いい日にも
「ノートを買いに行ったんだけどさ」
莉子が鞄から出した袋には、黄色と青のテープが一つずつ入っていた。
二学期が始まっても、帰り道の日差しはまだ強い。私たちは、店のひさしの影に沿って歩いていた。
「ノートは?」
「買ってない」
「順番が逆じゃん」
「だって、こっちを見つけちゃったんだもん」
莉子は袋から二つ取り出し、私の前へ並べた。
青いほうには、小さな星がついている。黄色いほうは、白い点がばらばらに散っていた。
「どっちがいいと思う?」
「青。こっちのほうが好き」
「やっぱり? 私も好きなんだけど、写真の服が青いんだよね」
「じゃあ、黄色のほうが目立つんじゃない?」
「そうなの。だから決まんないの」
ノートの表紙に入れている、アイドルの写真の周りへ貼るらしい。
私は一つ受け取り、包みの裏を見た。いろんな柄のテープで、丸い箱やカードの縁を飾った写真が載っていた。
「こんなふうに、端っこだけ違う色にしてもよさそう」
「あ、かわいい。真帆、やって」
「自分でやりなよ」
「私、不器用だから絶対、どこか曲がるもん」
「私がやっても曲がるって」
「真帆はピアノ弾けるじゃん」
「ピアノは関係ないよ」
笑いながらテープを返した。
信号が赤になり、莉子が二つのテープを袋へ戻す。薄い袋の口は指にくっついて、なかなか開かなかった。
「ねえ、今日、藤井と何の話してたの?」
「本の話。藤井くんも最後まで読んだから」
「図書室で借りてたやつ?」
「うん。最後のところ、藤井くんと意見が違ったの」
「だから、あんなに笑ってたんだ」
私は莉子を見た。
「笑ってた?」
「うん。真帆もだけど、藤井も」
あの最後は、もっと先も書いてほしかった。私がそう言うと、藤井くんは、あそこで終わるからいいんじゃないかと言った。
じゃあそのあと、主人公はどうするの、と聞いたら、俺にも分かんない、と笑っていた。
「藤井のこと、好きなの?」
「別にそういうんじゃないよ」
その返事は、考える前に出てきた。
藤井くんと話すのは楽しい。できかけの曲も、聴いてほしい。でも、好きなの、と訊かれると、その楽しさまで別の意味に変わってしまう気がした。
「あやしい」
「何が」
「よく喋ってるじゃん」
「莉子とも喋ってるよ」
「それは、そうだけど」
莉子は、信号が青になっても、すぐには歩き出さなかった。
私が一歩出たところでついてきて、横断歩道を渡り終えてから、鞄の紐を持ち直した。
「私さ」
「うん」
「藤井のこと、好きなんだ」
え、と声が出た。
莉子は前を見ていたが、すぐにこちらを向いた。
「そんなにびっくりする?」
「だって……知らなかったから」
「そりゃ、言ってないもん」
「うん。そうなんだけど」
私は歩く速さを少し落とした。莉子もゆっくりになった。
さっきまで聞こえていた袋の音が、しなくなっていた。
「いつから?」
「いつからだろ。真帆と話してるの、楽しそうだなって思って」
「うん」
「だけど私が話しても、ちゃんと聞いてくれるし」
莉子が、少し笑った。
「この前、消しゴム借りたときね。私の、猫の形してるでしょ」
「うん」
「足ばっかり減って、かわいそうだから使えないって話したの。そしたら自分の見て、『俺のは、もう何の形か分かんないな』って」
私は、藤井くんの筆箱から出てくる、小さくなった消しゴムを思い浮かべた。
角がどこにもなくて、鉛筆の跡がついている。
「分かる。あれ、丸いもんね」
「そう。消しゴムの話をしてただけなのに、なんか楽しかったんだよね」
藤井くんが笑うところも、すぐに浮かんだ。
私が知らないところで、莉子もその顔を見ていた。
「真帆には、言っときたかったんだ」
莉子が立ち止まり、こちらを見た。私も立ち止まってうなずいた。
「うん」
ほかに何と言えばいいのか、すぐには分からなかった。でも、莉子が私に話してくれたことは、うれしかった。
