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煙子-boy of the smoke-  作者: 神箭花飛麟


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18/19

十七 別れと、別れが別れになるまで

 煙子が選んでいた。


 ヤスフはそれを見ていた。見ていることしかできなかった。この子供が何を選ぶかは、この子供が決めることだった。アレクサンドリアを出た夜から、ずっとそうだった。ヤスフは連れてきたのではなかった。ついてきた。煙子が東へ向かうのに、ついてきた。それだけだった。


 煙子はマンスールを見た。


 それからヤスフを見た。


 それからザイナブを見た。老人を見た。ハジブを見た。一人ずつ、丁寧に見た。記録する目だった。この旅で何度もそうしたように、大事なものを記録するときの目だった。


 それから何かを言った。


 マンスールが通訳した。今度はアラビア語で通訳した。全員に向けた言葉だったから、全員が分かる言葉で訳した。


「ありがとうと言っている」マンスールは言った。「もう一度、今度は全員に向けて」


 ヤスフは何も言えなかった。


 ザイナブも言えなかった。老人は何かを言いかけて、やめた。ハジブは動かなかった。


 煙子はまたヤスフを見た。今度だけを見た。何かを言った。マンスールが訳した。


「一人で泣いているときに、隣にいてくれた。それを覚えている、と言っている」


 ヤスフは煙子を見た。


 六日目の昼の話だった。インド洋に出てまだ間もない頃で、煙子が積荷の陰に隠れて泣いていた。ヤスフは隣に座って、何もしなかった。声もかけなかった。ただそこにいた。それだけのことを、この子供は覚えていた。


「覚えていなくていい」とヤスフは言った。声が少し変な出方をした。おかしいと思ったが直せなかった。


 マンスールが訳した。


 煙子は首を横に振った。


 覚えていると言っていた。覚えていると言い張っていた。首の横の振り方が、子供の意地の振り方だった。この旅で何度か見た振り方だった。辛い食事を水なしで食べきろうとしたときの意地と、同じ質の意地だった。


 ヤスフは笑いそうになった。


 こらえた。こらえたが顔に出た。煙子もそれを見て少し笑った。この旅で何度もそうなった。ヤスフが笑いをこらえて失敗すると、煙子が釣られた。それが最後になった。


 煙子はマンスールの方を向いた。


 行く準備ができたという向き方だった。マンスールは立ち上がった。護衛たちが動いた。船の準備を始めた。


 ヤスフは煙子に近づいた。


 しゃがんだ。煙子と目線の高さを合わせた。マンスールがさっきそうしたように。煙子は少し驚いた顔をした。


 ヤスフは何かを言おうとした。


 言葉がなかった。言いたいことはあった。しかし言葉の形にならなかった。言葉にすると崩れる種類のことがある、と以前に思ったことがあった。今がそれだった。


 煙子は待っていた。言葉が来なくても待っていた。


 ヤスフはやがて、煙子の頭に手を置いた。


 それだけだった。何秒かそうしていた。煙子は動かなかった。目を閉じなかった。ただヤスフを見ていた。その目がまた記録していた。


 ヤスフは手を離した。立ち上がった。


 煙子は一度だけ頷いた。


 それからマンスールの船に向かって歩き始めた。小さな背中だった。最初からそうだった。アレクサンドリアの廃屋で毛布にくるまっていた背中も、霧の中で船首に立っていた背中も、嵐の中でマストにしがみついていた背中も、砂浜の積み石の前でかがんでいた背中も、全部小さかった。


 しかし今歩いている背中は、今まで見た中で一番小さく、そして一番まっすぐだった。


 船に乗り込む前に、一度だけ振り返った。


 手を上げた。


 コーリカットで商人の子供たちに別れを告げたときと同じ動作だった。あのとき煙子は船から手を上げた。今は逆だった。岸から手を上げていた。


 ヤスフは手を上げた。ザイナブも上げた。老人も上げた。ハジブは上げなかったが、少しだけ頭を下げた。ハジブが頭を下げるのを、ヤスフは初めて見た。


 煙子は船に乗り込んだ。


 マンスールの船が動き始めた。桟橋を離れ、ゆっくりと向きを変え、沖へ出た。帆が上がった。風を受けた。船が加速した。


 ヤスフは見ていた。


 船が小さくなっていった。甲板に煙子の姿が見えた。船首に立っていた。この旅でずっとそうしていたように、前を向いて立っていた。しかし今回は後ろを向いていた。こちらを見ていた。


