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いい日

「藤井くん」

 先生が名前を呼んだ。まただ、と私は思った。

 斜め前の席で、シャーペンが動いている。何かに夢中になっているみたいで、本人だけが呼ばれていることに気づいていなかった。


 藤井くんの右ひじの横から、ノートが少し見えた。三角形と円が、何組も並んでいる。彼はシャーペンの先で、図形の線をなぞっている。

「藤井くん。顔を上げてください」

 藤井くんが顔を上げた。今度は聞こえたみたいだった。国語の先生は、開いた教科書を片手に彼を見ていた。

「授業中に、そんなに一生懸命、何をやっているんですか」

「ええと、考えてる問題が……あって……あれ?」

 藤井くんの目が、ノートへ戻った。

「ああ、先生、俺、分かったかも!」

「分かったかもじゃ、ありません」

 何人かが笑った。先生が笑った方をにらんだ。

 私は唇を内側に巻き込んだ。私もちょっと笑いたかったが、にらまれたくはなかった。


「今、先生が言ったこと、聞いてましたか」

「すみません、よく聞いていませんでした」

 正直だ。

 聞いていたふりくらいすればいいのに。

「廊下に立ってなさい」

「えっ、いいんですか」

 藤井くんはシャーペンを置き、ノートを持って腰を浮かせた。

 教室のあちこちから笑い声が上がった。

「ほんとに行くなって、藤井」

 後ろの男子に言われて、藤井くんが振り向いた。どうして笑われているのか、よく分かっていない顔だった。

 先生も少しの間、何も言わなかった。

「……座りなさい。今度は聞いて」

「はい」

 藤井くんは素直に座り、ノートを閉じた。

 閉じる前に、名残惜しそうに、もう一度中を見ていたけれど。


 莉子と目が合った。莉子は笑いをこらえて、ふき出しそうな頬っぺたをしていた。私は首を振って、教科書に目を落とした。

 中学入学から、まだ一か月もたっていない。けれど藤井くんが授業中に呼ばれるのを見たのは、これが初めてではなかった。

 先生が黒板へ戻り、私はノートに板書の続きを写した。


 廊下に立ってまで考えたい問題って、どんなのだろう。


 *


 その二日後の放課後、私は音楽室のピアノで練習中の曲を弾いていた。映画『アラジン』のテーマ。最後の和音を響かせながら、ゆっくりペダルを戻す。音はすぐには消えず、少し薄くなって、部屋の奥に残った。

