第五話 長安の食卓―羊肉、餅、茶、そして酒
第五話 長安の食卓―羊肉、餅、茶、そして酒
十九歳の阿倍仲麻呂が海を渡ってやってきた唐の都、長安。
そこには、日本で見たことのない建物があり、聞いたことのない言葉があり、知らない土地からやってきた人々が暮らしていた。
そして、もちろん、食べ物も違った。
人間は、どこへ行っても腹が減る。
学問を志す青年であろうと、遣唐使の一員であろうと、それは変わらない。
長安の食卓を知ることは、当時の人々の暮らしを知ることでもある。
今回は、八世紀の唐で食べられていた料理と飲み物を、ひとつずつ見ていこう。
◾️ 一、 羊肉―北方の食卓
唐代の中国北方では、羊肉がよく食べられていた。
広大な領土を持つ唐では、地域によって気候も産物も異なり、食文化にも違いがあった。北方では羊を利用した肉料理が食卓に登場した。
羊肉の特徴は、独特の香りと脂のうまみにある。
現代の私たちが羊肉を食べるときにも感じる、あの少し野性的な香りだ。
ただし、肉の香りは、羊の育った環境や年齢、部位、保存状態、調理法によって変わる。八世紀の羊肉が現代の羊肉とまったく同じ味だったと、簡単に断定することはできない。
唐代の料理では、肉を煮る、蒸す、焼くなど、さまざまな調理法が用いられていた。
焼いた肉には、火にあぶられた表面の香ばしさが生まれる。煮た肉は、調理時間や味つけによって、やわらかさや汁の風味が変わる。
肉料理の面白さは、素材だけで決まらないところにある。
同じ羊肉でも、どう切り、どう火を通し、何を加えるかによって、まったく違った料理になるのだ。
◾️ 香辛料と羊肉
長安は、さまざまな地域の人々や物資が行き交う国際都市だった。
西域との交流もあり、異なる地域の文化が都に集まっていた。
香辛料もまた、食べ物の風味を形づくる重要な素材だった。
香辛料と聞くと、現代の私たちはカレー粉や唐辛子、クミン、コリアンダーなどを思い浮かべるかもしれない。
しかし、唐代の料理を現代のスパイス料理と同じものとして考えることはできない。
当時、どの料理にどの香辛料が使われたのかは、個々の料理について史料を確認する必要がある。
それでも、肉の香りと香味素材の組み合わせが、料理の味わいを豊かにしていたことは想像できる。
炭火で焼いた肉の表面が香ばしくなり、脂が熱で溶け、そこに香辛料の香りが加わる。
こうした料理を思い浮かべると、現代の羊肉串やサテを連想する人もいるだろう。
ただし、現代のサテと同じ料理が八世紀の長安に存在したと確認されているわけではない。
似たような食欲をそそる香りを想像することと、同一の料理だったと断定することは、別なのである。
◾️二、 餅 日本の餅とは違う
唐代の食べ物を知るうえで、もうひとつ興味深いのが「餅」という言葉だ。
日本語で餅といえば、もち米を蒸してついた食品を思い浮かべる。
しかし、中国の古い文献に登場する「餅」は、それだけを意味するわけではない。
唐代の食文化では、小麦粉を使った食品も重要だった。
蒸して作る餅、焼いて作る餅、湯に入れて食べる餅など、製法によってさまざまな種類があった。
現代の感覚でいえば、蒸しパンに近いもの、平たいパンに近いもの、麺料理に近いものを含む、幅広い食品のまとまりだったのである。
もちろん、現代のパンや麺と完全に同じだったわけではない。
原料の配合も、発酵の方法も、調理器具も、時代によって異なる。
それでも、小麦粉を水と合わせ、形を作り、火を通すという基本的な発想は、長い歴史のなかで多くの地域に見られる。
◾️胡餅 異国の香りを持つ食べ物
唐代の文献には「胡餅」という食品も登場する。
「胡」という字は、古代中国で西方の人々や地域などに関係して使われた言葉である。
胡餅は、一般に西方との関わりを持つ餅として知られ、唐代の食文化を紹介する際によく取り上げられる。
ただし、胡餅という名称だけから、すべての時代、すべての地域で同じ形や味だったと考えることはできない。
具体的な材料や製法には、時代や地域による違いがあったと考えるべきだろう。
小麦粉を使った食品は、主食にも軽食にもなりうる。
焼いた食品なら、表面には香ばしさが生まれる。中に具材が入っていれば、皮と具の食感の違いも楽しめる。
こうした食品が街の食生活を支えていたことを考えると、長安の食卓は、宮廷の豪華な宴席だけで成り立っていたわけではないことがわかる。
人々が日々食べるものこそ、その時代の暮らしを知る手がかりなのである。
◾️三、 茶 葉を煮て飲む
唐代の飲み物を語るなら、茶を外すことはできない。
茶を飲む習慣は唐代に広く普及し、八世紀には茶の製法や飲み方について詳しく記した書物も現れた。
その代表が、陸羽の『茶経』である。
『茶経』は、茶の起源や産地、製造法、道具、いれ方などを扱った、茶文化を知るうえで重要な文献だ。
現代の日本では、急須に茶葉を入れ、お湯を注いで飲む方法が一般的である。
しかし、唐代の茶の飲み方は、現在の日本茶の飲み方とは異なっていた。
当時は、加工した茶を固めて保存する方法があり、固形の茶をあぶり、砕いて粉末にし、水で煮出すという飲み方が知られている。
茶葉をそのまま湯に浸しておくのではなく、茶を煮るのである。
◾️どんな味だったのか?
