落ちこぼれの第九が
大泥牙は、泥の中を歩いてきた。
泳ぐのではなく、歩いていた。荷馬車ほどもある体が、四本の太い脚で泥を踏みしめるたびに、沼全体が揺れる。泥の表面に波が立ち、本隊の陣の天幕がいくつも傾いた。尾の一振りで、篝火の一つが泥ごと吹き飛んだ。
小さな泥牙たちが、道を空けるように左右へ散っていく。
本隊の騎士たちが、後ずさった。
誰かが槍を投げた。槍は大泥牙の肩の鱗に当たり、乾いた音を立てて弾かれた。誰かが剣で脚に斬りつけた。刃が鱗の上を滑り、騎士は脚の一振りで泥の中へ転がされた。
「下がれ! 陣を下げろ!」
団長の声が、裏返っていた。
本隊が崩れた。崩れた騎士たちが、泥に足を取られながら丘のほうへ逃げてくる。その後ろを、大泥牙がゆっくりと追ってくる。急ぐ必要がないと分かっている歩き方だった。
団長の黒馬が、丘の裾まで駆け上がってきた。泥まみれの軍服で、勲章が一つ取れかけている。団長は馬上から、ヴェレーナ隊長を見下ろした。
「第九! 殿を務めろ。本隊が下がるまで、あれを止めておけ」
それから、吐き捨てるように付け足した。
「数合わせでも、盾にはなる」
柵の内で、誰かが息を呑む音がした。
捨て駒にしろ、という意味だ。本隊が逃げる時間を、第九中隊の体で稼げという命令だ。
俺は奥歯を噛んだ。
これは、止められない。魔物との戦いで殿を務めるのは、騎士の務めの内だ。命の危険はあっても、勅が禁じている「眠りと糧と命を奪う定め」ではない。眠っていない者を殿に立たせるなら申し立てられたかもしれない。でも、第九中隊は眠っている。この命令を消す理由が、俺の手の中にない。
ヴェレーナ隊長が、振り返って俺を見た。
青い目だった。夜の篝火の中で、迷いはなかった。ただ、確かめるように俺を見ていた。
前世で、俺は人を休ませることしかできなかった。休んだ人が、その先で何をするかは、その人のものだ。
「行ってください」
俺は言った。
「あなたは、眠っています」
隊長は、一度だけ頷いた。
「第九、前へ。カーヤ、脚を。ネーレ、目を。私が首を取る」
「了解、隊長」
カーヤが槍を担ぎ直して、にやりと笑った。
「やっと、寝た分を使えるね」
一の組と二の組が、隊長の後ろに並んだ。三の組は柵の前に残り、逃げてくる本隊の騎士たちを丘の上へ引き上げ始める。誰に言われるでもなく、そう動いていた。三年間、本隊の分まで夜番に立ってきた人たちは、本隊を見捨てる動き方を知らなかった。
◇
カーヤが走った。
大泥牙の右の前脚が、泥から持ち上がる。その下に滑り込むように踏み込んで、カーヤは槍を斜めに突き上げた。穂先が、鱗と鱗の継ぎ目に刺さる。カーヤは槍を手放さず、自分の体ごと押し込んで、脚を泥の底へ縫い止めた。
大泥牙が吼えた。頭を振り下ろしてカーヤを噛もうとした、その鼻先に、火が弾けた。
ネーレの火だった。
拳ほどに絞った火の玉が二つ、まっすぐ飛んで、黄色い目に吸い込まれた。
大泥牙が、のけぞった。
その首の下に、ヴェレーナ隊長がいた。いつ踏み込んだのか、見えなかった。父の形見だという長剣が、篝火を一度だけ照り返した。
首が、落ちた。
◇
しばらく、誰も動かなかった。
大泥牙の体は、首を失ったまま、ゆっくりと横に倒れた。泥が大きく跳ね上がり、雨のように降ってくる。残っていた小さな泥牙たちが、一斉に泥の中へ潜り、沼の奥へ逃げていく音がした。
それから、本当に静かになった。
丘の下で、逃げかけていた本隊の騎士たちが、立ち止まっていた。泥の中で、振り返ったまま固まっている。剣を握ったまま、槍を杖にしたまま、誰も声を出さない。
ハルトムートが、手当ての途中の足を引きずって、柵の縁まで来ていた。柵の縁を握りしめて、倒れた大泥牙と、その横に立つ女騎士たちから目を離せずにいた。
「……第九が?」
かすれた声だった。
「第九が、大泥牙を……?」
本隊の誰かの手から、剣が滑り落ちた。泥に刺さる、鈍い音がした。それを合図にしたように、あちこちで剣が下ろされていく。
団長は、黒馬の上で黙っていた。手綱を握ったまま、倒れた大泥牙の首を見ていた。顔色が、泥より白かった。
柵の内で、ミーケが泣いていた。泣きながら、笑っていた。
「全員です。全員、戻ってきました。殿下、全員です」
全員、と聞いて、膝から力が抜けそうになった。
前世の最後の年、俺は一人に間に合わなかった。段取りを整えて、証拠を揃えて、来週行けば確実に止められると思っていた。その「確実」を待っている間に、彼は倉庫で倒れた。
今度は、間に合った。俺が何かをしたわけじゃない。剣を振ったのは彼女たちで、俺はただ、四日だけ眠らせた。それだけのことが、間に合った。
俺は柵に手をついて、ゆっくり息を吐いた。
ミーケは、自分で数えていた組の人数を、俺に向かって何度も言った。カーヤが槍を引き抜いて、大泥牙の脚にどかりと腰を下ろし、空を見上げて笑い出した。ネーレは自分の両手を見下ろして、「え、目、当たりました? 当たりましたよね?」と隣の騎士に何度も聞いていた。
丘の下から、本隊の騎士が一人、二人と上がってきた。泥まみれの鎧で、兜を脇に抱えている。彼らは大泥牙の首の前で立ち止まり、それから、丘の裾に並んだ女騎士たちを見た。
「……去年は、第九から怪我人が出たって聞いた」
「女の隊だろ。数合わせの」
「数合わせが、大泥牙の首を落とすかよ」
ぼそぼそとした声が、泥の上で交わされる。一人の若い騎士が、黙ってネーレの前で兜を下げ、頭を下げた。ネーレは何をされたのか分からずに、きょとんとしていた。
ヴェレーナ隊長が、丘を上がってきた。
長剣を下げたまま、泥と返り血で汚れた顔で、まっすぐ俺のところへ来た。そして俺の前で、膝をついた。
唇が動いたが、声にならなかった。代わりに、俺の手を取って、両手で握った。泥と血で汚れた手が、少し震えていた。昨日までの、眠れない震えとは違う震えだった。
俺は、何を言えばいいのか分からなかった。前世で、人が無事だったときに何を言えばいいのか、俺はあまり経験がない。間に合わなかったときの言葉なら、いくらでも知っているのに。
「よく眠れていたようで、何よりです」
口から出たのは、それだった。
隊長は顔を上げて、俺を見た。それから、少しだけ笑った。初めて見る顔だった。
「……はい。よく、眠れました」
◇
夜明けまで、第九中隊は交代表どおりに丘を守った。
空が白み始めたころ、本隊の陣から太鼓が鳴った。団長が、泥の上に残った本隊を集めている。
団長は黒馬の上で胸を張り、取れかけた勲章を手で押さえながら、大声で告げた。
「本隊が、大泥牙を討った! 王都へ戻る!」




