#18 補給線
眩しい太陽の光。乾いた土の匂い。多数の軍人の前でのプロポーズ返しに温かい食事。そして、胸の奥まで甘く痺れるような、あの夜の出来事。
地上での休暇は、私から戦場の血生臭さを洗い流してくれるはずだった。もっとも、それ以前にあの店にいた皆の記憶を洗い流したい気分ではあるが、そんな悠長なことを考えている余裕がなくなった。
つくづく軍隊という組織は、人使いが荒い。下士官のささやかな幸せなど一顧だにしない。非情なサイレンの音が、たった一晩の甘く熱い情事の思い出を無残にも引き裂いた。
分岐点に魔物およびワイバーン級、多数発生――伝令兵のその叫びを聞いた瞬間、私の脳裏に広がっていた光あふれるルートリンゲンの街並みは、一瞬にして分厚い暗雲に覆い隠された。
急ぎ軍服を身に纏い、宿を飛び出した私とシュタイナー大尉は、息つく間もなく飛行場へと駆け込んだ。すでに整備兵たちが慌ただしく動き回り、千二百馬力の星型エンジンが次々と火を噴いている。
「くそっ、せっかくの休暇が台無しだ」
ファルケンベルク曹長が、飛行帽を被りながら悪態をつく。その顔には、隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいた。想いは同じだ。せっかくの休暇を取り消された。しかも、これからというところで……たった一晩しか過ごせず、私も無念さを感じずにはいられない。
「愚痴を言っている暇はない。分岐点を落とされれば、第四階層にいる本隊は完全に孤立する。何としても死守せねばならん。第二対竜戦闘隊、全機発進用意!」
シュタイナー大尉の号令が、早朝の冷たい空気に響き渡る。
私はすでにエンジンがかかった愛機「撃竜」の狭いコックピットに滑り込み、操縦桿を握りしめた。両腕の火傷の痕が、まだ少しチリチリと痛む。完治したとは言い難い。だが、ここで私が飛ぶことを拒めば、何千という将兵が地底の底で飢えと絶望の内に死ぬことになる。
スロットルを押し込み、私は再びあの暗黒の孔へと向かって機首を向けた。
第一階層の開口部から垂直に降下し、薄暗い螺旋通路を全速力で駆け抜ける。第二階層の基地上空を通過し、問題の第三階層手前、あの巨大な分岐点へと接近した。
魔力探知機が、けたたましい警告音を鳴らし始める。
『前方に敵影! 空域にブレスドラゴン級、およそ七十! 地上にはオーガとゴブリンの群れを確認!』
先行していた双胴竜の観測手から、悲鳴のような無電が入る。
七十匹のブレスドラゴン級。かつてこの場所で遭遇した、あの八十匹の大群に匹敵する数だ。地上の魔物の数は前回ほどではないように見えるが、それでも優に数千は下らない黒い波がうごめいている。
だが、待てよ? ワイバーン級が現れたと、そう聞いていた。にもかかわらず、そこにいるのはブレスドラゴン級だ。それも、七十匹。話が違うぞ。
『こちら第二対竜戦闘隊、第四階層の第一、第三対竜戦闘隊に援護を要請!』
隊長が無線で叫ぶが、前線司令部からの返答は非情なものだった。
『第四階層基地上空には、大量のワイバーン級が出現。第一、第三戦闘隊は現在、これを交戦中。こちらに余剰戦力はない』
ああ、そうか。つまり、ワイバーン級出撃の知らせはあながち間違いではなかった。こっち側に、七十匹のブレスドラゴン級が現れたことは把握できなかったということか。となると、地上の大群とブレスドラゴン級の群れを、我々第二対竜戦闘隊と地上からの増援部隊だけで食い止めねばならないということだ。
