夜の泥
最初の悲鳴は、本隊の陣から上がった。
日が沈みきる前に、泥の中から灰色の背中がいくつも浮き上がった。人の背丈ほどもある蜥蜴だ。泥と同じ色の鱗に覆われ、平たい頭の先に、黄色く濁った牙が並んでいる。泥牙は泥の上を這うのではなく、泥の中を泳ぐように進んで、陣の縁に座り込んでいた騎士たちの足に噛みついた。
「立て! 剣を抜け!」
団長の怒鳴り声が聞こえる。
本隊の騎士たちが立ち上がる。立ち上がるのが、遅い。剣を抜くのが、遅い。抜いた剣を振り下ろしたときには、泥牙はもう泥の中に沈んで、別の騎士の足元から顔を出している。
丘の上から見下ろすと、それがよく分かった。本隊の動きは、一つ一つが半拍ずつ遅れている。酔った人の手つきだ。
「第九、柵の前へ」
ヴェレーナ隊長の声は、低くて、よく通った。
「一の組は前。二の組はその後ろ。三の組は柵の内で待て。団長の命令は、先鋒として沼の縁へ出よ、だ。ここが沼の縁だ」
丘の裾は、ちょうど本隊の陣の横腹に面していた。隊長は、団長の命に背かないぎりぎりのところに隊を置いて、本隊の脇を守る形を取ったのだ。
カーヤが槍を構えて、泥と土の境目に立った。
「さあ来い、蜥蜴ども。こっちは三日ぐっすり寝てんだ」
最初の泥牙が、丘の裾へ這い上がってきた。
カーヤの槍が、泥牙の頭を上から地面に縫い止めた。槍を抜く間に、横から二匹目が跳びかかる。隣の騎士の剣が、その首を払った。
速い。昼間の訓練場で見た速さが、そのまま夜の泥の上に出ている。
◇
俺は柵の内側に立って、角灯を掲げていた。
剣は腰に下げているが、抜く気はなかった。王子の嗜みとして習っただけの剣で泥牙の前に立てば、騎士の足を引っ張るだけだ。俺の仕事は別にある。
前に出ている一の組の騎士たちの動きを見ていた。泥牙を何匹も払ううちに、肩が上がり、息が荒くなっていく。誰の剣が先に重くなるか。誰の足が先に止まるか。
前世で、夜勤の現場を見て回ったのと同じだ。人は、疲れた順に怪我をする。
「一の組、下がってください!」
俺は声を張った。
「二の組、前へ! 一の組は柵の内で水を飲んで、座ってください!」
一瞬、騎士たちが戸惑った。戦いの最中に下がれと言われたことなど、たぶん一度もないのだ。
「下がれ!」
隊長が、俺の声に重ねて怒鳴った。
「殿下の声が交代の合図だ。下がって、息を戻せ!」
一の組が、ぱっと退いた。入れ替わりに二の組が前へ出る。泥牙の群れは、その隙間を突けなかった。下がった騎士たちは柵の内で膝をつき、水筒をあおり、荒い息を整えた。ミーケが震える手で、隣の騎士の水筒の栓を開けてやっている。
本隊の陣のほうから、伝令の騎士が泥を跳ね上げて走ってきた。
「団長より! 第九、なぜ下がる! 臆したか、と!」
柵の前の騎士たちの背中が、一瞬こわばった。三年間、この声に従わなければ手首が焼けてきた人たちだ。
隊長が、振り返らずに答えた。
「下がった者はいない。組を替えただけだ。第九は一歩も退いていない、と伝えろ」
伝令は、丘の裾の泥牙の死骸の数と、一歩も崩れていない第九中隊の列を見比べて、何か言いかけてやめた。それから黙って本隊のほうへ走って戻っていった。
隊長の手首の紋は、光らなかった。
柵の内で、ミーケが膝を抱えていた。水筒を配り終えて、自分の手が震えているのに気づいたらしい。泥牙の鳴き声が聞こえるたびに、肩がびくりと跳ねる。
「ミーケさん」
「は、はい」
