声になる前
次の日の昼休み、藤井くんは男友達と校庭へ出ていった。
私は鉛筆を持ったまま、窓際の席を見ていた。
机の上には閉じたノートがあって、脇に鞄が掛かっている。そこへ行けばいいだけなのに、なかなか立てなかった。
ありがとう、と言いたかった。
でも、あの文を選んで書いてくれた藤井くんに、私も何か選んで返したかった。
鉛筆を筆箱へ戻しかけて、もう一度持ち直した。
莉子は、教室の後ろで友達と喋っていた。そのあいだに、私は椅子を引いた。
藤井くんの机へ行き、ノートを少しだけ横へ寄せた。
入口のほうから声がすると、つい顔を上げてしまう。戻ってきたのは、別の子だった。
私は机の右上へ、小さく書き始めた。
情報量が、ある文とない文があります
机はつるつるして、鉛筆の字は、紙へ書くときより薄くなった。
最後まで書いてから、もう一度なぞった。これで、いいかな。
ノートを元のところへ戻し、自分の席へ帰った。
校庭から声がするたびに、入口を見た。
水筒のふたを開けたところで、藤井くんが戻ってきた。私は飲むのを忘れて、そちらを見た。
藤井くんは鞄からタオルを出し、首の汗を拭いた。それからノートを動かして、机を見た。
タオルを持った手が止まった。
少し顔を近づけ、書いてある文を読んでいる。
「今度は机かよ」
隣にいた男の子が言った。
藤井くんは笑って、顔を上げた。私のところで目が止まる。
私は水筒を持ったまま、小さくうなずいた。
藤井くんは、もう一度、机の文を読んだ。
そのあと、教科書を机の上に置いても、右上の字は隠れなかった。
私は何度も、そちらを見てしまった。先生が入ってきて、ようやく水筒を鞄へしまった。
*
次の日、移動教室から戻ると、私の机にも字があった。
休み時間には、話したいことがある人と、ない人がいます
私は立ったまま読んだ。席に着いて、もう一度読んだ。藤井くんは、窓際で本を開いていた。
こちらに気づくと、ほんの少し首をかしげた。
私は机を指で軽くたたいた。藤井くんがうなずいて、本を閉じた。
話したいことがあるほうなのかな。
私と同じように。
聞いてみたかったが、休み時間はもう終わりかけていた。私は教科書を出した。
字のあるところには、かぶせないように置いた。
その授業では、黒板を写している途中に、二度ほど机へ目を落とした。
同じ文なのに、読むたびにうれしかった。
次は、何を書こう。
家へ帰ってからも、考えた。
曲の続きを知らせたい。でも、まだ聴いてほしいと言えるほど、できていない。
あの本のことなら、もう少し話したかった。
次の朝、藤井くんが来る前に、私は机へ書いた。
本を読み終わると、続きを考える人と、考えない人がいます
書きながら、あそこで終わるからいいんじゃないか、と言った藤井くんの顔を思い出した。
私は、あの本の主人公がそのあとどうするのか、まだ考えている。
藤井くんはその朝、机の文を読んでから、こちらへ来た。
「まだ考えてるの?」
「うん。だって、気になるんだもん」
「じゃあ、今度聞かせて」
いつもの声だった。
私は、うん、と答えた。藤井くんが席へ戻ったあとも、その短い話をもう一度してみたかった。
それから、私の机には、こんな文が残った。
読み終わった本にも、また読む本と、読まない本があります
また読むなら、今度はどう思うだろう。
聞けることが、まだあった。
*
家では、最後のところを何度も弾いた。
もう一度最初の旋律を入れると、長くなりすぎる。でも、その前でやめると、戻ってきた音を、もう少し聴いていたくなった。
私は左手の短い並びを弾き、右手だけを少し続けてみた。
左手が戻ってきたところで、右手の音を一つ長く残す。
それから、最後の音へ行く。
今のところをノートへ書いて、もう一度、弾いてみる。
長く残した音の次を、低いほうへ替えると、こちらのほうが落ち着いた。でも、最初のほうも好きだったので、横へ小さく書いておいた。
最初から、通して弾いてみた。
何度も止まっていたところを越え、その先も弾き続けた。最後に自分で決めた音を弾いて、指を離す。
ついに最後まで、来た。
私はしばらく鍵盤を見ていた。それから、ノートの最後の段をもう一度見た。
