もう少しできてからね
それから何日かたった夕方、私は家の電子ピアノの前に座っていた。
今日、譜面台に乗っているのは、レッスンの楽譜ではなかった。中学に入る前に、自分で音符を書いた小さい五線ノートを開いている。
藤井くんが最後まで聴いてくれた日のことを思い出して、久しぶりに棚から出した。
書いてあるところまでは、弾ける。
その次に、新しい音を二つ足してみた。なにか違う気がして、別の音にした。でもそれもイメージと違った。
もう一度、最初から弾く。最後の音が消えるまで、指を鍵盤に置いていた。
「真帆、お皿出してくれる?」
お母さんが台所から呼んだ。
「うん。今行く」
ノートを閉じかけたけど、やっぱり開いたまま、電子ピアノの電源だけ切る。
台所では、お母さんが鍋のふたを持ち上げていた。湯気が顔の前に上がって、お母さんの眼鏡が白くなった。
「何も見えない」
「眼鏡、外せば?」
「外したら外したで、何も見えないのよ」
私は笑って、食器棚からお皿を出した。
*
翌日の昼休み、渡り廊下で、藤井くんが昨日のおつかいの話をしていた。
「牛乳を買いに行った帰りにさ、星が一つ動いてたんだよ」
「流れ星?」
「俺もそう思ったんだけど、全然消えなくて。よくみたら飛行機だった」
「そんなに長かったら、お願い事、いっぱい言えるね」
「たしかに」
「でも飛行機だからね」
「そこは分かってるって」
藤井くんが笑った。牛乳を持ったまま、飛行機が消えるのを待っているところを想像して、私も笑ってしまった。
「宮野は見たことある? 流れ星」
「あるよ。家族で流星群を見に行ったの」
「俺、流星群って見たことない。ほんとにいっぱい流れるの?」
「ずっと流れっぱなしってわけじゃないよ。何もないなあって待ってると、急に見えたりする」
お母さんが、星を見るのが好きだった。いっぱい見られそうな日だから、と家族を連れ出したのだ。
明かりの少ないところへ行って、みんなで上を向いた。最初は暗くて、足元ばかり気になった。けれど、しばらくすると、さっきは見えなかった星まで見えてきた。
「最初に見つけたのは、お父さんだったんだけど」
「うん」
「あっ、って言うから、お父さんのほう見ちゃった」
「そっちじゃないだろ」
「そうなの。お父さんしか見えなかった」
藤井くんが声を出して笑った。
「そりゃ、お父さんに願い事するしかないな」
「おこづかいアップとか? でね、とにかく。空を見たら、もうなかったの。おばあちゃんまで、今の見たよって言うし」
「宮野だけ見てないの?」
「お母さんも見逃した。二人で、どこ、どこって言ってた」
それからは、お父さんが何か言っても顔を見ないことにした。
ずっと首を上げていると疲れる。でも、下を向いている間に流れたら嫌だった。
何にも起きない空を見ながら、家で見るテレビのほうが動くな、と思い始めたころ、白い線が一本、すっと走った。
「あ、見えた」
自分の声が、思ったより大きかった。
お母さんも見た、と言った。お父さんが、今のは長かったな、と言って、おばあちゃんがうなずいた。
もう線は消えているのに、私はそのあたりをしばらく見ていた。
「お願い事はできた?」
藤井くんに訊かれて、私は首を振った。
「見えた、で終わっちゃった」
「飛行機ならたっぷり時間あるぜ」
「だから飛行機じゃだめなんだってば」
二人で笑った。
思い出すと、あの夜の声も聞こえる気がした。空は広かったけれど、声はみんな、すぐ隣からした。
「家族で流星群、いいなあ」
「毎年のようにあるよ。来年も見ようって話してたんだけど、次の年は、おばあちゃんが入院しちゃって。行けなかったの」
藤井くんが、手すりから少し体を起こした。
「ばあちゃん、もう、よくなった?」
「うん。退院して、今は元気。私よりよく歩くかもしれない」
「そっか」
藤井くんはうなずいて、また手すりに腕を載せた。
「また、みんなで見たいんだよね。次はお父さんより先に見つけたい」
「よし、今度は宮野の方が父ちゃん呼んで、悔しがらせてやれ」
私は少し笑ってから、手すりの上の自分の手を見た。
「その夜のこと、曲にしようとしてるの」
藤井くんが、こちらを向いた。
「曲? 自分で作ってるの?」
「うん。ピアノの。まだ途中なんだけど」
