プロローグ ラム酒と、海の向こうの青年
プロローグ ラム酒と、海の向こうの青年
ロバート・ルイス・スティーヴンソン氏の『宝島』を読んだことがあるだろうか。
あの物語には、海があり、宝があり、危険な大人たちがいて、そして、好奇心に満ちた少年がいる。
ジム・ホーキンズという少年だ。
彼は、これから何が起きるのか、すべてを知っていたわけではない。それでも、未知の世界へ踏み出した。
若者というものは、まことに不思議な生き物である。
危険があると聞けば、少しは怖がる。大人に止められれば、いくらかは考える。
しかし、その向こうに、まだ見たことのない世界があると知れば、恐怖よりも好奇心が勝ってしまうことがある。
まったく、困ったものだ。
私はラム酒の入った杯を手に、そんな若者たちを眺めるのが好きである。
もっとも、私自身が冒険に出る必要はない。
嵐の海を渡るのも、見知らぬ土地で命を懸けるのも、できれば若い者に任せておきたい。
こちらは、少し離れた場所から人間を観察していればよいのだ。
さて。
これから語るのは、宝島の物語ではない。
主人公はジム・ホーキンズではなく、
阿倍仲麻呂という日本の青年である。
八世紀。
彼は、まだ若かった。
日本で学べることを学び、なお、その先に何があるのかを知りたがった。
海の向こうには、唐という大帝国がある。
そこには、見たことのない都があり、知らない学問があり、まだ読んだことのない書物がある。
仲麻呂は、それを知りたかった。
金銀財宝を探しに行くのではない。
彼が探していたのは、知識だった。
だが、知識を求める旅だって、立派な冒険である。
海は荒れる。人は病む。思いどおりにならないことが起きる。
そして、旅立つときには想像もしなかった人生が、いつの間にか始まってしまう。
ジムが宝島へ向かったように、仲麻呂もまた、未知の世界へ向かっていく。
ただし、彼の物語には、海賊の宝の地図はない。
あるのは、歴史に残された記録と、記録の隙間に置き去りにされた人間の心である。
どこまでが史実で、どこからが想像なのか。
私は、その境目を忘れないようにしながら、若者の姿を追いかけることにしよう。
そして、ときには少し意地悪なことも言うだろう。
何しろ、若者というのは、自分の未来を知らないからこそ、あんなにも勇敢でいられるのだから。
さて、杯も満たされた。
阿倍仲麻呂という青年は、いったい何を見つけるのだろう。
海の向こうで、彼を待っているものは何なのか。
私は、ラム酒をひと口飲んだ。
さあ、冒険を始めよう。