 家の電子ピアノでは、いつも音量を控えめにしている。だけどここなら左手の低い音まで広がるので、同じ曲でも、いつもより上手に弾けたような気分になる。


 音楽の先生に、空いている日の放課後なら使っていいと言ってもらっていた。四時半までに、鍵を職員室に返す約束だ。まだ時間はある。もう一回。

 途中の弾きにくいところを練習しようとしたとき、入口で声がした。

「俺、その曲好きだ」

 振り向くと、藤井くんが鞄を肩に掛けて立っていた。

「びっくりした。いつからいたの」

「最後のほう。図書室から出たら聞こえたから」

 藤井くんはドアを閉めて、部屋の真ん中あたりにやってきた。

「うちの父さんが、これ、一人で二人分歌うんだ」

 私は鍵盤から手を下ろした。

「二人分?」

「男の人のほうも、女の人のほうも。皿洗いながら」

「忙しいね」

「女の人のほうになると、急に声が高くなる」

「ちゃんと変えてるんだ」

「変えてるつもりだと思う」

 藤井くんは笑った。私も笑った。

「お母さんは歌わないの?」

「皿拭いてる。ときどき、そこ違うよって言う」

「参加してあげればいいのに」

「父さんが先に両方歌っちゃうからさ」

 それでは、お母さんの出番がない。

 私は顔も知らない藤井くんのお父さんが、流しの前で一人二役をやっているところを想像した。


「映画も見た?」

「見た。歌ってたの、父さんだけじゃなかったんだなと思った」

「そりゃそうだよ」

「小さいときは、知らなかったんだよ」

 藤井くんは、よくこちらを見て話した。教室ではノートばかり見ている印象だから、少し意外な気がした。

「宮野は、うまいんだな。前からピアノやってるの?」

「小一から。週に一回、習いに行ってる」

「じゃあ、六年くらい?」

「うん。でも、この曲を弾き始めたのは最近」

「俺、ピアノで弾くの初めて聞いた。歌のところも、その下の音も、全部一人でやるの、すごいな」

「藤井くんのお父さんみたいにね」

「いや、それよりは、もっとすごい」

 私はおかしくなって、もう一度鍵盤に手を置いた。

「歌のところは、右手。左手は伴奏」

 右手だけで、短く弾いてみせる。

「これだけでも、曲は分かるでしょ」

「うん」

「でも、左手が入ると」

 同じところを両手で弾くと、藤井くんが一歩近づいた。

「おお、さっきのになった」

「ね」

 左手を入れたほうが、弾いている私も気持ちいい。先へ続けたくなったけれど、そこで手を止めた。

「違うことしてるのに、なんで両方できるの?」

「最初は、片方ずつ練習するから」

「片方ずつできたら、もう両方で弾ける?」

「できない。合わせると、また間違える」

「だめじゃん」

「そこから練習してれば、そのうちできる」

 私は膝の上で、左手の指を順番に動かした。藤井くんが自分の左手を見て、まねをする。途中で薬指と小指が一緒に曲がった。

「あれ」

「そうなるよね」

「宮野、ならないの?」

 もう一度やってみると、今度は私の小指も少し動いてしまった。

「……なるときもある」

「ほんとだ」

 二人で笑った。


 先生に注意されたときの顔を思い出した。あのときも、こんなふうに、本当に不思議に思っていたのだろうか。

「ねえ、この間、ほんとに廊下に行こうと思ったの?」

「国語?」

「うん。ノートまで持って」

「ああ。廊下だったら、続きを考えていいのかと思って」

「たぶん、よくないと思う」

「俺も、あとでそう思った」

 藤井くんは、ちょっと困ったように笑った。

「あの問題、もう少しで分かりそうだったんだよ」

「分かったかもって言ってなかった?」

「そう思ったんだけど、だめだったんだ。だから止められなくて」

「分かるかも。私も、弾けそうで弾けないと、もう一回だけって、何回もやっちゃう」

「ごはんだぞって言われても?」

「言われても。でも、最後は呼びに来るから、ごはん食べる」

「俺もだ」

 そこで同じになったのが、おかしかった。


「練習、嫌になることない?」

「あるよ。同じところでずっと間違えると。でも、次の日にやると、急にできたりするの」

「何もしてないのに?」

「うん。昨日あんなにできなかったのにって思う」

「じゃあ、昨日やった分が、あとから来るのかな」

 私は鍵盤を見た。

「そうかも。練習って、そういうところ、あるよね」

「うん」

 昨日の私が、今日の私にちょっとだけ貸してくれる。そう思うと、何回も間違えた時間も、少しよく見えた。


「最初から弾いてもらってもいい?」

 藤井くんに訊かれて、私は壁の時計を見た。鍵を返す時間までは、まだ十分ほどあった。

「うん。そこ、座ってて」

 いちばん前の椅子を指すと、藤井くんは鞄を下ろして座った。

 私は袖を少し引き上げ、最初の音を弾いた。

 さっきより、弾きにくいところを意識してしまった。けれど、そこを通り過ぎれば、あとはいつもの曲だった。