「すごいな。作曲もできるのかよ」
すごいと言われたのは、うれしかった。
作曲のことを人に話すのも、初めてだった。
「前からちょっとずつやってたの。できたら、誰かに聴いてもらいたいなって思って」
「流れ星の曲かあ」
「うん。だけどね、星だけじゃなくて、みんなが喋ってた感じとか。でも、あの夜のことだけで終わりにはしたくなくて」
「また見に行きたいから?」
「あの夜と同じ夜じゃないけど、またあの季節は来るじゃない。そのとき、みんなで見られるかもしれない」
「同じ夜じゃないけど、同じ季節かあ」
「そう。お父さんが何を言うかも、どの星を見逃すかも、まだ分かんない。でも、またみんなで並んで上を見て……そういうのも、入れたいんだと思う」
「いいなあ……だけどそれ、どうやって音にするの?」
「それが分かんなくて、止まってる」
藤井くんは、ああ、と小さく言った。
「最初のほうは、あの夜の感じが出せた気がするんだけどね」
昨日、鍵盤の上で動かした指を思い出した。口で説明するより、あの音を弾いてみせたほうが早い気もした。けれど、まだ聴かせられるところまでできていない。
「先生に訊いたりしないの?」
「習いに行ってる先生には、まだ内緒なんだ」
「そうなんだ」
「訊いたら、いろいろ教えてくれると思う。でも、その前に、一回、自分で形にしてみたいの」
言ってみると、まだまだ時間がかかりそうだった。
藤井くんは、私の話が終わるのを待っていた。
「俺、その曲、聴いてみたい」
顔を上げた。
最初のところを、頭の中で短く弾いてみる。その先の音は浮かばなかったのに、藤井くんが前の椅子に座っているところは、すぐに浮かんだ。
「もう少しできてからね」
「うん。楽しみにしてる。できたら、呼んで」
予鈴が鳴った。
教室へ戻りながら、スカートの横で、最初のところを指だけで弾いた。
いつも止まるところで、やっぱり指が止まった。
今日は、帰ったら、そこからもう一回やってみよう。
*
六月に入ると、教室の窓が朝から開いている日が増えた。
昼休み、藤井くんは窓際の席でノートを見ていた。隣の席の子は外へ行っている。私はその椅子を少し引いた。
「藤井くんが前に国語の時間に描いてた円、あれってどんな問題だったの?」
「どの円?」
「怒られてたときの」
「ああ、あれな」
それで分かるのも、どうなんだろう。
藤井くんは何枚かページを戻して、ノートをこちらへ向けた。私は隣の椅子に座った。
三角形と丸が、少しずつ形を変えて、何組も並んでいた。
「この三つの円が、どれもここを通るんだよ。その理由が知りたくて」
藤井くんが指した一点を、三つの円が通っていた。
「そこを通るように描いたんじゃなくて?」
「それやったら面白くないだろ」
藤井くんは笑って、隣の図へ指を移した。
そのとき、教室の入口から声がした。
「藤井、来いよ。人数足りない」
「あ、今行く」
藤井くんはノートを閉じかけて、こちらを見た。
「続き、また今度な」
「うん。行ってらっしゃい」
藤井くんはノートを閉じて走っていった。
窓から校庭を見る。ボールを持った男子が手を上げ、藤井くんも片手を上げていた。
*
帰り道、莉子が鞄から小さいノートを出した。
透明な表紙の下に入れる写真を、まだ決められないらしい。雑誌から切り抜いた、同じ男性アイドルの写真が二枚あった。
一枚は歌っているところで、もう一枚は、こちらを見て笑っている。
「ねえ真帆、どっちがいい?」
「歌ってるほう」
「でもこっち、目が合うの」
「じゃあ、もう決まってるじゃない」
「真帆にも聴いてほしいんだよね、この曲。超かっこいいの」
「うん、聴く。どっちの写真でも聴くよ」
莉子は、こちらを見ているほうを表紙に入れた。歌っているほうは、ノートのいちばん後ろに挟んだ。
「結局、両方なんだ」
「選びきれなかったんだもん」
夕方の風で、ノートのページがぱたぱたした。
私は端を押さえ、莉子が写真を挟み直すのを待った。
*
その夜は、レッスンの曲を練習してから、五線ノートを開いた。
最近は、楽譜を片づける前に、もう一冊出すようになっていた。
冒頭を弾くと、旋律が伴奏に埋もれた。左手を抑えて、もう一度。
こっちのほうが好きだ。
