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『決断の時/The Hour of Decision』➖ 遣唐使 阿倍仲麻呂 十九歳 、叡智への航海  作者: 東曌


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第一話 本を読み尽くした青年 大改訂版

【登場人物紹介】



◾️阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

 十九歳。知りたいことが多すぎる青年。


日本で手に入る書物を読み、学んでも、まだ満足できない。海の向こうには、どんな学問があり、どんな本があり、どんな人々が暮らしているのだろう。


そんな好奇心に突き動かされ、遣唐使の一員として唐へ渡ることになる。


本人は、これから始まる冒険に胸を躍らせている。長い航海の危険も、異国で生きる難しさも、まだ本当の意味では知らない。


後に「晁衡(ちょうこう)」の名で唐の官界に身を置くことになる青年の、長い旅が始まる。



◾️ 阿倍船守(あべのふなもり)

  仲麻呂の父。


息子が学問に打ち込む姿を、どんな思いで見つめていたのか。史料から家庭での会話まではわからない。


本作では、未知の世界へ飛び出そうとする息子と、その無事を願う家族の思いをつなぐ人物として描く。


息子の夢を応援したい。けれど、海を渡る旅がどれほど危険なものかも、忘れるわけにはいかない。


仲麻呂が口にする「必ず、帰ってきます」という約束は、父にとってどんな言葉だったのだろうか。



◾️遣唐使の一行

  国の未来を背負い、海の向こうへ向かう人々。


彼らが目指すのは、当時の世界有数の大国、唐。


学問、制度、仏教、文化。日本に持ち帰りたいものは数え切れない。しかし、そのためには、荒れる海を越えなければならない。


仲麻呂にとっては未知の世界へ踏み出す仲間であり、同じ船に乗る者たちにとっても、互いの命を預け合う長い旅の始まりだった。



◾️ 唐の人々

  仲麻呂が、これから出会う未知の世界。


長安には、学者、官僚、詩人、商人、そして遠い国から訪れた人々が集まっていた。


仲麻呂は、ただ唐の知識を日本へ持ち帰るだけでは終わらない。異国の言葉を学び、その社会に入り込み、やがて自分自身もその歴史の一部になっていく。


彼は誰と出会い、何を学び、どんな自分へと変わっていくのだろうか。


---


※阿倍仲麻呂の父の名など、史料で確認できる事項と、物語上の人物描写・会話は区別しています。

また今後、実在の詩人や官僚などが登場する際には、年代と史料を確認しながら紹介致します。


第一話 本を読み尽くした青年



 若者というのは、まことに愉快な生き物である。


 これから海を渡ろうというときに、そいつが何を考えているかといえば、船が沈まないか、嵐が来ないか、無事に帰ってこられるか――まあ、普通なら、そのあたりだろう。


 ところが、阿倍仲麻呂という青年は、少々違っていた。


 唐には、どんな本があるのだろう。


 そればかり考えていたのである。


 私は酒杯を傾けた。


 十九歳。


 いまの世の中なら、まだ学校を卒業するかどうかという年頃だ。世間の広さも、人間の複雑さも、これから身をもって知ることになる。


 だが、この青年には、ひとつ困ったことがあった。


 知りたいことが、あまりにも多かったのだ。


     *


「それで、先生。この先は、どうなるのですか?」


 仲麻呂は、書物を前にして尋ねた。


 師は、読み終えたばかりの箇所を指で押さえた。


「この先、とは?」


「ここに書かれていることです。どうして、こうなったのでしょう。別の考え方はなかったのでしょうか」


 師は、すぐには答えなかった。


 書物に書かれていることを覚えるだけなら、さほど難しいことではない。もちろん、それすら容易ではないが、仲麻呂が求めているのは、そこではなかった。


 書かれたことの先に、何があるのか。


 書かれなかったことは、何なのか。


 ある人物が正しいとされているなら、反対の立場に立った者は、何を見ていたのか。


 ひとつの答えを得るたび、彼の頭の中には、次の問いが生まれた。


 私は、もう一口、酒を飲んだ。


 学問というものは厄介だ。知れば知るほど、知らないことが増える。


 たいていの人間は、そのあたりで満足する。知識が増えれば、自分が賢くなったような気がするからだ。


 しかし、仲麻呂は違った。


