4、逃れる道はなく
その日、宰相達に合うために通された部屋に、意外な緊張はなかった。
宰相、そしてアルトリウス公爵である父、その他二人の公爵。
この国の意思決定を担う人間たちの視線が、ヴェルナーに向いていることは確かだ。だが、昨日突然王太子となることを宣言された者への同情はなく、国を背負う者として足るかを見定めるような目をしていた。
その視線を、ヴェルナーは正面から受け止めた。
逃げる気はない。かといって、応える義務も感じていない。
――試されている。それだけは理解していた。
「お待たせしました」
形式だけの挨拶を落とす。
それに対し、中央に座る宰相がわずかに頷いた。
「ご足労いただき、ありがとうございます殿下」
淀みのない声だった。
昨日決まったばかりの呼び名にしては、あまりにも自然だ。それに違和感を持ったヴェルナーを察したのか、宰相ディートリヒが口を開いた。
「戸惑いが大きいのも理解しておりますが、早う慣れてくださいませ」
柔らかな物言いだった。 だがその実、逃げ道を塞ぐ言葉でもある。
「……努力はしましょう」
淡く返す。 その言葉に、誰も笑わなかった。
沈黙を破ったのは、宰相ディートリヒだった。
「さて、本題に入りますが……」
机上に置かれていた書類が、指先で軽く叩かれる。
「すでに陛下からお聞き及びかと存じますが、本日付けで殿下には王位継承権が与えられました。数日の内に立太子されるでしょう」
「……そうですか」
一瞬だけ、間が置かれる。
「……殿下、我々はあなた様に伝えるべきことがあります」
ディートリヒが言った。
「その昔、殿下がお生まれになった際、我々は国内の混乱を避けるため、殿下とアンシェーリン様を離宮へとお移し致しました。さらにアンシェーリン様がお亡くなりになった後は、後継者のいなかったアルトリウス公爵家へと養子に出しました。その節は、大変申し訳ございませんでした。」
淡々とした口調だった。過去の出来事を語っているというよりは、ただ処理の経緯を報告しているような声音。
宰相に続き、父であるアルトリウス公爵も頭を下げる。
厳格な制度はないにしても、この国は一夫一妻を基本とする風潮が強い。国王の愛人の子という存在が王家の醜聞として捉えられたのも理解できないわけではない。
ヴェルナーは、わずかに目を細めた。
「……今さらだな」
短く返す。
「私が事実を知らないとでもお思いですか。当時四歳の少年にだって、朧げでも嫌なものは嫌だという記憶があるのですよ。離宮に移されてからというもの、満足な食事も出されず、野の草花を摘んでは食べていた。母は病死とされたが、疲労と周囲の好奇の目に晒されて死んだも同然だったのです」
「……」
「アルトリウス公爵家では、実子でないにも関わらず良くしていただきました。今思うと、王族と同等の教育を受けられたのは、ご子息は王太子殿下がお一人しかおられなかったことが理由なのでしょうが……、魔法師として生きたいという私の願いをアルトリウス公爵家は叶えてくれました。育ててくださったこと、本当に感謝しています」
本心だ。
弟が生まれて本当のアルトリウス公爵家の後継者ができたあとも、公爵も夫人も変わらず接してくれた。
おそらく公爵達が考えているのは別の懸念なのだろう。
せっかくの本心も薄らいでしまう。
「……安心してほしい。私が無責任な行動を取った国王陛下を父と呼ぶことは無いでしょうが、今後王太子になったからといって、かつて私や母を苦しめた者達に復讐など考えていません」
言い切る。
静かな声だった。 だが、その場にいる誰もが、その意味を正しく受け取った。それが欲しかったのだろう。
――復讐しない。
それは、許したという意味ではない。ただ、価値がないと切り捨てているだけだ。
わずかな沈黙の後、ディートリヒが口を開いた。
「……ご聡明であらせられる」
感情の読めない声音。だが、それは評価だった。それでは、そちらに謝意もないのは同然じゃないか。
「殿下のお考えは、我らにとっても都合がよろしい」
隠す気はない。
「今さら過去を蒸し返し、国内をさらに乱すことは得策ではございませんので」
「でしょうね」
ヴェルナーは淡く返す。
「無駄なことはしない主義でして。……それに」
わずかに視線を落とす。
「……過去に何があろうと、今の状況が変わるわけでもないのです。貴殿らが何をどう扱おうと、私には関係ないが――少なくとも、同じことを繰り返さない方がいいでしょう」
その言葉に、わずかな沈黙が落ちた。
誰も反論しない。否定も、肯定もない。
ただ、ヴェルナーという存在を測っている。そんな感じだ。
「……肝に銘じておきましょう」
最初に口を開いたのは、ディートリヒだった。
あくまで穏やかに、だが一切の揺らぎなく。
「では、殿下、ここからが本題でございます」
来るか、と内心で呟く。
「王太子として立たれる以上、殿下にはいくつか急務がございます」
机上の書類が、ゆっくりと押し出される。
「まず一つ」
指先が止まる。
「婚約者の選定でございます」
――やはり、そうきたか。
ヴェルナーは視線だけを落とした。
「……早いな」
「急務でございますので」
間髪入れず返される。
「ご存じの通り、先の王太子殿下――エーヴェルハルト様は、わが家の娘と婚約の関係にありました」