明日弾いたら、また変えたくなるかもしれない。さっき、左手が少し大きかったところもある。
でも、曲の中に、昨日より好きなところが増えていた。
お母さんが、部屋の入口から声を掛けた。
「そろそろ、ご飯だよ」
「うん。もう一回だけ」
「さっきも、そう言ってたよ」
私は時計を見た。
さっきから、ずいぶんたっていた。
「じゃあ、この最後のところだけ」
「それが済んだら来てね」
お母さんが戻っていく。私は、今決めた終わりを短く弾いた。
それから、楽譜と五線ノートを重ねた。五線ノートは、上に置いた。
*
「それ、何回読むつもり」
莉子に言われて、私は顔を上げた。
翌週の半ばの休み時間、また机の右上を読んでいた。
「だって、書いてあるから」
莉子は私の机に顔を近づけた。
「また読む本と、読まない本があります……って、まあ、そりゃそうでしょ」
「そりゃそうよね」
「じゃあ、何これ」
「ゼロ・インフォメーション」
「ちょっとかっこいい気はするけど、情報量ゼロじゃん」
私は机の字を見た。
「……藤井くんが書いたから」
言ってから、莉子の顔を見た。
莉子は一度目を伏せ、それから、少し首を振って笑った。
「真帆、顔に出すぎなんだよ」
「そうかな」
「うん」
莉子は机の端に手を置き、さっきの文を読むときより、少し丁寧な声で言った。
「応援はするけど、あきれてる日も、そうじゃない日もあります」
「それ、ゼロ・インフォメーションじゃないよ」
「え、どこが?」
「応援はしてる、ってところ」
「あ、そっか。……でも、そこは伝わっていいじゃん」
私は莉子を見て、笑った。
「ありがとう」
莉子は私の机の端を、指でとん、とたたいた。
「あんまりにやにやしないでね。こっちにまで分かるから」
「もう分かってるじゃん」
「だから言ってるの」
また笑ってしまった。
莉子は隣の椅子を引いて座った。
「それより、昨日のテレビ見た?」
「見た。髪、ちょっと短くなってたね」
「そうよね! あーん、もう。いきなり切りすぎじゃない?」
「私は、あれも好き」
「真帆、歌ってるところばっかり見てる」
「歌番組だもん」
莉子は、そうだけどさ、と言って、どこがよかったかを話し始めた。
私はそれを聞きながら、机の字に教科書をかぶせた。今は、莉子の話を聞いていたかった。
*
放課後、音楽の先生に、明日ピアノを使ってもいいか聞いた。
先生は予定を確かめ、いつものように、四時半までに鍵を返してねと言った。
「はい。ありがとうございます」
教室へ戻ると、まだ何人か残っていた。藤井くんの鞄も、机の脇にある。
本人はいなかった。私は自分のノートを出し、後ろのページを開いた。
まだ直したいところはあるけど、明日の放課後、あの曲を聴いてほしい
紙に一度書いて、読んだ。
今度は、聴いてほしいと、はっきり頼む。
鉛筆とノートを持って立ち、窓際へ行った。
前に書いた文は、もう消してあった。私は同じ右上のところへ、さっきの言葉を書いた。
最後の「ほしい」を書くとき、少し力が入った。
入口で声がしたので、私は顔を上げた。
藤井くんが戻ってきたところだった。
私はノートを閉じ、急いで自分の席へ戻った。
帰りの支度をしながら、椅子を引く音を聞いた。
藤井くんは机を見ていた。私は鞄の留め具を、まだ閉めずにいた。
目が合って、私はうなずいた。
藤井くんが、少し笑った。
それだけで、うれしかった。でも、まだ返事はなかった。
私は莉子と、図書室へ寄った。
返す本を出し、次に借りる本を棚から取る。いつもより早く選んだので、莉子に、もういいの、と聞かれた。
「うん。前から読んでみたかったから」
それも本当だった。
でも、教室に鞄を置いてきたのは、戻りたかったからだった。
教室には、もう藤井くんはいなかった。
鞄を取ろうとして、私の机の右上に、字を見つけた。
ピアノが鳴っていないのは、弾き始める前か、弾いたあとのことです
私は鞄から手を離した。
「返事、あった?」
莉子が入口で聞いた。
私は、うん、と答えた。
楽譜の付箋を探していたときの、藤井くんの丁寧な声が戻ってきた。
次の曲の前ってことで、と言って、膝に手を置いたときの声。背筋を伸ばして、聴くところだから、と答えたときの声。
あのとき、私は笑いながら次の曲を弾いた。