ノートの左手のところに、小さく書き込んだ。
続きの旋律を高い音へ進めると、急に元気になりすぎる。低い音へ進めると、そのまま終わりたくなる。
あの夜のところは弾けるのに、まだその先へ行けない。
書きかけた音符を消して、前のところへ戻った。
「真帆、麦茶、ここに置くね」
お母さんが、隣の机にコップを置いた。
「ありがとう」
「明日、レッスンだよね」
「うん」
「楽譜、鞄に入れるの忘れないでね」
前に一度、忘れたことがある。一度なのに、毎週言われる。
私は麦茶を一口飲んで、もう一度、右手だけで続きを試した。
*
その二日後の放課後は、音楽室を使っていい日だった。私は、習っている曲を弾いていた。
図書室から来た藤井くんが、いちばん前の椅子に座っている。借りた本は隣の椅子に置いてあった。
最後の和音を弾き、手を上げてからペダルを戻す。
藤井くんは、鍵盤の下をのぞき込んだ。
「今、足で何した?」
「ペダルを戻したの」
「手を離しても鳴ってたの、足でやってたんだ」
「うん。踏んでると、音が残るから」
ペダルを踏んで、一つ音を弾く。指を離してみせると、藤井くんがうなずいた。
「手が休めるな」
「でも、踏みっぱなしだと」
そのまま、別の音もいくつか弾いた。前の音に次の音が重なり、響きが濁っていく。
「わけが分からなくなるな」
「そう。前の音を残したくないところで、踏み直すの」
「ピアノって、足も忙しいのか」
「まあね」
ちょっと得意になって、もう一度ペダルを踏み、短く弾いた。今度は途中で踏み直す。さっきより、次の音がはっきり聞こえた。
「今のは分かった」
「ね」
藤井くんは鍵盤の下を見るのをやめて、椅子へ座り直した。
私は楽譜を一冊閉じ、鞄からもう一冊を出す。
どこに付箋を貼ったか、すぐには見つからなかった。
「今日はもう終わり?」
「ちょっと待って。付箋がどこかに行っちゃった」
ページをめくっていると、藤井くんが急に、教科書を読むみたいな声で言った。
「ピアノが鳴っていないのは、弾き始める前か、弾いたあとのことです」
「当たり前じゃない」
顔を上げると、藤井くんは笑っていた。
「でも、さっきの曲のあとなのか、次の曲の前なのかは、まだ俺には分かんないんだよ」
「どっちも。さっきの曲は終わったし、次も弾くから」
「じゃあ、次の曲の前ってことで」
「はい。お待ちください」
わざと丁寧に言うと、藤井くんは膝に手を置いて、背筋を伸ばした。
かえっておかしくなって、私は笑いながら楽譜に目を戻した。
「そんなにちゃんと座らなくていいよ」
「聴くところだから」
藤井くんは、そう言ってから、少しだけ背中を緩めた。
付箋は、レッスンの先生が鉛筆で矢印を書いてくれたページにあった。家で練習しているところだ。
私は椅子を少し近づけて、弾き始めた。
途中、左手を跳ばすところで、一音外した。でも、止まらずに続けた。
最後まで弾いて顔を上げると、藤井くんが小さく拍手した。
「俺、そっちも好きだな」
「ありがとう。でも途中、一個間違えちゃった。ここのところ」
間違えたところを短く弾く。
「さっきは、こっちに行っちゃったの」
「あ、違うな」
「聴き比べると分かるでしょ」
私はそのところをもう一度弾いた。今度はちゃんと指が届いた。
藤井くんが、今のだな、というようにうなずく。
誰かに説明しながら練習するのも、けっこう楽しかった。
時計を見ると、四時半まで、あと五分だった。
「鍵、返さないと」
楽譜を鞄へ入れ、ピアノのふたを閉める。藤井くんも本を取って立った。
音楽室に鍵を掛けて、二人で階段を下りた。
職員室から出ると、藤井くんは廊下で、借りた本の裏表紙を眺めていた。
「ねえ、明日、図書室に行く?」
「うん。宮野も?」
「返す本があるの。帰り、一緒に行こう」
「うん。じゃあ、教室で待ってる」
藤井くんは本を鞄にしまった。
返す前に、借りていた本の好きだったところの話もしてみよう。私は考えながら、昇降口へ歩いた。
*
次の日、藤井くんは教室の入口で待っていた。
図書室へ行く前に、私は返す本を開いて、好きだったところを見せた。話を聞いた藤井くんは、私が返したあと、その本を借りた。
「読み終わったら、最後のところの話しよう」
「うん」