 見えなくなるまで、見ていた。


 やがて船が水平線に近づいた。煙子の姿が見えなくなった。船だけが見えた。それも小さくなった。帆の白が、空の青に溶けていった。


 水平線に、何もなくなった。


 桟橋に四人が残った。


 風が来た。王国の風だった。誰もいない街の風だった。後ろで鳥が鳴いた。いつかの鳥と同じ声かどうかは分からなかった。


 カマルッディン老人が座った。桟橋の端に腰を下ろして、足を投げ出した。


「帰りの話をしよう」と老人は言った。「足が痛い。もうこれ以上歩きたくない」


「帰りの海図はあるか」とヤスフは聞いた。


「ある。来た道を戻ればいい。海図に載っていない場所は通らなくていい」


「追手は」


「一艘になった」ハジブは言った。「もう一艘がどこにいるかは分からん。しかし急げば問題ない」


「急ぐか」とザイナブは言った。


「急ぐ必要もない」ヤスフは言った。


 ザイナブは少し考えた。「そうだな」


 急ぐ理由が、今はなかった。来るときはあった。追われていたから、間に合わせなければならないことがあったから、急いでいた。帰りは違った。届けるべきものはもう届いた。待っている者もいなかった。急がなくていい旅というのが、ヤスフには久しぶりだった。


 しばらく四人は桟橋にいた。


 海を見ていた。誰も何も言わなかった。言う必要がなかった。この四人がこうして同じ場所に座って黙っていることが、今は自然だった。アレクサンドリアの廃屋で初めて四人が揃った夜には、こんな時間が来るとは思っていなかった。


 ヤスフはこの旅のことを考えた。


 何のために来たのかと言われれば、煙子を帰すためだと言える。しかしそれは途中から分かったことで、最初は分からなかった。夜明け前の沖に煙が立ち上っていたから漕ぎ出した。それだけだった。煙があったから行った。行ったら子供がいた。子供がいたからついてきた。それだけのことだった。


 それだけのことが、ここまで来た。


 老人が立ち上がった。膝を両手で叩いた。


「行こう」と老人は言った。「風が良いうちに出た方がいい」


 ヤスフは立ち上がった。


 街を振り返った。


 誰もいない街だった。扉が閉じていた。窓が閉じていた。しかし廃墟ではなかった。生活の気配が残っていた。洗濯物がまだ干されていた。三年前に干されたまま、まだそこにあった。


 いつかここに人が戻るかどうかは、ヤスフには分からなかった。煙子が何かをしようとしているのかも、マンスールを遣わした者が何を考えているのかも、分からなかった。分からないことの方が、この旅ではずっと多かった。


 分からないまま、船に乗った。


 縄を解いた。棹で桟橋を押した。船が動いた。


 帆を上げた。風を受けた。加速した。


 ヤスフは一度だけ振り返った。


 王国が遠ざかっていった。緑の濃い陸地が、白い桟橋が、閉じた扉と窓が、小さくなっていった。鳥の声がしばらく聞こえていた。それも聞こえなくなった。


 水平線に、陸地が消えた。


 前を向いた。


 西の水平線があった。来た方向の水平線だった。帰る方向だった。知っている海があった。知っている星があった。知っている街が、その先にあった。


 しかし今のヤスフには、それが少し前と違って見えた。


 同じ水平線だった。同じ海だった。しかし見ている自分が、少し違っていた。何が違うかを言葉にしようとした。できなかった。できないまま、先を見た。


 風が来た。


 今度は東から来た。


 背中を押す風だった。

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