少し歩いてから、私はもう一度袋を見た。
「テープ、貼ったら見せてね」
「うん。たぶん、黄色を多めにする」
「端っこ、曲がったら?」
「そこは、味ってことにする」
「さっき、私に頼んでたのに」
「そりゃ真帆が曲げたら、文句言うけど」
「ひどい」
莉子が笑ったので、私も笑った。
家へ向かう道が分かれるところで手を振り、私は一人になった。
今日、藤井くんと話していたとき、莉子がどこにいたか、私は覚えていなかった。
*
昼休み、藤井くんが私の机のそばへ来た。
「曲、どう?」
「あ、うん。続き、少しできたよ」
答えてから、莉子の席へ目が向いた。
莉子は友達のノートを見て、何か喋っていた。私は藤井くんに向き直った。
「戻ってくるところ、最初と少し変えてみたの」
「どう変えたの?」
「同じところなんだけど、左手をちょっと高くしたら、前より明るく聞こえて」
「へえ。聴いてみたいな」
「まだ、最後のところが決まんないんだけどね」
「じゃあ、また――」
「おまえ、また宮野といっしょかよ」
藤井くんの男友達が、入口から顔を出していた。脇にはサッカーボールを抱えている。
もう一人が、その後ろからこちらを見た。
「話してただけだよ」
「何の話?」
「音楽」
「へえ、藤井がねえ」
入口の二人が笑った。近くで聞いていた子も、少し笑った。
私は筆箱の向きを直した。さっきまで斜めになっていても、何も気にならなかったのに、机の端ときちんとそろえた。
「早く行こうぜ。場所なくなる」
「うん」
藤井くんは返事をしたあと、もう一度私を見た。
耳のあたりが赤くなっていた。
「宮野、さっきの……」
私は顔を上げた。
「また、今度聞く」
「うん」
藤井くんが入口へ行くと、男友達の一人が肩へ腕を回した。何を言っているかは聞こえなかったが、藤井くんがその腕を外すところは見えた。
「宮野、藤井と仲いいんだね」
隣の席の子に言われ、私はそちらを向いた。
「うん。たまに話すから」
「たまに?」
笑いながら聞き返されて、私も笑った。
さっきまで何の気なしに続けていた話が、もう教室のあちこちに聞かれていたような気がした。
午後、プリントを後ろへ回すと、後ろの席の子が小さな声で聞いた。
「藤井と付き合ってるの?」
「付き合ってないよ」
「なんだ。そうなのかと思った」
どこでその話を聞いたのか、訊けなかった。
廊下で藤井くんとすれ違ったときにも、どこかで小さく笑う声がした。
全部が私たちの話だったのかは、分からない。それでも、藤井くんの席へ行くとき、周りの目が気になった。
*
家では、曲の続きを弾いていた。
最初の旋律が戻ってくるところまでは、もう止まらずに弾ける。そのあとを短く終わらせると、何か言い忘れた感じがした。
もう少し続けてみると、今度は終わるところが分からなくなる。
ノートに小さく書いてあった音を、一つ戻した。
そこから右手を少しだけ変えて弾いてみたら、次の音が自然に出てきた。
私はすぐに手を止め、鉛筆を取った。忘れないうちに書いて、もう一度弾く。
今度も、ちゃんとつながった。
これ、藤井くんに話したい。
そう思ったところで、指が止まった。
昼休みに席へ行けばいい。いつもなら、それだけのことだった。
教室へ入って、藤井くんを見つけて、ねえ、と呼ぶ。その先を考えると、入口で笑っていた男の子の顔と、莉子の顔が浮かんだ。
電子ピアノの上には、レッスンの楽譜も置いてある。
私はそちらを開き、次に習うところを弾いた。右手は覚えていたが、左手が何度も同じところで引っ掛かった。
今日はそっちをやったほうがいい、と自分に言って、最初へ戻った。
*
休み時間に、莉子がノートを持ってきた。
表紙の写真の周りに、黄色いテープが貼ってある。右下だけ、細い青いテープが斜めに重ねてあった。
「できた」
「かわいい。ここ、青も使ったんだ」
「うん。どう?」
「こっちも好き」
莉子はノートを少し離し、自分でも眺めた。
