第三話 船に乗る者、夢を見る者 大改訂版
第三話 船に乗る者、夢を見る者
船というものは、陸の上にあるあいだが、いちばん立派に見える。
帆はたたまれ、荷は積み込まれ、船乗りたちは忙しそうに動き回っている。
これから海へ出るのだという気配が、あたりに満ちている。
まだ波は穏やかだ。
誰も船酔いをしていない。
荷物も、まだ海に落ちていない。
そして、乗り込もうとしている者たちは、それぞれに、自分の旅がどんなものになるのかを考えている。
私は、こういう時間が好きだ。
人間は、出発する前には、たいてい自分の未来を少々よく見積もりすぎる。
船が無事に着くことは当然だと思う。学問は身につくものだと思う。異国では歓迎されるものだと思う。
もちろん、そうなることもある。
しかし、海というものは、人間の予定表を見て航海してくれるほど親切ではない。
さて、阿倍仲麻呂である。
十九歳。
日本にある書物を読み、なお、知らないことがあると知ってしまった青年だ。
彼は、これから唐へ渡る。
目的は、知識。
少なくとも、彼の胸の中では、それがいちばん大きかったに違いない。
唐には、どんな書物があるのだろう。
どんな学者がいるのだろう。
どんな言葉が交わされ、どんな議論が行われているのだろう。
仲麻呂は、まだ見ぬ都のことを考えていた。
十九歳の青年が、長安という大都市を思い浮かべる。
そこには、宮殿がある。市場がある。人々が行き交う大きな道がある。そして、自分がまだ知らない知識が、あちこちに転がっている。
彼にとって、長安は巨大な書庫のようなものだったのかもしれない。
ただし、書庫と違って、そこに住む人間は、こちらの都合に合わせてページを開いてはくれない。
私は、少しばかり笑った。
若者よ。君が探しているのは書物だが、君がこれから相手をするのは人間なのだ。
人間というのは、書物よりずっと厄介で、ずっと面白い。
さて、仲麻呂と同じ遣唐使の一行には、彼とは違う道を目指す者たちがいた。
吉備真備。
後に学者として、政治家として名を残すことになる人物である。
玄昉。
仏教を学ぶため、唐へ渡る僧である。
そして、井真成。
後世、西安で発見された墓誌によって、その名が知られるようになった人物だ。彼は唐で生涯を終えた。
この三人について、仲麻呂がどんな会話を交わしたのか、私たちは詳しく知らない。
歴史の記録というものは、まことに不便だ。
人間の官職や功績は書き残してくれるのに、初対面でどんな顔をしたか、何を尋ねたか、どんな冗談を言ったかとなると、途端に口をつぐんでしまう。
だから、ここからは小説の出番である。
もちろん、以下の会話は創作だ。実際に交わされた言葉だと主張するつもりはない。
ただ、これから同じ海を渡る若者たちが顔を合わせたなら、どんな話をしただろうか。
仲麻呂は、きっと何かを尋ねたかったに違いない。
唐には、どんな学問があるのか。
どんなことを学ぶつもりなのか。
どのくらいの書物を読めるのか。
質問なら、いくらでも思いついただろう。
一方、真備は、仲麻呂ほど浮き立ってはいなかったかもしれない。
いや、彼だって若い。新しい知識を求める気持ちはあっただろう。
しかし、同じ「学ぶ」という言葉を使っていても、二人が思い描くものは違った可能性がある。
人は、同じ場所へ行くからといって、同じものを探しているとは限らない。
仲麻呂が書物を思い浮かべているとき、真備は、学んだ知識をどのように身につけるか考えていたかもしれない。
玄昉は、仏の教えを求めていた。
井真成にも、彼自身の願いがあったはずだ。
同じ船に乗る。
だが、同じ夢を見るわけではない。
これから先、彼らはそれぞれの人生を歩むことになる。
この時点で、その未来を知っている者はいなかった。
そして、十九歳の仲麻呂は、まだ自分の人生がどこへ向かうのか、想像すらしていなかっただろう。
それでよい。
冒険に出る前から、自分の人生の結末を知っている者など、どこにもいないのだから。
さて。
船に乗るというのは、なかなか面倒なことである。
陸の上なら、忘れ物に気づけば取りに戻れる。
誰かに会いたくなれば、歩いて会いに行ける。
食べ物が足りなければ、探すこともできる。
ところが、海へ出れば、そうはいかない。
忘れ物は忘れ物のままだ。
船が出たあとで、やはり戻りたいと言っても、波に向かって頼むわけにはいかない。
海は、乗り込んだ者たちを、まとめて運び出す。
そして、彼らを待っている家族のことなど、少しも気にかけない。
母親は、息子の帰りを待つ。
父親も、無事を願う。
故郷には、いつもと変わらない暮らしが残る。
けれど、旅立った者がいないというだけで、その暮らしには小さな穴が空く。
仲麻呂は、母親に帰ると約束した。
その約束は、彼にとって本気だっただろう。
帰るつもりで出発する。
学んで、見て、知って、それを故郷へ持ち帰る。
若者の未来は、そういうふうに、まっすぐ伸びているように見える。
だが、人生というものは、地図に描かれた航路のようには進まない。
私は、杯をひと口傾けた。
おっと、まだ船は出ていない。
話を先へ進めすぎるのはやめよう。
冒険小説には、出発前の時間も必要なのだ。
荷を確かめる者。
船の様子を見る者。
同行する者たちの顔を覚える者。
そして、これから何を見られるのかと、胸を躍らせる者。
仲麻呂は、きっと後者だった。
彼は、これから始まる旅を恐れていなかった、とまでは言えない。
恐れがあったかどうかを示す記録はない。
だが、少なくとも彼は、遣唐使の留学生として海を渡る道を選び、唐で学ぶことになる。
その事実の向こうに、十九歳の青年の好奇心を想像することはできる。
知らない世界を見たい。
その気持ちが、彼を船へと向かわせた。
さあ、若者よ。
これから君は、見たことのない海を渡る。
君の前には、まだ知らない人々がいる。
君の後ろには、帰りを待つ人々がいる。
そして、君自身にも、まだ知らない未来がある。
船は、やがて岸を離れる。
その瞬間、陸の上にいた人々は、少しずつ遠ざかっていくだろう。
海の上では、船に乗る者たちが、同じ風を受ける。
しかし、それぞれの胸の中にあるものまでは、誰にもわからない。
それこそが、人間の旅というものだ。
私は杯を置き、海を眺めた。
さて、いよいよ船出である。
十九歳の阿倍仲麻呂は、これから何を見るのだろう。
そして、何を見たときに、初めて気づくのだろう。
自分が探しに来たものと、自分を待っていたものは、必ずしも同じではないのだと。
船が岸を離れるとき、その答えはまだ、誰の手にもなかった。




