかかるな」
整備班長が、煤けた顔で苦笑いを浮かべた。
「お願いします、班長。この機体がないと、私はただの非力な女ですから」
「はは、杖だけでワイバーン級をぶっ放せる『非力な女』なんて、この基地のどこにいるんだ?」
うっ、あれはまだここにきて間もないころの、最初の機体が堕とされた時の話だ。仕方がなかった、私も咄嗟に魔力を絞り出してワイバーン級を堕とすのに必死だった。ともかく、機体が使えない以上、私は空を飛ぶことができない。しかし、いつ次なる階層への出撃命令が下るかわからない。このままでは訓練にも参加できない。だから私は身体がなまるのを防ぐため、基地内の空いたスペースを見つけては、連日、過酷な運動に専念していた。
軍靴の音を響かせながらの、滑走路の周囲を一周回るランニング。そして、拳に血が滲むほどの腕立て伏せ。
「四百九十八、四百九十九、五百……」
汗が地面に滴り落ちる。
魔導士でありながら操縦士を兼ねる私にとって、高Gに耐えうる強靭な肉体は、魔力と同等に重要だ。呼吸を整えながら立ち上がると、視界が少し揺れた。
(あの、水晶竜が見せた幻影……)
ふとした瞬間に、脳裏を掠める。巨大な機械と謎の人物、そして首都ルートリンゲンに降り注ぐ巨大岩のあの幻覚。
あれは一体、何だったのか。予知夢のようなものだったとしたら、恐ろしい話だ。あの幻覚のことを深く考えようとするほど、身体の芯から恐怖で震えそうになる感覚に襲われる。
「……ふぅ、今は考えないようにしよう」
私は自分に言い聞かせつつ、嫌な思考に陥らないよう、無心で勢いよく走り出す。そのまま基地の隅にある売店へと向かい、汗を拭く。
売店のそばには、錆びたドラム缶を足にした簡素なテーブルがいくつか並んでいる。
そこは、死と隣り合わせの隊員たちが唯一、戦闘マシーンから人間に戻れる場所でもあった。
私はカウンターで、いつも通りの不味い戦闘食を受け取り、それを流し込むためのコーラを注文した。この基地で唯一、まともな味がするのがこの真っ黒な炭酸飲料だった。
「お疲れ様、マルガレーテ!」
カウンターの奥から、明るい声が飛んでくる。ヨハンナだ。彼女はこの殺伐とした前線基地で、私の唯一の女友達だ。
「ヨハンナ、相変わらず元気だね」
「元気だけが取り柄だもん。といいながら、あんたも滑走路を一周回ってるじゃない。それって私以上に元気な証拠だよ。てことではい、いつものキンキンに冷えたコーラ! それにスナック菓子!」
彼女の笑顔に少しだけ救われながら、私は空いているテーブルの端に腰を下ろした。
ここへ来る前に戦闘食を食べたが、あの臭い固形肉にドロッとした薬品臭いシチューを口にすると、一時間たっても後味が消えない。古い油の臭いと、保存料の独特で妙な苦味のおかげだろうか。それを、コーラで無理やり胃の奥へ押し込む。
コーラとスナック菓子を口にしながら、しばらくの間、黄昏ていると、ふとテーブル列の端の方から、聞き覚えのある低い声が耳に入ってきた。
何気なく視線を向けると、そこには我が隊と何度か共闘している陸軍機甲大隊の隊長、ミュラー大尉の背中があった。
そしてその向かいには、いつの間に売店の仕事を切り上げ、カウンターからあの場所まで移動したのか、ヨハンナがミュラー大尉の前に座っている。
二人の距離は、仕事上のそれよりも明らかに近かった。
私はスナック菓子を食べる手を止め、思わず聞き耳を立ててしまった。
「……ヨハンナ、聞いてくれ」
ミュラー大尉の声は、戦車部隊を指揮する時のあの剛毅な響きとは正反対に、ひどく震えていた。
「私の実家は、代々続く軍人の家系だ。父も、祖父も、その前の代も、皆この国のために剣を、あるいは銃を取り戦ってきた。私もまた、この隕石孔の調査が終わっても、軍に残り続けるだろう。戦いの中でしか生きられない、命がけな生き方しかできない男だ」
「う、うん……」
ヨハンナは何も言わず、大きな瞳で彼を見つめている。
「そんな、いつ死ぬかもわからない、硝煙の臭いしかしない私だが……もし、お前が良ければ、この戦いが終わった後……私についてきてくれないか?」
私はコーラを飲み込み損ねて、むせそうになった。
(ちょ、ちょっとまって、これって告白!?)