「次に下がってくる組の人数を、数えて私に教えてください。全員戻ってきたかどうか、私だけでは見落とします」
ミーケは顔を上げて、ごしごしと目を擦った。
「……はい。数えます」
仕事があると、人は少しだけ怖さを忘れられる。前世で、避難訓練のたびに習ったことだ。ミーケは柵の前を睨むように見つめ始めた。
次は、二の組の肩が上がるのを待てばいい。
俺は帳面を開いた。誰が前に出て、誰が下がり、誰が噛まれたか。角灯の明かりで、走り書きで書いていく。今夜のことは、きっと後で誰かが嘘をつく。嘘をつかれたときに、ここに書いてあったものが要る。
◇
「ネーレ、火を」
隊長の声で、ネーレが柵の前に出た。
「はいっ」
ネーレが両手を前に突き出すと、丘の裾に沿って、火の壁が立ち上がった。
ごう、と空気が鳴った。
泥の原が、昼のように明るくなった。火に照らされて、泥の中を泳いでいた泥牙の背中が、いくつも浮かび上がって見える。思っていたより多い。沼の奥から、まだ次々と泡が上がってくる。
泥牙たちが、火を嫌って丘の裾から離れた。その分、本隊の陣へ流れていく。
本隊の列が、割れた。
疲れきった騎士たちは、四方から泥の中に引き込まれそうになっていた。剣を泥に取られた者、馬ごと倒れた者。陣の端で、一人の騎士が泥牙に足を噛まれて、泥の深みへずるずると引きずられていく。
ハルトムートだった。
「隊長、本隊の端が」
俺が言い終わる前に、ヴェレーナ隊長は動いていた。
丘の裾から、泥の原へ半歩だけ踏み出す。それ以上は出ない。隊の列を離れず、持ち場を空けずに、長剣を振り下ろして泥牙の首を落とし、空いた手を伸ばして、ハルトムートの鎧の襟首を掴んだ。
そのまま、片腕で引き上げた。
泥から抜き上げられたハルトムートの体が、丘の土の上に転がる。身体の強化の加護だ。眠っていない夜には、きっとこんなことはできなかった。
ハルトムートは、泥まみれの顔で隊長を見上げたまま、何も言えずにいた。
「足を見せろ。ミーケ、布と水」
隊長はそれだけ言って、もう前に向き直っていた。
ミーケが布と水筒を抱えて飛んでいき、ハルトムートの噛まれた足を洗い始めた。牙の毒で、もう腫れ始めている。手当てが早ければ、命に関わる傷ではないはずだ。
ハルトムートは、されるがままになりながら、丘の裾で戦う女騎士たちの背中を見ていた。
「……なんで、第九が」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「なんで、第九が、こんなに強いんだ」
「眠ったからです」
俺が答えると、ハルトムートは泥まみれの顔をこちらに向けて、信じられないという顔をした。
◇
二の組の肩が上がった。
「二の組、下がってください! 三の組、前へ!」
三の組が出る。一の組が水を飲み終えて、立ち上がっている。次に下がるのは三の組で、そのとき前へ出るのは、もう一度一の組だ。
これで回る。夜明けまで、たぶん回る。
そう思ったとき、足の下の地面が、低く揺れた。
泥牙たちが、一斉に動きを止めた。
火の壁の向こう、沼の奥の暗がりで、泥が大きく盛り上がった。盛り上がりは、ゆっくりと持ち上がり続けた。水と泥が滝のように流れ落ちる。その下から、灰色の鱗に覆われた、荷馬車ほどもある影がせり上がってきた。
黄色い目が、二つ。篝火の明かりを照り返して、本隊の陣を見下ろしていた。
本隊の誰かが、裏返った声で叫んだ。
「大泥牙だ!」




