第七話 長安の学び舎 試験に受かれば、官僚になれるのか
◾️唐の学問と『五経』
阿倍仲麻呂が海を渡った八世紀の唐では、儒教の古典を学ぶことが、官僚を目指す人々にとって重要でした。
その中心となったのが、
『五経』
と呼ばれる五つの古典です。
『詩経』
古代の詩歌を集めた書物。
『書経』
古代の政治や歴史に関する記録。
『礼記』
礼儀や社会秩序について記した書物。
『易経』
変化の原理などを説く古典。
『春秋』
魯国の歴史を記した年代記。
もちろん、『論語』も重要な古典でした。 孔子の教えや弟子たちとの対話は、政治や人間のあり方を考えるうえで、大切な学びの対象だったのです。
では、よく耳にする「四書五経」とは何でしょうか。
四書とは、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四つを指します。
ただし、この四書が一組の学習体系として確立するのは、宋代の朱熹の時代です。
仲麻呂が生きた唐代に、後世と同じ形で、
四書五経を学んでいたと考えるのは正確ではありません。
同じ古典を学んでいても、時代によって、その位置づけや教え方は変わります。
仲麻呂が向き合ったのは、後世の教科書に整理された儒教ではなく、唐という国の政治や社会を支えていた、当時の学問の世界だったのです。
第七話 長安の学び舎
試験に受かれば、官僚になれるのか
阿倍仲麻呂、十九歳。
日本なら、これから何を学び、どんな仕事に就こうかと考える年頃である。
阿倍仲麻呂がやってきた唐には、学問を身につけ、試験を受け、官僚への道を目指す仕組みがあった。
その仕組みを知るには、まず、唐という国がどんな人材を求めていたのかを考える必要がある。
唐は、広大な領土を治める国だった。
都の長安には皇帝がいて、その下には多くの官僚がいた。
地方にも役人が置かれ、税を集め、裁判を行い、治安を守り、国の命令を伝えた。
これだけ大きな国を動かすには、人材が必要だった。
読み書きができるだけでは足りない。
古典を理解し、文章を書き、法律や制度を知り、皇帝の命令を実務に落とし込める人間が求められたのである。
では、その人材をどうやって選んだのだろう。
◾️一、 科挙という試験
唐の官僚登用制度として知られているのが、科挙である。
科挙とは、試験によって人材を選ぶ制度だ。
ただし、現代の大学入試と同じものだと考えると、少し違う。
試験に合格すれば、ただちに希望する役所に採用され、好きな仕事に就けるというわけではなかった。
また、唐の官僚が全員、科挙だけで選ばれていたわけでもない。
家柄や推薦、別の登用経路も重要だった。
それでも、学問と文章の力を示し、官僚への道を開く仕組みとして、科挙は大きな意味を持っていた。
試験の内容は時代によって変化したが、経書と呼ばれる儒教の古典や、文章を書く能力などが重視された。
つまり、受験者は、古典の知識を身につけるだけでなく、その知識を使って文章を作る力も求められたのである。
現代の受験勉強にたとえるなら、用語を暗記するだけでは合格できない。
覚えた知識を理解し、問いに答え、自分の考えを文章にまとめる必要があった。
もっとも、唐の試験は現代の学校教育とは違う。
何を学ぶべきかという考え方も、学問が社会で果たす役割も、現代とは異なっていた。
◾️二、 教科書は、何だったのか
唐の知識人にとって、儒教の古典は重要な学問の土台だった。
『論語』。
『孟子』。
『詩経』。
『書経』。
『礼記』。
そして、歴史書なども学問の対象になった。
これらの書物は、単なる昔話の集まりではない。
政治をどう行うべきか。
人間はどう振る舞うべきか。
君主と臣下は、どのような関係にあるべきか。
社会の秩序をどう保つべきか。
そうした問いを考えるための書物だった。
古典を学ぶことは、政治を学ぶことでもあった。
官僚になろうとする者にとって、古典の知識は教養であると同時に、仕事をするための基礎でもあったのである。
ただし、古典を学んだからといって、誰もが立派な官僚になるとは限らない。
知識があることと、それを現実の政治に生かせることは、別の問題だからだ。
この点は、千年以上たった現代にも通じる。
試験に強い人と、実際の仕事に強い人。
その二つが、いつも完全に一致するわけではない。
◾️三、 詩が書けるということ
唐の時代には、詩も重要な教養だった。