ディートリヒの声は、変わらない。
「しかしながら、娘もまた、同じく海難にて……」
言葉を切る。だが、それで十分だった。
「……それは、痛ましいことだ。心よりお悔やみ申し上げる」
「痛み入ります」
ディートリヒは、わずかに頭を下げた。
それだけだった。声色に揺らぎはない。悲嘆も、悔恨も、そこにはなかった。
ただ、事実を受け取り、処理しただけの応答。
宰相──ベルフォール公爵は大層娘を溺愛していたと聞いていた。海難事故の発生からそう経っていないはずだ。それでもこの男が揺らがずに国政を全うしようとする姿には、感動や尊敬では表せない感情を持った。
ヴェルナーが静かに口を開く。
「つまり空席なのですね」
「左様にございます。殿下にも婚約者はおられないとのことでしたので」
迷いのない肯定。
「王太子の伴侶は、国内外に対する明確な意思表示となります。血統、派閥、そして均衡――いずれも無視はできません」
並べ立てる言葉は、どれも個人とは無縁のものだった。
ヴェルナーは小さく息を吐く。
「……候補は」
「すでにいくつか」
即答だった。
――用意がいい。
先ほど自分が零した言葉が、脳裏をよぎる。
「国内の有力貴族のご令嬢、あるいは……」
わずかに間。
「国外との関係を見据えた縁談も、視野に入れております」
外交。つまりは――駒だ。
「……選べと?」
「最終的なご判断は殿下にお任せいたします」
柔らかい言い方だった。
だが。
「ただし」
来る。
「国益に反するご選択は、お勧めいたしかねます」
静かに、釘を刺された。
ヴェルナーは、わずかに口元だけで笑う。
「……なるほど」
一歩も引かない。
だが、踏み込まない。
「つまり、自由に選べと言いながら、選択肢は既に決まっていると」
「言葉が過ぎますな、殿下」
穏やかな否定。だが、否定になっていない。
「我々はあくまで、最善をご提示しているに過ぎません」
「そうか」
短く返す。視線を上げると、全員がこちらを見ている。
逃がさない目だ。
ヴェルナーは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました。書類は後で目を通しましょう」
それ以上は言わない。
今ここで拒絶する意味も、受け入れる意味もない。
「それでいいですね」
「ええ、もちろんでございます」
ディートリヒが満足げに頷いた。
――一つ、通った。そんな空気だった。
だが。
「……もう一つございます」
ディートリヒの声は、先ほどまでと何も変わらない。
だが、これは、軽い話ではない。そう直感するには十分だった。
「王太子としての公務についてでございます」
来たか、と内心で呟く。
「立太子に先立ち、殿下には王宮での政務に加わっていただきます」
淡々と告げられる。
「……具体的には」
「定例の会議への出席、各部局からの報告の精査、並びに――」
一拍。
「陛下の名代としての外部対応も、順次お任せすることになるかと」
想像していたよりも、ずっと重い。
いや、当然か。王太子とはそういうものだ。エーヴェルハルトはそれをずっとこなしてきたのだから。
「……魔法塔には戻れない、という理解でいいのか」
確認というよりは、事実の整理だった。
わずかに、空気が揺れる。
「完全に、とは申しません」
ディートリヒはそう前置きしながらも、
「ですが、優先順位は明確にしていただく必要がございます」
布石を打ってきた。
「王太子としての責務が最優先となるのは、当然のことかと」
ヴェルナーは、ゆっくりと目を伏せた。
魔法塔。静寂。研究に没頭する時間。
それらが、遠ざかっていく――あっさりと。
「……そうですか」
短く返す。
その声に感情はなかった。
「ご理解いただけたようで何よりでございます」
ディートリヒは満足げに頷いた。
その様子に、わずかに視線を細める。
理解したのではない。
理解させられただけだ。
だが――
「……一つ、確認してもよろしいですか」
静かに口を開く。
「何なりと」
「魔法の研究について、全面的に制限されるわけではないのですね」
ディートリヒは一瞬だけ視線を細めた。
値踏みするように。
「ええ、もちろんでございます」
すぐに戻る。
「殿下の才は、我が国にとっても有益ですので」
利用価値はある、ということか。
「ただし」
やはり、続く。
「それもまた、国益に資する範囲で」
線を引かれる。明確に。
「……なるほど」
小さく息を吐く。
自由ではない。
だが、完全に奪われたわけでもない。
――中途半端だ。
だからこそ、扱いやすい。
「こうなった以上、あなた方を困らせてまでやろうとは思わないから安心してほしい」
それ以上は言わない。
言っても、変わらない。
「では、本日は以上となります」
ディートリヒが締めに入る。
「立太子まで、日もございません。何かとお忙しくなるかと存じますが――」
形式的な言葉が続く。
その間に、ヴェルナーは静かに思考を巡らせていた。
これで本当に王太子になるのだ、と。
そう理解したとき、重たいベールのようなものが体に纏わっていくような気がした。
それでも、振り払うことはしなかった。逃げる理由は、もうどこにもない。
ならば――受け入れるしかないのだろう。王太子という立場も、この国も。