あの時間を、また選んでくれた。
うれしくて、文の最後まで指でたどりそうになった。でも、触ったら薄くなりそうだったので、机の端に手を置いた。
弾き始める前か、弾いたあと。
明日は、どちらに藤井くんがいるんだろう。
次の曲を待ってくれる、という返事なのかな。
でも、この文には、来るとは書いていない。
私はもう一度読んでから、鞄を取った。
莉子が扉を押さえて待っていてくれた。
*
次の日、職員室で鍵を受け取った。
教室を出るとき、藤井くんは友達と話していた。私は先に行った。
音楽室の扉を少し開けたままにして、五線ノートを譜面台に置いた。
椅子に座り、入口を振り返る。
まだ、誰もいなかった。
時計は四時前だった。
私はノートを最初のページへ戻した。ずっと入口を見ていても、落ち着かなかった。
一度、最初から弾いてみよう。
最初の短い旋律を弾き、左手を重ねる。家で小さく鳴らしていた音が、部屋の向こうまで広がった。
左手を少し弱くすると、右手の音が前へ出てきた。何度も弾いてきたところだ。指は次の音へ行き、私はその音を聴きながら、続きを弾いた。
前には、ここまでしかなかった。
今は左手の三つの音が続き、右手がその先へ出ていく。
並んで空を見ていたみんなの声を思い出した。
次も誰かが見逃して、みんなで笑うかもしれない。また、あの声のそばで空を見たい。
左手を、少し高いところへ移す。
同じ短い並びが、さっきより明るく鳴った。右手の旋律を繰り返すたび、左手の違う音と重なる。
途中で、指が一つ違う音に触れた。
私は弾き直さず、その次へ進んだ。
最初の旋律が、戻ってきた。
左手の音が、その下で軽く弾んでいる。弾いている指は知っているのに、聞こえてくる感じは、最初と違った。
ここを、聴いてほしかった。
最後のページまで来た。
左手が戻るところで、右手の音を長く残す。
この音に決めたんだった。
私は少し待ってから、最後の音を弾いた。
手を上げ、ペダルを戻す。
音が、ゆっくり消えた。
しばらく、そのまま座っていた。
弾き終えた手を膝へ下ろし、顔を上げた。
小さく、手をたたく音がした。
振り向くと、藤井くんがいた。
いちばん前の椅子に座って、こちらを見ていた。
「……来てたの?」
「うん」
「いつから?」
「最初のほうから。宮野、ずっと弾いてたから、そのまま座った」
私は藤井くんを見たまま、笑ってしまった。
「気づかなかった」
「すごく集中してたな」
「うん」
来てくれた。
今、弾いた曲を、聴いてくれた。
私はノートへ目を戻し、それからまた藤井くんを見た。
「俺、最初のところが、あとでもう一回出てきたとこ、好きだった」
藤井くんは、譜面台のノートを見た。
「初めは静かだったのに、あとで聞いたら、なんか、うれしい感じがした」
「ほんと?」
「うん。あそこ、もう一回聴きたい」
私は鍵盤へ目を落とした。
何度も替えて、戻して、書き直した音を、藤井くんが好きだと言ってくれた。
「ありがとう」
顔を上げて言った。
「聴いてもらえて、うれしい」
「俺も、聴けてよかった」
私はノートの端を押さえた。
もう一度弾いてみようか、と思ったところで、藤井くんが膝の上の手を動かした。
「宮野」
「うん」
藤井くんは、こちらを見た。
少し赤くなっていた。私も、ノートから手を離した。
「話せなくなって、俺、すごく寂しかった」
「うん。私も」
「俺、宮野が好きだ」
声は、さっきと同じくらいの大きさだった。
私は返事をしようとして、唇を開いた。
胸が、急に忙しくなった。
藤井くんは椅子に座ったまま、待っていた。
笑いかけているけれど、膝の上の両手は、ぎゅっと重なっていた。
好きだと、私も言いたかった。
今、どれくらいうれしいかも、知ってほしかった。
言いたいことがいっぱいあるのに、最初の一つが、なかなか声にならなかった。
手すりのところで二人で笑った、あの言葉が、急に浮かんだ。
いい日。
「いい日にも、好きな人に好きって言われた日と、そうじゃない日があります」
言い終えると、藤井くんは目を丸くして、それから、うれしそうに笑った。
「情報量ゼロじゃない返事もある?」
ある。
私は、それを口に出すため、息を吸い込んだ。