詩は、ただ気持ちを表現するためのものではない。
言葉を選ぶ力、古典への理解、韻律を整える技術、そして教養を示す手段でもあった。
宮廷や知識人の集まりでは、詩が交わされることもあった。
宴席で詩を作る。
友人に詩を贈る。
別れの際に詩を残す。
旅先の景色を詩にする。
詩は、知識人たちの交流を支える文化でもあったのである。
もちろん、唐の人々が全員、詩人だったわけではない。
詩を作ることに長けた人もいれば、実務を得意とする人もいた。
それでも、文章を美しく、正確に書く力は、知識人にとって大きな武器だった。
仲麻呂が唐で学ぶとすれば、漢字を知っているだけでは足りない。
同じ漢字を使っていても、文章の作法や、言葉に込められた意味には、学ぶべきことがいくらでもあっただろう。
日本で学んだ知識を持っているからこそ、違いにも気づける。
異国で学ぶことは、何も知らない状態から始めることとは違う。
すでに知っているものを、新しい世界の中で確かめ直すことでもあった。
◾️四、 勉強すれば、出世できるのか
ここで、ひとつ疑問が生まれる。
学問を修め、試験に合格すれば、誰でも出世できたのだろうか。
答えは、そう単純ではない。
唐では、科挙以外の登用経路もあり、家柄や人脈も官僚への道に影響した。
試験の制度が存在することと、すべての人に同じ機会が与えられることは、同じではない。
学問を続けるには時間がいる。
書物を手に入れるにも、学ぶ環境を整えるにも、条件が必要だった。
裕福な家の子弟は、学問に集中できる場合があった。
一方で、生活のために働かなければならない人は、同じようには勉強できなかったかもしれない。
試験は、能力を示す機会になり得る。
しかし、その機会をつかめるかどうかには、本人の努力だけでは決まらない事情もあったのである。
だからといって、科挙に意味がなかったわけではない。
家柄だけでなく、学問や文章の力を評価する仕組みには、それまでとは違う可能性があった。
大切なのは、制度の理想と現実を分けて考えることだ。
試験があるから、完全に公平だとはいえない。
けれども、不公平があるから、試験に意味がないともいえない。
制度というものは、いつの時代も、そうした複雑さを抱えている。
◾️五、 仲麻呂が学ぶということ
阿倍仲麻呂は、日本から唐へ渡った留学生だった。
彼が唐で何を学び、どのような教育を受けたのかについては、史料から確認できることと、詳しくはわからないことを区別する必要がある。
後世の物語のように、彼の毎日の勉強を細部まで知ることはできない。
それでも、当時の唐が、古典や文章の力を重視する社会だったことは理解できる。
仲麻呂がその社会で学ぶということは、書物の内容を覚えるだけではなかった。
言葉の使い方を学ぶ。
人々の考え方を知る。
政治の仕組みを理解する。
そして、日本で身につけた知識を、異国の世界の中で試してみる。
十九歳の青年にとって、それは大きな挑戦だっただろう。
新しい書物を開けば、知らない知識に出会う。
先生の話を聞けば、日本では聞いたことのない考え方に触れる。
同じ漢字を使っているのに、文章の組み立て方が違う。
同じ古典を読んでいても、その解釈に違いがある。
学べば学ぶほど、知らないことが増えていく。
それは、少し悔しく、しかし、楽しいことでもあったはずだ。
◾️六、 十九歳の未来
十九歳の青年にとって、学問は、遠い昔の偉人を知るためだけのものではない。
自分がどんな人間になれるのか。
どんな仕事ができるのか。
どこまで遠くへ行けるのか。
その可能性を広げるものでもある。
唐の学問を身につけることは、仲麻呂にとって、日本では得られない経験を手に入れることだった。
そして、唐で学んだことは、彼自身の人生を変えるだけでなく、日本と唐の文化交流にもつながっていく。
ただし、この時点で、仲麻呂の未来が決まっていたわけではない。
後世の私たちは、彼が長安で長い年月を過ごし、日本へ帰ることができなかったことを知っている。
けれども、十九歳の仲麻呂は、まだ自分の人生の結末を知らない。
目の前には、学ぶべき書物がある。
歩くべき街がある。
知り合うべき人々がいる。
そして、これから先に何が待っているのか、まだわからない。
知らないことがあるからこそ、学ぶことが楽しい。
十九歳の阿倍仲麻呂にとって、長安は、まだまだ知りたいことでいっぱいの都だった。




