第九話 皇后なき後宮 楊貴妃は、何者だったのか
第九話 皇后なき後宮
楊貴妃は、何者だったのか
唐の都、長安。
阿倍仲麻呂が暮らすこの都には、皇帝の住む宮殿があった。
そこには、政治を動かす官僚たちがいる。
皇帝の命令を受けて働く役人たちがいる。
そして、宮殿の奥には、もう一つの世界があった。
後宮である。
後宮とは、皇帝の妃や宮女たちが暮らす場所だ。
現代の私たちは、後宮と聞くと、皇帝の寵愛をめぐって女性たちが争う物語を思い浮かべるかもしれない。
しかし、実際の後宮は、それだけではなかった。
身分があり、役割があり、礼儀や儀式があり、宮廷を支える仕組みがあった。
皇帝のそばにいるということは、単に皇帝に気に入られるということではない。
その女性の身分は、宮廷の中での立場にも関わっていたのである。
◾️ 一、皇后がいないということ
仲麻呂が生きた時代、唐の皇帝は玄宗だった。
玄宗は、唐の歴史の中でも、特に知られた皇帝の一人である。
その治世の前半には政治が安定し、唐の文化が大きく花開いた。
しかし、玄宗の治世を語るとき、どうしても名前が挙がる女性がいる。
楊貴妃である。
ところが、ここで一つ、不思議なことに気づく。
玄宗の時代、皇后の地位は空席だった。
玄宗には、かつて王皇后がいた。
しかし、王皇后は七二四年に廃され、その後、玄宗は新たな皇后を立てなかった。
皇后がいない。
それならば、皇帝の妃たちの中で、誰が最も高い地位にいたのだろう。
答えを知るには、まず唐の後宮の制度を見ておく必要がある。
◾️二、後宮にも身分があった
唐の後宮には、皇后を頂点とし、その下にさまざまな身分の女性たちが置かれる制度があった。
制度は時代によって変更されたが、皇帝の妃たちには、身分や位階が定められていた。
唐の制度を記した史書『新唐書』などには、妃嬪の序列が記されている。
その制度では、皇后の下に、
貴妃、
淑妃、
徳妃、
賢妃、
などの高い位が置かれた時期があった。
さらに、その下には九嬪と呼ばれる女性たちがいた。
昭儀、
昭容、
昭媛、
修儀、
修容、
修媛、
充儀、
充容、
充媛、
漢字だけを見ても、現代の私たちにはなじみが薄い。
その下にも、
婕妤、
美人、
才人、
などの位があり、さらに低い位の宮女たちがいた。
ただし、これは唐の制度全体を理解するための基本的な説明であり、すべての時期に同じ序列が、そのまま運用されたわけではない。
玄宗の時代にも制度の変更があった。
つまり、後宮は、皇帝の好みだけで動く場所ではなかったのである。
そこには、宮廷の制度があった。
◾️三、皇后と貴妃は、どう違うのか
ここで、最も大切な違いを確認しておこう。
皇后は、皇帝の正妻として、後宮の頂点に立つ存在だった。
皇帝の妃たちを統率し、宮廷の儀礼に関わるなど、制度上の重要な地位を持っていた。
一方、貴妃は、皇后に次ぐ高い地位に置かれた妃の称号だった。
皇后がいなければ、貴妃が後宮で最も高い身分の女性となることもある。
しかし、だからといって、貴妃が自動的に皇后になるわけではない。
皇后と貴妃は、別の地位だった。
現代の会社にたとえるなら、組織の中で最も高い役職にいる人と、実際に大きな影響力を持つ人が、必ずしも同じとは限らない。
もちろん、宮廷と現代の会社は違う。
だが、制度上の地位と、実際の影響力を分けて考えることはできる。
玄宗の後宮を理解するには、この二つを区別する必要があった。
◾️四、楊貴妃という女性
楊貴妃の本名は、楊玉環という。
もともとは、玄宗の息子である寿王・李瑁の妃だった。
その後、道士としての生活を経て、玄宗の後宮に入り、天宝四載、七四五年に貴妃の位を与えられた。
この経緯は、後世の人々にさまざまな物語を生み出させた。
なぜ、皇帝の息子の妻だった女性が、皇帝自身の妃になったのか。
そこには、当時の宮廷の事情があった。
ただし、後世の物語には、史実と脚色が混じっている。
楊貴妃について語るときは、史書に記された経緯と、後世に広がった伝説を分けて考えなければならない。
確かなのは、彼女が玄宗の深い寵愛を受け、唐の宮廷で大きな存在となったことだ。
そして、彼女は皇后ではなく、貴妃だった。
皇后がいない後宮において、楊貴妃は、皇帝の寵愛を受ける最高位の妃として知られるようになったのである。
◾️五、宮廷の女性は、みな同じだったのか
ここで、もう一つ考えてみよう。
後宮には、多くの女性がいた。
皇帝の妃たちだけではない。
宮廷で働く宮女たちもいた。
身の回りの世話をする者。
衣服を整える者。
儀礼に関わる者。
さまざまな仕事を担う女性たちが、宮廷を支えていた。
彼女たちは、みな同じ立場だったわけではない。
生まれた家も違えば、与えられた役割も違う。
高い身分に上がる女性もいれば、長く宮廷の仕事を続ける女性もいた。
後宮という言葉から、皇帝の愛を競う女性たちだけを想像してしまうと、その実態を見誤る。
後宮は、皇帝の私生活の場であると同時に、制度と仕事によって成り立つ宮廷の一部でもあった。
そして、そこにいる女性たちも、それぞれの人生を生きていたのである。
◾️六、仲麻呂は、楊貴妃に会ったのか
ここで、阿倍仲麻呂の話に戻ろう。
仲麻呂が唐に渡ったのは、七一七年ごろ。
楊貴妃が貴妃となったのは、七四五年。
二人が唐で過ごした時期は重なっている。
仲麻呂は、玄宗の治世のもとで長安に暮らし、唐の官僚としても活動した。
一方、楊貴妃は、玄宗の寵愛を受ける宮廷の女性となった。
では、二人は実際に会ったのだろうか。
残念ながら、仲麻呂と楊貴妃が会ったことを確実に示す史料は、知られていない。
同じ都にいたことと、実際に顔を合わせたことは、別の問題である。
宮廷に出入りする機会があったとしても、皇帝の妃たちが暮らす後宮は、誰もが自由に訪ねられる場所ではなかった。
仲麻呂が楊貴妃の姿を見たのかどうかも、史料からは確かめられない。
だからこそ、この問いは面白い。
史実として確認できることは何か。
史料には残っていないことは何か。
そして、小説として想像できる余地はどこにあるのか。
その境界を意識することで、歴史の物語は、もっと豊かになる。
十九歳で海を渡った青年は、やがて唐の宮廷社会の中で生きていくことになる。
その時代の都には、玄宗がいた。
そして、楊貴妃がいた。
仲麻呂は、彼女に会ったのだろうか。
その答えは、今も歴史の謎の一つなのである。