てっきり、あの二人はとっくにそういう関係になっているものだと思っていた。隊長と共に二人を引き合わせ、出会って以来、あんなに親密そうにしていたのに、まだ言葉にしていなかったのか。
「ミュラー大尉って、意外と奥手なのねぇ……」
私は小さく呟いた。
すると、私のすぐ隣から「全くだ、じれったい奴だな」という低い声が聞こえた。
「ひゃあっ!」
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか第二対竜戦闘隊の隊長、シュタイナー大尉が座っていた。彼もまた、私と同じようにコーラを片手に、端っこの席で聞き耳を立てていたのだ。
「た、隊長……いつからそこに?」
「ミュラーが実家の家柄について語り始めたあたりからだ。あいつは戦車に乗っている時は勇猛果敢で豪胆なやつだが、こと女性に関しては、初陣の二等兵以下だな」
シュタイナー大尉は苦笑しながら、グラスを傾けた。
厳格で融通の利かない「堅物」として知られる彼が、部下の恋愛事情を盗み聞きしているという状況に、私は妙な違和感……いや、親近感を覚えた。
さて、視線を戻すと、告白の真っ最中である二人に動きがあった。
ミュラー大尉は顔を赤くしうつむき、返事を待っている。その表情は、まるで強大な竜を目の前にした時よりも緊張しているようだった。
沈黙が流れる。
やがて、ヨハンナが大きく息を吸い込んだ。
「当然じゃないですか!」
彼女の声は、広大な基地の喧騒を突き抜けるほどに響き渡った。
「ギュンターが行くところなら、地の果てまで、この隕石孔の底でもド田舎でも、私はついて行きます! 私ができるのは、大きな声を出すこととあんまり美味しくない食事を出すことくらいですけど、それでもいいなら、一生お供しますよ!」
その堂々たる宣言に、周囲の隊員たちが一斉に注目した。拡声魔導が使えるヨハンナではあるが、そもそも地声が大きい。この売店脇のテーブル席一帯に響き渡る。
ミュラー大尉は顔を真っ赤にして周囲を見渡し、しどろもどろになっている。
「お、おい、ヨハンナ、声が大きいぞ……みんな見てるじゃないか」
「いいじゃないですか。 どうせ私たちの関係はバレバレですし、今さら恥ずかしいことなんてあるわけないじゃない」
ヨハンナは満面の笑みで、彼の太い腕をぎゅっと抱きしめた。
あの豪胆な「鉄のギュンター」が、若い娘に振り回されてタジタジになっている。その光景が可笑しくて、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、あはははっ!」
「……やれやれ、これでは部隊の規律も綱紀も形無しだな」
シュタイナー大尉も口元を緩めている。
周囲からは「おめでとう、大尉!」「まだ言ってなかったのかよ!」という冷やかし混じりの喝采が上がり、基地内は一時、戦時中であることを忘れさせるような和やかな空気に包まれた。
実際、彼らの関係は、私とシュタイナー大尉の関係と同様、もはや公然の秘密だった。
私が人前で隊長を「ヘルマン」と呼ぶことはないが、二人の間に流れる信頼関係が、単なる上官と部下以上のものだということは、隊員たちの誰もが察している。もっとも、そうなったのは私自身が地上での休暇中に、大声で告白の返事をしてしまったことが原因なのだが。
それと同じことを、ヨハンナもやったわけだ。が、後の態度が違う。恥ずかしがるどころか、見せつけている。案外、ヨハンナもミュラー大尉を上回る豪胆さだ。
それでも、言葉にして確かめ合うことの尊さを、私はヨハンナの姿を見て改めて感じていた。
しかし、その幸福な時間は長くは続かなかった。
「緊急報告! 第十七階層より帰還した偵察機より、入電!」
伝令兵の叫び声が、この場の和やかな空気を一瞬で切り裂いた。
全員の表情が、一瞬にして兵士のそれに変わる。シュタイナー大尉、そしてミュラー大尉は立ち上がり、鋭い目つきで伝令兵のところに駆け寄る。
「報告せよ。何が起こっている」
通信兵は肩で息をしながら、手にした電文を読み上げた。
「第十七階層の手前、これまでとは比較にならない広大な空洞があるのですが、その空間全域を埋め尽くすほどの魔物数万に加え、ブレスドラゴン級の大群を確認したとのことです。その数、推定で百以上! さらに、その中心部にはリジガードラゴン級と思しき影が確認されたとのことです!」
基地内に戦慄が走った。ブレスドラゴン級が百以上? その上でリジガードラゴン級? これまで戦った大群の中で、最大級じゃないか。
おまけに、地上の魔物も測定不能だという。その後端が見えないほど長蛇の列だという。下手をすれば、こちらも過去最大級の数かもしれないとのことだ。
我々、第二対竜戦闘隊の稼働機数は、現在補充を合わせても二十機足らず。航空機は偵察機を除いて八十機だ。魔導戦車隊が四十、機甲大隊に至っては戦車の半数が修理中とのことで、三十両ほどしか稼働できないという。
「いよいよ、この隕石孔の『主』がお出ましというわけか」
シュタイナー大尉の声に、冷徹な響きが戻る。
私は、まだ整備中の自分の「撃竜」を思った。
第十七階層。そこを突破すれば、おそらく隕石孔の真の深淵へと辿り着く。そこには何が待っているのか。
そして、私の見た幻影に関わる何かが、あるのか。
「フィッシャー軍曹、出撃する。格納庫に戻る」
大尉が私を見て言った。
「ですが隊長、今は二機とも整備中で、飛び立つことができません」
「二番機だけ優先して、整備を急いでもらっている。あと二時間で出撃可能になるとのことだ」
「りょ、了解!」
私は力強く答えた。
先ほどまでの和やかな空気は霧散し、基地には再び、金属音と燃料の匂い、そして死の予感が満ち始めた。
隕石孔の深淵部、人類が未だかつて足を踏み入れたことのない暗黒の底で、最大の決戦がまさに始まろうとしていた。
私は、自分の震える右手を左手で強く押さえた。それは恐怖ではなく、これから始まる戦いを前にしての興奮から生じる、武者震いだった。