 途中で一度、藤井くんのほうを見る。膝に手を置いたまま、片足で小さく拍子を取っていた。

 私はまた鍵盤へ目を戻し、最後まで弾いた。

「すっげえ」

「ありがとう」

 うれしかったので、そのまま笑った。

「うちでも、最後まで聞きたいんだけどさ」

「聞けないの?」

「皿が終わると、歌も終わる」

「お皿、増やしといたら?」

「それは俺が怒られるやつだろ」

 笑いながら楽譜を片づけ、ピアノのふたを閉めた。


 藤井くんは私が鍵を掛けるのを待ち、一緒に階段を下りた。職員室に鍵を返してから、二人で昇降口へ行く。

 靴を履き替えたところで、帰る方向が違うと分かった。

「じゃあ、また明日」

「うん、明日」


 *


 次の日の昼休み、藤井くんが私の机の横に来た。

「昨日、家の机でやってみたんだけど」

「何を?」

「右手と左手、違うことするやつ。両方、同じになった」

 机に両手を置いて、指を動かしてみせる。途中から右手も左手も一緒に動いて、なかったことにするみたいにグーとパーを交互にした。

「ゆっくりやってみたら?」

「ゆっくりでも、なる」

 見ていると、今度は片方が止まった。

 私は笑って、自分も机に手を置いた。

「藤井、外行くぞ!」

 教室の入口から声がして、藤井くんが顔を上げた。サッカーボールを抱えた男子が、もう一人と並んで待っている。

「あ、行ってくる。あとで教えて」

「うん」

 藤井くんは走っていった。私も席を立ち、莉子と図書室へ行った。


 それから、休み時間に短く話すことが増えた。藤井くんが来ることもあったし、私から話しかけることもあった。

 帰り道は、だいたい莉子と一緒だった。

「今度の日曜、文房具見に行かない?」

「行く。莉子、この前も買ってなかった?」

「この前はペン。今度はペンケース」

 順番は逆のほうがいい気もしたけれど、私も消しゴムを買いたいし、ついていくことにした。

 家では、またあの曲を弾いた。弾きにくいところは、前より少しましになっていた。


 *


 音楽室で話した日から、一週間ほどたっていた。

 五時間目のあとの休み時間、私は渡り廊下の手すりに手を置いて、校庭を眺めていた。日の当たるところだけ温かい。

「今日はいい日だなあ」

 隣の藤井くんが、両腕を手すりに載せて言った。

「何かいいことあったの」

「特にそういうわけじゃないんだけど」

 少し考えてから、藤井くんがこちらを向いた。

「いい日にも、楽しいことがあった日となかった日があるよな」

 私は笑った。

「……それ、言ってること変だよ」

「えー。どこが変なんだよ」

「だってそれ、全部の日がそうだもん」

 藤井くんは口を少し開けたまま、一度まばたきをした。

「……ほんとだ」

「ね」

「うわー。俺、情報量ゼロのこと言っちまった」

「君は頭はいいんだけど、そういうところが抜けてるなあ」

 わざと少し偉そうな声で言ってみた。藤井くんが笑ったので、私も笑った。

 それから彼は、手すりを指で二回たたいた。

「ゼロ・インフォメーションだ」

「あ、英語で言うと少しかっこいいかも。かっこつけてもだめだけど」

 ちょっぴり、映画のタイトルみたいな響きがある。


「でもさ、何にも言ってないわけじゃない気もするんだよな」

「ゼロ・インフォメーションなのに?」

「だって、そういう文、いくらでもあるじゃん。今日の給食が好きだった人と、そうじゃない人がいます、とか」

「それはそうだね」

「でも、さっき言ったのは、給食じゃなくて、いい日の文だろ」

「うん」

「情報量ゼロってところは同じだけど、あえてそっちを選んだってことには、なんかあると思うんだよ」


 藤井くんは校庭へ目を向け、少し黙った。

 下では、ボールを取りに走った男子が、校舎の壁際でかがんでいた。誰かが名前を呼んでいる。

「なんかって?」

「それが、まだ分かんない」

 藤井くんは、本当に分からないらしかった。教室で丸を描いていたときみたいに、ちょっと眉を寄せている。

 私も、その文を考えてみた。

「楽しいことがなくても、いい日?」

「そういう日もありそうじゃん。何も嫌なことがなかった日とか」

「ああ、そっかあ。なんか、いい日って、すごいことがあった日に言う気がしてたけど」

「うん」

「別に、なくてもいいんだね。楽しいことがなくても、いい日でいいんだ」

「うん。いいと思う」


 風が通って、制服の袖が少し膨らんだ。

 校庭から戻ってきた女子が、階段の下で友達を待っている。手を振りながら、早く、と呼んだ。呼ばれた子も笑っていた。

 私は手すりの温かいところへ、もう一度手を置いた。

「……なーんか、平和で、幸せっていうか」

「そう! そうなんだよ!」

 藤井くんが、ぱっと笑った。

 急に心臓がひとつ、余計な打ち方をしたみたいな気がした。

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