撃竜四機と、双胴竜十三機。たった十七機の編隊で、空を覆い尽くすほどの巨竜の群れを相手にする。正気の沙汰ではない。
『まともにぶつかれば一瞬で全滅だ! 各機、散開! 前回同様、敵を挑発しておびき寄せて敵の隊列を伸ばし、少数ずつ各個撃破する!』
シュタイナー大尉の指示に従い、我々は編隊を解いて散開した。
私は機体を滑らせながら、先頭集団のブレスドラゴン級に向かって七.七ミリ機銃の弾雨を浴びせた。装甲を貫くことはできないが、顔面に弾丸を叩きつけられた巨竜たちは怒り狂い、群れから突出して私を追いかけてくる。
そこを、死角に潜んでいた味方機が急降下しながら、背びれの結節点――防御障壁の薄い弱点――に魔導砲を撃ち込む。
「一匹撃墜!」
私の放った魔弾が、巨竜の背中を貫き、内側から爆散させる。同様の手口で、ファルケンベルク曹長やヴァーグナー曹長も着実にスコアを稼いでいった。
しかし、いかんせん数が多すぎる。
おびき寄せては落とし、おびき寄せては落とす。神経をすり減らすような綱渡りの機動を繰り返し、どうにか三十匹のブレスドラゴン級を沈めた頃には、我々の疲労はピークに達しつつあった。
私の両腕の火傷も、操縦桿を激しく引くたびに焼けるような痛みを訴えてくる。額から流れる汗が目に入り、視界がぼやけた。
『くそっ、きりがないぞ! 奴らめ、こちらの戦術を学習し始めている!』
ヴァーグナー曹長の悲鳴が響く。確かに、残る四十匹のブレスドラゴン級は、もはや安易な挑発には乗らなくなっていた。彼らは巨大な塊となって互いの死角を補い合いながら、じりじりと分岐点へと歩を進めている。
このままでは、ジリ貧だ。
そう思った矢先、眼下の暗闇の奥から、等間隔に並んだ鈍い光の列が動いてくるのが見えた。
「あれは……鉄道!?」
私は目を疑った。第一階層から敷設工事が進められていたと聞いていたが、すでに第三階層の手前までレールが伸びていたのだ。
石炭の黒煙を上げながら、重厚な装甲に覆われた機関車が、十両以上の貨車を引いてゆっくりと進んでくる。後ろの貨車に積まれているのは、大量の弾薬や食料、そして魔力回復用の薬など、前線基地が喉枯れてが出るほど欲しい重要物資に違いない。孤立しつつある第四階層の本隊へ、生命線を繋ごうと決死の輸送を行っているのだ。
だが、その機関車の存在に、上空のブレスドラゴン級たちが気づかないはずがなかった。
『まずい! 敵の数匹が物資輸送鉄道に狙いを定めた!』
隊長の切羽詰まった声と同時に、五匹のブレスドラゴン級が機首を下げ、機関車に向かって降下を始めた。その大口の奥で、青白い炎が圧縮されていくのが見える。
あんな熱線を浴びれば、機関車など一溜まりもない。積載された弾薬に引火すれば、大爆発を起こしてレールごと吹き飛ぶだろう。
補給線が絶たれれば、調査軍は終わる。我々がこれまで流してきた血も、散っていった仲間たちの命も、すべてが無駄になる。
「やはり、やるしかないか……!」
私は奥歯を噛み締め、スロットルを限界まで叩き込んだ。
他に方法はない。一匹ずつ背びれを狙うような悠長な真似をしていては、間に合わない。残る四十匹の群れを一瞬で粉砕する手段は、あれしかないのだ。
両腕の火傷の痛みが、脳内でけたたましい警報を鳴らしている。今、膨大な魔力を放出すれば、火傷がさらに悪化し、最悪の場合は腕の神経が完全に焼き切れるかもしれない。二度と操縦桿を握れなくなる可能性すらある。
だが、ここで逃げれば、私は一生、自分を許せないだろう。
