3、その時は最悪の形で訪れた
眠れなかったわけではない。ただ、眠る必要を感じなかった。
椅子に腰掛けたまま、ヴェルナーは窓の外を見ていた。
王宮の夜は静かだ。あまりにも静かすぎて、生きている場所とは思えないほどに。
――嵐による海難事故。
頭の中で、何度も繰り返す。
あり得ない、とは言わない。
だが。
「……あの人が、か」
ぽつりと落ちた言葉は、誰に届くこともなく消えた。
王太子エーヴェルハルト。
直接言葉を交わしたのは、数えるほどしかない。
それでも、分かることがある。
無駄がない人間だった。
感情を表に出すことも少なく、必要な言葉だけを選ぶ。
そして――決して、隙を見せない。
「……海で、ね」
嵐に飲まれるような人物ではない。
そう断じるには材料が足りない。
だが、そう思わせるだけの何かが、確かにあった。
――ふと、思い出す。
あれは、いつだったか。
魔法塔にこもりきりだったある日、珍しく来客があった。
しかも、わざわざ王宮から。
「こんな場所にまで来るとは、随分と物好きですね」
そう言った覚えがある。
目の前にいたのは、王太子――エーヴェルハルトだった。
「お前が働いている場所を見ておきたくてな」
特別なことでもないように言う。
護衛は外に残したらしい。
この男は、そういうところがある。
「……何かご用件が」
「用がなければ来てはいけないか」
わずかに笑う。
人を安心させるような、整った笑みだった。
「そういうわけではありませんが」
曖昧に返す。
居心地が悪いわけではない。ただ、距離が測りづらい。
「相変わらずだな」
ぽつりと落とされた言葉に、視線を上げる。
「何がですか」
「必要以上に、距離を取る」
指摘に、わずかに眉が動く。
「……性分です」
「そうか」
それ以上、踏み込んではこなかった。
しばらくして、エーヴェルハルトは本題を口にする。
「近いうちに、リオネス王国の式典へ向かう」
「存じています」
王宮の動きは、嫌でも耳に入る。
「その前に、お前に一度話しておこうと思ってな」
わざわざ、ここまで来て。
「……話、ですか」
「王宮に来る気はないか……つまり、私の側に」
予想外ではあったが、答えに迷いはしなかった。
「ありません」
即答する。
エーヴェルハルトは、少しだけ目を細めた。
「理由は?」
「必要がないからです」
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、不思議と圧はなかった。
「そうか」
エーヴェルハルトはあっさりと、引いた。
引き止めることも、説得することもない。
「……意外でした」
「何がだ」
「もう少し、何か言われるかと」
率直に言うと、エーヴェルハルトは小さく息を吐いた。
「お前を無理に引き込むつもりはない」
淡々とした声。
「ただ」
一拍、置く。
「いずれ必要になる。私も……お前もな」
断定だった。根拠も説明もない。ただ、そう言い切る。
「そのときに来い」
視線が合う。
逃げ場のない、まっすぐな視線。
――だが、圧はない。
「……その予定はありません」
そう返したはずだ。
確かに。
エーヴェルハルトは、わずかに笑った。
「だろうな」
それだけ言って、話は終わった。
あとは、取り留めのない会話を少しだけ交わして。
帰っていった。
それだけのことだ。
ただ、それだけの――
「……それだけ、か」
現実に引き戻される。何も、特別なことはなかった。ただ、やたらと構いに来る人間だった。
それだけだ。
――それだけのはずだった。
視線を落とした机の上には何もない。
用意された部屋。
用意された立場。
用意された未来。
すべてが、整いすぎている。
「……用意がいい」
小さく呟く。
――コンコン。
再び、扉が叩かれた。
「……入れ」
短く告げ、扉が開く。
「おはようございます、殿下……お休みになっていらっしゃらないのですか」
入ってきたのは、昨夜と同じ男――リヒトだった。部屋の奥の寝台に乱れがないことに気づいたらしい。
「気にするな、大したことじゃない」
普段から魔法塔で研究に明け暮れているため、昼夜逆転するのも珍しいことではない。
そう言うと、リヒトの整った顔に少しだけ困り顔が浮かび、しかしそれもすぐに整えられた。
「……朝食のご用意が整っております。ご案内いたしますが、いかがなさいますか」
「……随分と早いな」
「本日は、数名の方々がお目通りを希望されております」
淡々とした報告。
「断ることは」
「可能でございます」
一拍。
「ただし」
続く言葉を、ヴェルナーは待った。
「今後のご立場を鑑みますと、お勧めはいたしかねます」
やはり、か。小さく息を吐く。
逃げ場はない。
それは昨夜、すでに理解したはずだ。
「……顔ぶれは」
「宰相閣下をはじめ、数名の重臣方でございます」
政治の中枢――早いな。
「準備がいいことだ」
「陛下のご意向かと」
迷いのない返答。
「……そうか」
立ち上がる。
白衣ではない。用意されていた衣服に袖を通す。
鏡に映る自分は、見慣れた姿のはずなのに、どこか他人のようだった。
「……殿下」
リヒトが静かに呼ぶ。
「なんだ」
「本日より、すべてが変わります」
感情のない声。だが、その言葉だけが、やけに重く響いた。
「……だろうな」
短く返すなり、扉へと向かう。
その一歩は、軽くはなかった。
だが――止まる理由も、もうない。
「行くぞ」
「かしこまりました」
扉が開かれる。
外の光はやけに眩しかった。




