第六話 長安の街の、衣裳と髪型、そして流行
第六話 長安の街の、衣裳と髪型、そして流行
長安という都は、人間だけでなく、衣裳もまた、世界中から集まってくる場所だった。
東西に延びる大通り。
碁盤の目のように区画された街並み。
人々が暮らす坊と呼ばれる区画があり、その外には、東市と西市という大きな市場があった。
市場に並ぶのは、絹織物、香料、陶磁器、宝石、薬、そして見たこともない異国の商品。
人々の顔立ちも、言葉も、身につけている衣裳も、一様ではない。
十九歳の阿倍仲麻呂にとって、長安は、街そのものが巨大な博物館であり、世界の見本市でもあった。
ただし、博物館と違って、展示物は動き回る。
しかも、話しかけてくる。
値段をふっかけてくる。
時には、こちらのほうが田舎者だと笑われる。
長安で暮らすということは、毎日が勉強なのである。
◾️一、 唐の女性たちは、何を着ていたのか
唐代の女性の衣裳を知る手がかりは、墓から出土した俑や壁画、絵画などに残されている。
俑というのは、墓に納められた人形のことだ。
人間の代わりに、死者の暮らしを彩るものとして作られた。
その人形たちは、千年以上の時を越えて、当時の衣裳を伝えてくれる。
女性の衣裳としてよく知られるのが、上衣と長い裙を組み合わせた装いである。
裙とは、現代の言葉でいえばスカートに近い。
上衣は短めで、裙は長く、腰の高い位置で結ぶ着こなしも見られた。
肩には披帛と呼ばれる細長い布を掛けることがある。
布は肩から腕へと流れ、歩くたびに揺れる。
袖の広い衣服もあった。
ゆったりとした布が動きに合わせて形を変え、静止した姿よりも、歩いている姿のほうが美しく見えるような衣裳だった。
もちろん、誰もが絹の衣服を着ていたわけではない。
身分や財力によって、使える布も、染められる色も、装飾の豪華さも違った。
華やかな衣裳を身につけた貴族の女性もいれば、麻などの布を使った質素な衣服で働く女性もいた。
長安の街を歩けば、衣裳を見るだけでも、人々の暮らしの違いがわかる。
もっとも、服だけで身分を見抜くのは簡単ではない。
異国から来た商人もいれば、旅の途中の役人もいる。
立派な服を着ているからといって、必ずしも長安の生まれとは限らないのだ。
◾️二、 額田王の時代と、どこが違うのか
ここで、日本の読者にもおなじみの人物を思い浮かべてみよう。
額田王である。
額田王は、飛鳥時代を代表する歌人の一人だ。
ただし、私たちが今日、絵画や映像などで見る額田王の衣裳や髪型は、後世の想像や復元による部分もある。
本人の姿を写した写真が残っているわけではない。
したがって、額田王の装いを、そのまま当時の日本女性全員の姿と考えることはできない。
それでも、飛鳥時代の日本と、阿倍仲麻呂が暮らした唐の時代を比べてみることには意味がある。
日本は、遣唐使などを通じて大陸の制度や文化を学んでいた。
衣服や髪型も、そうした文化交流と無縁ではなかった。
しかし、文化は、海を渡った途端に同じ形になるわけではない。
伝わったものを、受け入れた側が、自分たちの好みや習慣に合わせて変えていく。
同じように長い布をまとっていても、着方が違う。
髪を結い上げていても、形が違う。
装飾品の選び方も違う。
そこに、それぞれの土地の美意識が現れる。
仲麻呂が唐で見たものを日本へ持ち帰ったとしても、日本の人々が唐の流行をそっくりそのまま採用するとは限らなかっただろう。
文化交流とは、模写ではない。
相手の文化を知り、自分たちの文化を見直すことでもあった。
◾️ 三、 髪型は、頭の上に咲く花
唐代の女性の髪型は、衣裳に負けず華やかだった。
髪を頭の上に高く結い上げる。
左右に形を作る。
髪を巻き、束ね、飾りを添える。
時代によっては、髪を大きく見せるために、作り物の髪を利用することもあった。
