十八 帰路と、帰路が教えること
インド洋は、帰りも広かった。
来たときと同じ海だった。同じ色で、同じ深さで、同じ風が吹いた。しかし船の上の空気が違った。来るときの空気は前を向いていた。全員の意識が、まだ見えていない何かに向いていた。帰りは違った。来た道を戻る旅は、知っていることを確かめながら進む旅だった。知っていることの中に、知らなかった頃には気づかなかったものを見つける旅だった。
煙子がいなかった。
それは当たり前のことだった。分かっていることだった。しかし船首に誰もいない船首が、最初の何日かはどこか落ち着かなかった。ヤスフだけではなかった。ザイナブが無意識に船首の方を見ることがあった。老人が夜中に目を覚まして、誰もいない甲板を見ることがあった。誰も言わなかった。言わなくても分かった。
四日目の夜、ヤスフは星を見た。
東を指す星を見た。ずっとその星を見てきた。来るときも帰るときも、その星を目印にした。今夜は違う見方をした。この星を、煙子も見ていたのだと思いながら見た。アレクサンドリアの廃屋から、紅海を越え、インド洋を渡り、名もない島を経て、王国に着くまでの夜、煙子は毎晩この星を見ていた。腹の上に板を乗せて、口を少し開けて眠りながら、あるいは眠れない夜に甲板で星を数えながら、この星を見ていた。
同じ星が、今は別の場所を照らしていた。
コーリカットには六日で着いた。
来るときより早かった。流れを知っていたからではなく、風が良かった。カマルッディン老人は海図を広げることなく、記憶だけで進んだ。三十年前に通った道を、頭の中の地図で進んだ。こういう記憶は消えない、と老人は言っていた。その通りだった。
港に入ると、商人の家の子供たちが桟橋にいた。
偶然だった。遊びに来ていた子供たちが、船を見て走ってきた。来るときに一緒に遊んだ子供たちだった。煙子がいないことに、すぐ気づいた。上の子が何かを言った。ザイナブが答えた。短く答えた。子供たちは少しの間黙っていた。それから走って行った。
その夜、商人の家に泊まった。
食事のとき、商人がヤスフに聞いた。子供はどうなったか、と。ヤスフは帰った、と答えた。商人は頷いた。それだけだった。それで十分だった。
翌朝、老人が言った。
「私はここに残る」
ヤスフは老人を見た。
「足が痛い」老人は言った。「もう長い旅はできない。ここに知り合いがいる。ここで死ぬのが一番楽だ」
「帰りの金は払う」とヤスフは言った。
「要らん」老人は言った。「来るときに十分もらった」
「追加料金はどうする」
「もらった分で十分だ」老人は言った。それから少し考えた。「いや、やはりもう少しくれ」
ヤスフは笑った。声を出して笑った。老人も笑った。歯が半分しかない口で笑った。
別れは桟橋で、短かった。
老人はヤスフの手を握った。それだけだった。ザイナブとハジブにも同じようにした。それから商人の家の方へ歩いていった。腰が曲がっていた。足が遅かった。しかし止まらなかった。止まらずに歩いていった。
三人になった船は、また西へ向かった。
紅海に入ると、空気が変わった。
インド洋の広さとは違う、狭い海の空気だった。両側に陸が迫ってくる感覚があった。来るときはそれを息苦しく感じた。帰りは違った。狭いことが、どこか安心だった。知っている形の中に戻ってきたという感覚があった。
ザイナブが舵を握りながら、何かを言った。
「寄りたい場所がある」とザイナブは言った。
「どこだ」
「アデンだ」
「寄り道になる」
「少しだけだ」ザイナブは言った。「一日もかからない」
ヤスフはハジブを見た。ハジブは答えなかった。答えないことが、反対ではないということだった。ヤスフはザイナブに頷いた。
アデンに寄った。
ザイナブは一人で街に入った。ヤスフもハジブも来なかった。来るなという様子ではなかったが、来てほしいという様子でもなかった。ヤスフは桟橋で待った。ハジブも桟橋で待った。二人で海を見た。
半刻ほどして、ザイナブが戻ってきた。
何も持っていなかった。何かを買いに行ったわけではなかった。何かを届けに行ったか、誰かに会いに行ったか、どちらかだとヤスフは思った。聞かなかった。
「行こう」とザイナブは言った。
三人で船に乗った。
アデンを離れるとき、ザイナブの背中が変わった。何かを置いてきた者の背中だった。軽くなった背中だった。どこか煙子が板を置いてきたときと似ていた。長い間持ち続けていたものを、正しい場所に戻した後の軽さだった。