『フィッシャー軍曹! 引き返せ!』
私が敵の密集陣形の中央に向かって突進していくのを見て、シュタイナー大尉が絶叫する。
「例の攻撃をやります! このままでは機関車がやられます!」
私は操縦桿から左手を離して、腰のホルスターから魔石の杖を抜き放った。
前方の空間を埋め尽くす、四十匹のブレスドラゴン級。そのすべてが私に気づき、大口を開けて青白い死の光線を放とうとしている。
私は火傷の激痛に耐えながら、魔石を固く握りしめた。
「我が魔導の光よ……相反する極光となりて、すべてを拒み、すべてを砕く盾となれっ!!」
魂を絞り出すような詠唱と共に、私の全魔力が杖の先端へと奔流となって流れ込む。両腕の包帯の下で、皮膚が熱くなり、血が滲み出すほどの熱を感じた。あまりの激痛に視界が一瞬、真っ白に染まる。
機首の前方に、青白い光の波紋が幾重にも重なる防御障壁が展開された。
だが、弱い。
前回、八十匹をなぎ倒した時のような圧倒的な密度がない。私の身体が、まだ完全には回復していなかったのだ。この薄い盾では、四十匹の熱線と巨体を防ぎ切る前に砕け散り、私は機体ごとミンチにされてしまうだろう。
「……力が……足りない……」
絶望が胸をよぎった、その瞬間だった。後方から、赤い光が三本、前方の防御障壁に注がれる。
『馬鹿野郎! 一人で背負い込もうとするな!』
『軍曹にばっかり、いい格好はさせませんよ!』
『まったく、無茶をするやつだな!』
無線から飛び込んできた三つの声と共に、私の機体の左右、そして真上に、三機の撃竜がピタリと張り付くようにフォーメーションを組んだ。
ファルケンベルク曹長、ヴァーグナー曹長、そしてシュタイナー大尉。
三人は猛烈な風圧の中でキャノピーを開け放ち、それぞれの魔石の杖を私に向けて真っ直ぐに突き出していた。
『行くぞ! 俺たちの魔力で、そいつを支える! 敵中突破せよ!』
隊長の怒号無線を合図に、三本の杖から極太の魔力の光条が放たれ、私の展開した防御障壁へとさらに注ぎ込まれた。
機体が、いや、私の身体そのものが大きく脈動した。
三人の上級魔導士から莫大な魔力を供給された私の防御障壁は、これまでに見たこともないほどの巨大な魔法陣へと変貌を遂げた。直径数十メートルに及ぶ、幾何学的な紋様が青白く輝く、絶対にして無敵の巨大な盾であり、槍だ。
「ああああああっ!!」
私は全身の血管が沸騰するような高揚感と痛みに絶叫しながら、巨大化した魔法陣を先頭に、ブレスドラゴン級の群れへと突っ込んだ。
バリバリと耳を劈く轟音と共に、ブレスドラゴン級たちの放った熱線が魔法陣に激突したが、巨大化した盾はそれを霧散させるどころか、反射して敵の群れへと跳ね返した。
そのまま私は、巨大な光の円盤を押し立てて、四十匹の巨竜の真っ只中を駆け抜けた。
全開と同様に、この防御魔導をぶち当てられたブレスドラゴン級は肉が弾け骨は砕け、魔力障壁の前でミンチ肉のように粉々に砕け散っていく。三匹、四匹、五匹……ブレスドラゴン級の巨体が魔法陣に触れるたびに、文字通り粉砕され、赤い血飛沫をまき散らし肉片へと変わっていく。
四機の撃竜は完全に一つの巨大な光の矢となり、空を覆っていた絶望を真っ二つに引き裂いた。
わずか十数秒の突撃で、残る四十匹のブレスドラゴン級はすべて空の塵と化した。
『まだ、いけるか!?』
隊長が、私に向かって叫ぶ。
「はい、いけます!」
『ならば、そのまま地上へ行くぞ! 寄せ集めの新兵どもに、あの集団は任せられん、このままオーガどもも押し潰せ!』