髪飾りには、かんざしや櫛などが使われた。
金属や宝石などを用いた豪華なものもあれば、もっと簡素なものもあった。
髪型には流行がある。
唐代の長い歴史の中でも、女性たちの髪型は少しずつ変化した。
特に玄宗皇帝の時代、八世紀前半には、ふくらみのある髪型や、複雑に形作られた髪型が見られる。
ただし、宮廷の女性と市井の女性が、全員同じ髪型だったわけではない。
身分や年齢、暮らし方によって、実際の装いは違ったはずだ。
髪型は、単に髪をまとめる方法ではなかった。
その人がどのような場に出るのか。
どれほど手間をかけられるのか。
どんな美しさを好むのか。
そうしたことが、頭の上に表れていたのである。
仲麻呂が長安で目にした女性たちの髪型は、故郷で見慣れたものとは違っていたかもしれない。
だが、驚くべきなのは、形の違いだけではない。
髪型にも、流行があるということだ。
昨日まで美しいとされたものが、今日は古く見える。
新しい髪型が流行すれば、女性たちはそれを試してみる。
千年以上前の長安にも、そんな気持ちがあったのだ。
流行に敏感な人間は、いつの時代にもいる。
◾️ 四、 衣裳を作る人、髪を整える人
華やかな衣裳を見れば、当然、気になることがある。
いったい、誰が作ったのだろう。
絹を作るには、蚕を育て、繭から糸を取り、糸を織り、布にしなければならない。
さらに、布を染め、模様を施し、衣服に仕立てる。
一着の衣裳の背後には、多くの人々の仕事があった。
髪飾りも同じだ。
金属を加工する職人。
宝石を扱う職人。
櫛や装飾品を作る職人。
そして、髪を結い上げる技術を持った人々。
美しいものは、自然に生まれてくるわけではない。
誰かが材料を集め、技術を磨き、手を動かして作り上げる。
長安の市場には、完成した商品だけでなく、それを生み出す技術も集まっていた。
異国の商人が持ち込んだ品物があれば、唐の職人が作った品物もある。
外国から来た意匠が、唐の人々の好みに合わせて変化することもあっただろう。
長安は、物を売り買いする場所であると同時に、技術や流行が交差する場所でもあった。
◾️五、 長安の家と、街の暮らし
衣裳だけでは、長安の生活はわからない。
人々は、どんな家に住んでいたのだろう。
唐の長安は、計画的に整備された巨大な都だった。
街は区画に分けられ、それぞれの区画には人々が暮らす坊があった。
東市と西市には、商人たちが集まり、さまざまな商品が取引された。
ただし、都に暮らす人々が、全員、同じような家に住んでいたわけではない。
身分や財力によって、住まいの広さも、建物の造りも違った。
裕福な家には、複数の部屋や中庭を備えた住まいもあった。
一方で、働く人々には、もっと簡素な住まいが必要だった。
建物を造る木材や瓦、壁の仕上げ方にも、地域や身分による違いがあった。
そして、家の中にも仕事があった。
食事を作る。
衣服を整える。
水を運ぶ。
道具を手入れする。
家族の世話をする。
都の華やかな暮らしを支えていたのは、そうした毎日の仕事だった。
長安を「世界の都」と呼ぶと、つい宮殿や大商人の屋敷ばかりを想像してしまう。
しかし、都は、そこに暮らす大勢の人々によって成り立っている。
朝になれば仕事へ向かう人がいる。
市場で商いをする人がいる。
荷物を運ぶ人がいる。
布を織る人がいる。
食事を作る人がいる。
その一人一人の暮らしが集まって、長安という巨大な都を動かしていた。
十九歳の仲麻呂が学ぶべきことは、宮廷の制度や漢詩だけではなかった。
衣裳にも、髪型にも、家にも、街の仕組みにも、学ぶべきことがあったのである。
世界を知るということは、偉大な人物の言葉を覚えることだけではない。
人々が何を着て、どんな家に住み、どんな仕事をし、何を美しいと思っているのか。
そういうことを知るのも、また、世界を学ぶことだった。