「ちょっと曲がってるんだけど、ばれない?」
「どこ?」
「ここ」
「自分から教えなかったら、分かんなかったのに」
「真帆には、分かるかなと思って」
指されたところをよく見て、私は笑った。確かに、端のほうが少し上がっていた。
莉子も笑い、今度は裏を見せてくれた。
その向こうで、藤井くんが席を立った。
ねえ、つながらなかったところが、つながったよ。今、そんなふうに言えば届くくらいの距離だった。
でも、廊下へ向かう男友達が藤井くんを振り返ったので、私はノートの裏へ目を戻した。
莉子が、次は筆箱にも貼ろうかなと言った。私は、使っているうちにはがれないかな、と答えた。
藤井くんがサッカーから戻ってくると、教室の入口が少しにぎやかになる。
シュートを外した話をされて、藤井くんも笑っている。私はその顔を見て、机の上の教科書を開いた。
別の休み時間には、目が合った。
藤井くんは、何か言いそうに少し口を開けた。私は椅子に座ったまま、そちらへ体を向けた。
窓の近くの笑い声に気を取られ、目を戻したときには、藤井くんはもう本を見ていた。
授業が始まるまで、まだ時間はあった。
家で曲の続きを弾いていると、あの約束を楽しみにしてる、と言ってくれた藤井くんの声を思い出した。
こないだできたところ、気に入ってくれるかな。
こんどは違う拍の手拍子を頼んでみようかな。
そういう、話せばすぐ分かることを、家で一人で考えていた。
でも、教室で藤井くんの顔を見ても、図書室へ行くかどうかさえ聞けなくなっていた。
このまま、前みたいに話せなくなってしまうのは嫌だった。
*
莉子に見せてもらったノートを返していると、藤井くんが黒板のほうへ歩いていくのが見えた。
教卓のところで、チョークを一本取った。
前の授業の板書を避けて、右側の余白へ手を伸ばした。
いい日にも
そこまで書かれたところで、私はノートから手を離した。
藤井くんは少し下がって黒板を見てから、また続きを書いた。
周りでは、次の授業の教科書を探したり、廊下から友達を呼んだりする声がしていた。
いい日にも 楽しいことがあった日と なかった日があります
藤井くんがチョークを置いた。
「何それ」
前のほうの席から、声がした。
「当たり前じゃん」「それ、別にいい日じゃなくてもそうじゃねえ?」
笑う声に、藤井くんも少し笑った。白い粉のついた指をこすり、黒板の横から離れた。
私は、もう一度、文の始めへ目を戻した。
ほっとした。
手すりに置いた手が、温かかったことを思い出した。
私が変だと言ったら、藤井くんは、どこが変なんだよ、と聞き返した。それから、本当だ、と気づいて、二人で笑った。
平和で、幸せ。
私が言った言葉に、ぱっと笑って、こちらを向いた顔を覚えている。
あの話を、藤井くんも覚えていた。
私は笑いそうになって、口元に手をやった。
この文を、今、ここへ書いてくれた。もう一度話しかけてもいいんだと思えた。
藤井くんは、席へ戻る途中でこちらを見ていた。
目が合うと、短く笑った。私は小さくうなずいた。
何か言いたかったが、声にはできなかった。藤井くんは椅子に座り、私は黒板を見た。
白い字は、まだそこにあった。
「真帆」
莉子の声が、すぐそばで聞こえた。
顔を向けると、莉子は私を見ていた。ノートを胸の前で持っている。
「好きなの?」
帰り道で聞かれたのと、同じ言葉だった。
「別にそういうんじゃないよ」という返事は、今度は出てこなかった。
「分からない」
そう言いながら、本当は分かっていた。
私は藤井くんが好きだ。
「あーあ……それが答えみたいなものだよね」
莉子は少し笑って、ノートへ目を落とした。右下の青いテープを、親指で押さえていた。
私は莉子の横顔を見たが、すぐには何も言えなかった。
黒板の一文を、もう一度読んだ。
書いてくれて、うれしかった。そのことを、今度は私から、藤井くんに伝えたかった。