 知識が増えるたびに、自分の知らない世界が、いっそう大きく見えてしまう。


 まったく、始末に負えない青年である。


     *


 日本には、書物があった。


 先人たちが残した言葉があり、学ぶべき教えがあり、後世へ伝えられてきた知識があった。


 仲麻呂は、それらを学んできた。


 そして、あるところまで来ると、考えるようになった。


 自分が読める本には、限りがある。


 では、海の向こうには、何があるのだろう。


 唐。


 その名を聞けば、当時の日本の人々は、遠く大きな国を思い浮かべただろう。制度も、学問も、文化も、日本が学ぼうとするものが、そこには数多くあった。


 だが、仲麻呂にとって、唐は単なる手本ではなかった。


 まだ知らないものがある場所だった。


 日本では読めない書物があるかもしれない。


 同じ古典でも、日本とは違う解釈をする学者がいるかもしれない。


 自分が正しいと思っていたことを、まるで違う角度から説明する人間に出会えるかもしれない。


 そう考えるだけで、じっとしてはいられなかった。


「先生。唐には、どれほどの書物があるのでしょう」


 師は、苦笑したかもしれない。


 それは、行ってみなければわからない。


 そして、仲麻呂が聞きたかったのは、まさに、その答えだった。


 行ってみなければ、わからない。


 ならば、行くしかないではないか。



 私は酒杯を置いた。


 人間が冒険に出る理由など、案外、こんなものなのだ。


 世界を救いたいわけでもない。名を残したいわけでもない。


 ただ、知りたい。


 自分の知らないものが、この世界にあるのなら、それを見ずにはいられない。


 厄介だが、悪くない性分である。


     *


 時は、奈良時代。


 七一六年、阿倍仲麻呂は、遣唐使に同行して唐へ渡る留学生の一人に選ばれた。翌七一七年、遣唐使の一行は海を越え、大陸へ向かうことになる。


 後世の人間は、彼の名を歴史に記す。


 唐で官僚となり、晁衡という名で生きた人物。異国の地で長い年月を過ごし、ついには故郷へ帰ることのできなかった人物。


 だが、ここで、ひとつ注意しておこう。


 この時点の仲麻呂は、まだ悲劇の主人公ではない。


 自分が歴史に名を残すとも、遠い異国で生涯を終えるとも、知っているはずがない。


 彼はただ、唐へ行けることを喜んでいた。


 知らない書物を読みたい。


 知らない人々と話してみたい。


 日本では得られない知識を、自分の目と耳で確かめたい。


 それだけだった。


 私は、こういう人間が好きである。


 世の中には、まだ見ぬ世界を前にすると、危険を数え始める者がいる。失敗したらどうする。帰れなかったらどうする。何も得られなかったら、どうする。


 どれも、もっともな心配だ。


 だが、心配ばかりしていては、いつまでたっても海の向こうへは行けない。


 仲麻呂は、まだ若かった。


 若いからこそ、先のことよりも、その先に何があるのかを考えた。


 そして、海を渡ることになった。


     *


 さて、ここまで読んで、仲麻呂を無鉄砲な若者だと思った方がいるかもしれない。


 それは、少し違う。


 彼は、危険を知らなかったのではない。


 ただ、まだ経験していなかったのである。


 知識として知っていることと、自分の身に起きることは、同じではない。


 嵐について書かれた文章を読むことと、船が波に持ち上げられ、足元が揺れ、立っていることさえ難しくなるのを経験することは違う。


 異国について学ぶことと、言葉の通じない土地で、自分の常識が通用しないと知ることも違う。


 仲麻呂は、これから、その違いをひとつずつ知っていくことになる。


 だが、今はまだ、その話を急ぐまい。


 船出は、これからなのだ。


 彼の前には、海がある。


 その向こうには、長安がある。


 そして、長安には、まだ一度も開いたことのない書物が、数え切れないほど待っている。


 仲麻呂は、そう信じていた。



 私は酒杯を持ち上げた。


 若者よ。

 存分に見てくるがいい。

 世界というものは、書物に書かれているよりも、ずっと広い。

 そして、人間というものは、思っているよりも、ずっと面白い。


 さて。


 この青年は、いったい何を見つけるのだろう。


 私は、もう一口、酒を飲んだ。

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