「了解!!」
さては、あの料理店で出会った陸軍の下士官のことを思い浮かべながら言っているな。確かに、ここの地獄を知らないあの連中に、こんな敵をすべて相手にできるはずがない。そう感じた私は操縦桿を前に倒し、巨大な魔法陣を展開したまま急降下した。機関車に迫りつつあった地上のオーガとゴブリンの大群に向けて、光の盾をローラーのように叩きつける。
地響きと共に地面を削りながら、数千単位の魔物群の半数が次々と圧殺され、ミンチとなって吹き飛んだ。
残された魔物たちは、あまりの圧倒的な破壊力に恐れをなしたのか、蜘蛛の子を散らすように岩陰へと逃げ去っていく。
我々が守り抜いた機関車は無傷のまま、黒煙を上げて第三階層の奥へと走り去っていった。
『作戦終了。このまま、第二階層へと向かう』
魔法陣が光の粒子となって消滅するのを見届けた瞬間、私を支えていた糸がぷつりと切れた。
極限の魔力行使と激痛により、意識が急速に遠のいていく。が、私はどうにか操縦桿だけを握りしめ、自動操縦のように機体を第二階層の滑走路へと向けた。
どうやって着陸したのか、記憶がない。気づくと私は愛機のコックピットの中で、うな垂れていた。
風防ガラスが外から開かれ、シュタイナー大尉が血相を変えて私を引っ張り出すのが見えた。
「……あの、隊長、機関車は、どうなりましたか?」
「無事だ。先ほど、大量の物資がこの第三階層の基地に届けられた。お前のおかげだ、マルガレーテ」
大尉は私の両腕の火傷を庇うように、そっと抱き寄せてくれた。ファルケンベルク曹長とヴァーグナー曹長も、安堵の息を吐きながらこちらを見守っている。
私たちは、勝ったのだ。補給線の分断という最悪の事態を免れ、再び軍の命脈を繋ぎ止めた。
が、問題はそこからだ。
「そういえば、聞きましたよ、隊長」
「そうそう、なんでもとある料理店で、フィッシャー軍曹が告白したんだとか」
「いやあ、話の内容的に、返事だったという噂でしたよ。隊長、フィッシャー軍曹にいつの間にか、告白してたんですか?」
「そうだ、そういえば宿も同じ部屋だったんですよね、隊長。昨夜は、お楽しみでしたか?」
ファルケンベルク曹長とヴァーグナー曹長が突然、昨日の話をし始めた。いつの間にか、軍内部でうわさが広がっていたようだ。隊長に抱かれたまま、私は恥ずかしさのあまり身体が熱くなった。が、それを聞いた隊長は恥じる様子もなく、ただ短くこう答えた。
「すべて事実だ。問題あるか?」
「いえ、ありませんよ。おめでとうございますとだけ、伝えたかったんですよ」
あの、抱かれている私はめちゃくちゃ恥ずかしいんですが、よく平然と返事できますね。そう言ってやりたかったが、返す元気もない。私は、二人の曹長の視線をまじまじと浴びながら、隊長に抱かれて病院へと運ばれていった。
しかし、この二人が知っているということは、ここにいる兵士の多くが私の噂を聞いていることになる。となれば、病院にも……ああ、穴があったら、入りたい気分だ。
だが、その同じ頃。
我々が死闘を繰り広げている背後――第四階層のさらに奥深く、鈍い金属光沢に覆われた古代の遺跡の深淵にて、これまでのブレスドラゴン級やワイバーン級とは比較にならない、巨大で、無機質で、絶対的な絶望の気配を纏った想像を絶する「化け物」が、静かに、そして確実に、目を覚ましつつあったことなど。
傷つき、疲れ果てた我々は、知る由もなかったのである。