ヤスフはそれを見て、何も言わなかった。
アレクサンドリアが見えてきたのは、アデンを出て十日後だった。
街の輪郭が水平線に現れたとき、ヤスフは思ったより何も感じなかった。感動も、安堵も、大きくはなかった。帰ってきた、という静かな確認だけがあった。旅というのはそういうものだとヤスフは思った。出るときは何かに向かっていく気持ちがある。帰るときは、何かが静かに終わる気持ちがある。どちらが良いかではなく、どちらも旅の一部だった。
港に入った。
朝だった。荷役の男たちが動いていた。魚売りの声がした。驢馬の蹄の音がした。アレクサンドリアは変わっていなかった。こちらがどれだけ遠くへ行って帰ってきても、街は変わらずにそこにあった。街というのはそういうものだとヤスフは思った。人間の方が動く。街は動かない。
桟橋に縄を縛った。
ハジブが最初に降りた。それから何も言わずに歩いていった。どこへ行くかは言わなかった。ヤスフも聞かなかった。この男はいつもそうだった。来るときも消えて、去るときも消えた。次にいつ現れるかは分からない。現れるかどうかも分からない。しかしヤスフは、また現れると思っていた。理由はなかった。ただそう思った。
ザイナブは船の荷をまとめていた。
「どうする」とヤスフは聞いた。
「しばらくここにいる」ザイナブは言った。「それから考える」
「アデンには帰らないのか」
ザイナブは少し間を置いた。
「帰った」と言った。「さっき」
ヤスフはそれを聞いて、アデンでの半刻を理解した。何かを届けに行ったのではなく、帰りに行ったのだと思った。帰って、置いてきたのだと思った。何をかは分からなかった。分からなくていいことだった。
ザイナブは荷をまとめ終えて、桟橋に降りた。
「また会うか」とヤスフは言った。
「分からない」ザイナブは言った。「あなたはどうする」
「しばらくここにいる」ヤスフは言った。「それから考える」
ザイナブは少し笑った。さっきヤスフに返した言葉が返ってきたから笑ったのかもしれなかった。それだけ笑って、歩いていった。人混みの中に入っていった。背中がまっすぐだった。どこへ行くかを知っている者の歩き方だった。
ヤスフは一人になった。
船の上に一人で立っていた。港の音が周りにあった。声と、足音と、波と、驢馬と、どこかで誰かが笑う声。全部がいつも通りだった。
カリームの屋台が見えた。
遠かったが、見えた。小太りの背中が、量りを動かしていた。あの男は変わらずにここにいた。ヤスフが出ていく前も、帰ってきた今も、あの場所で量りを動かしていた。それが悪いことだとは思わなかった。ただ、そういう人間もいるのだと思った。動かない人間がいるから、動く人間が帰れる場所がある。
ヤスフは船を降りた。
桟橋を歩いた。港の石畳を歩いた。人の間を歩いた。どこへ行くか、決めていなかった。廃屋に戻るか、どこかで飯を食うか、カリームに声をかけるか。何でも良かった。
歩きながら、煙子のことを考えた。
今頃どこにいるか分からなかった。マンスールの船でどこへ向かったのかも分からなかった。消えた王国から消える前に出た者のところへ行ったのか、別の場所へ行ったのか。板を置いてきた子供が、次に何をするのかを、ヤスフは知らなかった。
知らなくていいと思った。
この旅で知ったことと、知らないままのことが、今は同じくらいの重さであった。知ることが全てではないということを、この旅は教えた。煙が立ち上っていたから漕ぎ出して、子供がいたからついてきて、東の果てまで行って帰ってきた。それだけのことで、十分だった。
市場の声が大きくなってきた。
匂いが変わった。香辛料の匂い、魚の匂い、人の匂い、石の匂い。アレクサンドリアの匂いだった。世界の下水溝でも臍でもない、その中間のどこかにある街の匂いだった。
ヤスフはその匂いの中を歩いた。
どこへ行くでもなく、歩いた。
空が青かった。風が来た。どこから来た風かは分からなかった。東から来たのかもしれなかった。あるいは全然別の方向から来たのかもしれなかった。風というのは出所を問わない。ただ来て、通り過ぎる。
ヤスフはその風の中を、歩き続けた。
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