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『決断の時/The Hour of Decision』➖ 遣唐使 阿倍仲麻呂 十九歳 、叡智への航海  作者: 東曌


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第二話 帰ってくる約束 大改訂版

第二話 帰ってくる約束



 若者というものは、出発する前から、ずいぶん遠くまで行ってしまうものだ。


 身体はまだ故郷にあるというのに、心のほうは、とうに海を越え、山を越え、見知らぬ都の門をくぐっている。


 阿倍仲麻呂も、その例外ではなかった。


彼の頭の中では、すでに長安の書物が何冊も開かれていた。日本では読めない書物。日本では聞いたこともない学説。日本では、まだ誰も知らない知識。


それらが、海の向こうで彼を待っている。


もっとも、八世紀の唐に、彼が夢見るような書物がどれほどあったのか。それは行ってみなければわからない。


だが、そんなことは仲麻呂には関係なかった。


知らないのだから、見に行く。


まことに単純で、まことに厄介な理屈である。


私は杯を傾けた。


若者というのは、どうしてこう、危険よりも未知のほうに心を奪われるのだろう。


さて。


出発を前にした仲麻呂は、持っていく書物のことを考えていた。


何を持っていくべきか。

何を置いていくべきか。

限られた荷物に、どれだけの知識を詰め込めるのか。


まるで、これから渡る海よりも、荷造りのほうが重大な問題であるかのようだった。


「そんなに本を持っていくつもりですか」


母親が尋ねた。


仲麻呂は、手元の書物から顔を上げた。


「できるだけ持っていきたいのです」


「でも、荷物には限りがあるのでしょう?」


「ええ。だから、どれを持っていくか考えています」


母親は、息子のそばに置かれた書物を見た。


この子は、幼いころから本が好きだった。


いや、実際にどんな幼少時代を過ごしたのか、細かなことはわからない。これは、母親というものを考えたとき、私の頭に浮かぶ光景である。


息子が何かを知りたがる。

答えを聞いても、また次の疑問が生まれる。

一つわかれば、二つわからないことが増える。


そんな子が、今度は海を渡るという。


母親は、息子の好奇心を知らないわけではない。


唐へ行けば、もっと多くのことを学べるのだろう。自分の知らない世界を見て、今まで知らなかったことを知るのだろう。


それが息子にとって、どれほど大切なことなのかも、きっと感じている。


だからこそ、簡単に「行ってはいけません」とは言えない。


けれども。


「着るものは、足りているのですか」


母親は尋ねた。


仲麻呂は、少し考えた。


「足りていると思います」


「本当に?」


「……もう一度、確かめます」


私は杯を置いた。


長安の学問についてなら、仲麻呂はいくらでも話せただろう。


だが、衣服の数を問われると、どうにも旗色が悪い。


若者というのは、遠い国のことには詳しくても、自分の身の回りのことには案外うといものだ。


母親は、息子の旅支度を確かめた。


衣服はあるか。

必要な品はそろっているか。

忘れ物はないか。


母親にとっては、どれも大切なことだった。


息子が唐で何を学ぶのか。どんな人に出会うのか。どんな立派な人物になるのか。


もちろん、それも気になっただろう。


だが、今、目の前にいる息子については、もっと具体的な心配があった。


船の上で、きちんと食べられるだろうか。


病気になったら、どうするのだろう。


海が荒れたら。


船が予定どおりに進まなかったら。


そして、無事に唐へ着いたとして、いつ帰ってこられるのだろう。


母親は、海の向こうの都を見たことがない。


そこにどんな書物があるのかも、どんな人々が暮らしているのかも、息子ほどには想像できなかったかもしれない。


けれど、息子がいなくなったあとの家の静けさなら、想像できたはずだ。


いつもそこにいる人が、いなくなる。


それだけのことが、暮らしを変えてしまう。


「向こうでは、どんなことを学ぶつもりなのですか」


母親が尋ねた。


仲麻呂の顔が明るくなった。