茶の味は、茶葉の種類、産地、加工方法、保存状態、煮出し方によって変わる。
現代の緑茶を思い浮かべると、さわやかな香りや、ほのかな苦みを連想するだろう。
しかし、唐代の茶を現代の緑茶と同じ味だったと決めつけることはできない。
固形に加工された茶をあぶり、粉末にして煮出す方法では、現代の一般的な煎茶とは香りや口当たりが違った可能性がある。
陸羽の『茶経』には、茶の製造や煮方、用いる水や道具についての記述がある。
つまり、当時の人々も、ただ茶を飲めればよいと考えていたわけではない。
どのように作り、どのように煮て、どんな味わいに仕上げるか。
そこには、茶を楽しむための知識と工夫があった。
茶は、喉を潤すだけの飲み物から、味や香り、作法を楽しむ文化へと広がっていったのである。
◾️四、 酒 人々が集うとき
唐代の酒文化も豊かだった。
酒は宴席や社交の場で飲まれ、詩や文学の題材にもなった。
唐代の詩人たちの作品には、酒を飲む場面や、酒にまつわる思いが数多く登場する。
酒は、単なる飲み物ではなかった。
友人と語り合うとき、別れを惜しむとき、宴を楽しむとき、詩を詠むとき。
人と人との関係を彩るものでもあった。
◾️ 唐代の酒は、現代の日本酒と同じか?
ここは注意したいところだ。
唐代にも穀物などを原料とする醸造酒があり、酒にはさまざまな種類があった。
しかし、唐代の酒を、現代の日本酒とそのまま同じものとして説明することはできない。
原料や製法、発酵の管理、保存方法が異なれば、味も香りも変わる。
また、当時の酒の名称が文献に記されていても、その名称だけで、現代のどの酒に相当するかを確定できるとは限らない。
酒の色や香り、甘み、酸味、口当たりも、酒の種類によって違ったはずだ。
現代の私たちが日本酒を飲むときにも、米のうまみを感じるもの、香りの華やかなもの、酸味の際立つものなど、さまざまな違いがある。
唐代の酒もまた、ひとまとめにして「昔の中国の酒」と呼ぶだけでは、その豊かさを捉えきれないのである。
◾️ 茶と酒
唐代の文化を面白くしているのは、茶と酒がともに人々の生活や社交に関わっていたことだ。
酒は宴席や詩人たちの交遊を彩った。
一方、茶を飲む習慣も広がり、仏教寺院や知識人の世界などで重要な役割を果たした。
茶と酒は、単純にどちらか一方が他方を追い払ったわけではない。
人々は場面に応じて飲み物を選び、それぞれの飲み物に異なる楽しみや意味を見いだしていた。
飲み物の歴史をたどると、当時の人々が何を好み、どのように集まり、どんな時間を過ごしていたのかが見えてくる。
◾️五、 食卓から見える唐という世界
羊肉、小麦粉を使った餅、茶、酒。
どれも、ただ空腹を満たしたり、喉を潤したりするだけのものではない。
材料を選び、加工し、火を通し、味を整える。
そこには、自然環境や地域の産物、人々の移動、異なる文化との交流が反映されている。
唐は広大な領土を持つ帝国だった。
北方と南方では気候も産物も異なり、人々の食生活にも違いがあった。
さらに、周辺地域との交流によって、食材や調理法、食べ物に対する考え方も行き交った。
都の長安は、そうした広い世界が交わる場所のひとつだった。
ただし、長安で暮らす人々が、みな同じものを食べていたわけではない。
宮廷の宴席と庶民の日常の食事では、使える材料も、料理の種類も、食卓の豊かさも違ったはずである。
住む地域や身分、職業、経済的な事情によっても、食べられるものは変わる。
だからこそ、唐代の食文化を知るには、ひとつの豪華な料理だけを見るのではなく、日々の主食や飲み物にも目を向ける必要がある。
十九歳の阿倍仲麻呂が学ぼうとしていたのは、書物に記された文字だけではなかった。
彼が渡ってきた唐という国は、人々が食べ、飲み、働き、語り合う、現実の生活の場でもあったのである。
食卓を知ることは、その国の人々を知ることにつながる。
そして、食べ物の歴史をたどることは、遠い時代に生きた人々の暮らしを、少し身近に感じることでもあるのだ。