「唐には、こちらにはない書物がたくさんあるはずです。学問も、制度も、知らないことばかりでしょう。できるだけ多くのことを学びたいと思っています」


母親は、うなずいた。


「そうですか」


それだけだった。


息子が何を学びたいのか、すべてを理解できたわけではないかもしれない。


けれど、息子がそれを本気で望んでいることは、伝わった。


私は、こういう返事が好きだ。


人間は、相手の夢を完全に理解できなくても、その夢が大切なものだとわかることがある。


母親は、息子の夢を奪いたくなかった。


しかし、旅立つ息子を誇らしく思うことと、無事を願うことは、別々の気持ちではない。


どちらも、同じ息子に向けられている。


そして、その二つの気持ちは、ときに胸の中でぶつかる。


行かせてやりたい。


行かないでほしい。


この二つは、必ずしも矛盾しない。


親というものは、なかなか面倒な立場なのである。


私は杯を持ち上げた。


さて、ここで一つ、私たちが忘れてはならないことがある。


仲麻呂の母親が、実際にどんな言葉を口にしたのか。それを伝える記録は、残っていない。


だから、ここから先も、小説としての想像である。


だが、息子を遠い国へ送り出す母親が、帰りを願わなかったとは、私には考えにくい。


「必ず、帰ってきます」


仲麻呂は、そう約束した。


母親は、息子を見つめた。


「ええ。待っていますからね」


その言葉を、仲麻呂はどんなふうに受け止めただろう。


きっと、帰ってくるつもりだった。


唐で学び、さまざまなものを見て、やがて日本へ戻る。


そのときには、今よりずっと多くのことを知っているはずだ。


故郷に帰って、学んだことを伝える。


それは、青年にとって自然な未来だったのかもしれない。


母親もまた、その未来を思い描いたのだろう。


息子が帰ってくる。


背が伸びたように見えるかもしれない。話す言葉が変わっているかもしれない。唐での暮らしを、聞いたこともない話を、たくさん聞かせてくれるかもしれない。


母親は、それを聞きたい。


それだけでよかったのかもしれない。


私は、杯を置いた。


旅立つ者は、未来を見ている。


送り出す者は、未来を見ながら、同時に今の別れを見ている。


同じ約束を交わしていても、二人が見ているものは、少し違うのだ。


仲麻呂は、書物を整理し、持っていくものを選んだ。


読み慣れた書物を手放すのは惜しい。


だが、唐へ行けば、これまで知らなかった書物に出会えるかもしれない。


そう考えると、手放すことにも意味が生まれる。


知識を求める者にとって、旅とは、何かを持っていくことだけではない。これまでの自分が知らなかった世界に、自分の場所を空けておくことでもある。


もっとも、出発前の仲麻呂が、そこまで考えていたかどうかは知らない。


彼はただ、早く唐へ行きたかったのだろう。


その気持ちを、私は笑うつもりはない。


未知の世界に胸を躍らせることができるのは、若さの特権である。そして、その特権を持つ者は、ときに大人たちがとうに諦めた場所へ、平然と歩いていく。


さて。


いよいよ出発の日が近づいてきた。


母親は、息子の旅支度をもう一度確かめる。


足りないものはないか。

忘れたものはないか。


尋ねたいことは、きっと、ほかにもあっただろう。


けれど、何を聞いても、最後には同じ願いに行き着く。


無事でいてほしい。


そして、帰ってきてほしい。


私は、空になった杯を眺めた。


若者よ。


本を持てるだけ持っていくがいい。


知らないことを、知りにいくがいい。


ただし、海だけは、書物のようにおとなしくしていてはくれないぞ。


……まあ、そんな忠告をしたところで、聞くような青年なら、そもそも海を渡ろうとは思わなかっただろうが。


仲麻呂は、旅立つ。


母親は、息子を送り出す。


そして、二人とも、まだ知らない。


この約束が、どれほど長い時間の向こうへ持ち越されることになるのかを。


私は、もう一度杯を持ち上げた。


若者の冒険には、出発の瞬間が必要だ。


だが、その冒険を待ち続ける人にも、物語があるのである。


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