灰沼へ、昼のうちに
本隊は、出陣の前の晩に兵営を出た。
松明を掲げた騎馬の列が、太鼓に合わせて北門をくぐっていく。王都の通りには見物の人が出て、手を振っていた。団長は先頭の黒馬に乗り、胸の勲章が松明の火を照り返していた。
灰沼までは、半日の道のりだ。夜を通して歩けば、夜明けに着く。夜明けに旗を立てれば、王都の北の丘から見える。見えるように立てるのが大事なのだと、団長は出陣の前に騎士たちに言ったらしい。
第九中隊は、その晩、交代表どおりに眠った。
◇
翌朝、まだ空が白いうちに、第九中隊は兵営を出た。
見送りは誰もいなかった。荷車がいくつかと騎馬が数頭、残りは徒歩だ。俺は荷車の御者台の隣に座らせてもらった。馬には乗れるが、騎士の速さにはついていけない。
「殿下、本当に来るんですね」
ネーレが荷車の横を歩きながら言った。
「来ると言いましたから」
「王子様って、こういうとき、来ないものだと思ってました」
「来ないと、見られませんから」
前世でも、現場は行かないと分からなかった。書類だけで分かることは、半分もない。
ヴェレーナ隊長は、隊の先頭で馬を進めていた。時々振り返って、俺の荷車と隊の列を確かめる。三晩に一晩しか夜番に立たなかった四日間で、目の下の隈はだいぶ薄くなっていた。
昼の鐘が王都の方角から小さく聞こえるころ、灰沼の南の縁に着いた。
灰沼は、思っていたより広かった。灰色の泥と、背の高い葦の原が、見渡すかぎり続いている。風が吹くと葦が一斉に鳴り、泥の匂いが鼻を刺す。ところどころに水の溜まりがあって、空を映して鈍く光っていた。
縁から少し離れたところに、隊長の言っていた小さな丘があった。泥から頭一つ高い、乾いた土の盛り上がりだ。
「ここに陣を組む。柵を立てろ。篝火は丘の縁に沿って。夜の組は、今から眠れ」
隊長の声で、隊が動き出した。カーヤが丸太の柵を肩に担いで運び、ミーケが杭を打ち、ネーレが篝火の薪を積む。交代表の三つの組のうち、夜に立つ組は、荷車の陰に毛布を敷いて、日の高いうちから横になった。
手際がよかった。三年間、疲れた体で同じことをやってきた人たちだ。体が戻れば、速い。
柵を立て終えたカーヤが、俺の隣に来て、どっかりと腰を下ろした。額の汗を袖で拭う。
「王子様は、なんで第九なんかに構うんだ」
「構いたくて構っているわけではありません。見てしまったので」
「見てしまったら、何なんだよ」
「見てしまったら、それはもう仕事です」
カーヤは、変なものを見る目で俺を見た。
「私はさ、十年で誓約が満ちたとき、一度辞めようと思ったんだ」
カーヤは、沼のほうを見ながら言った。
「でも、村に帰っても槍を振る場所はないし、嫁に行く歳でもない。結局、結び直した。ほかに行くところがないから。そういうやつばっかりなんだよ、第九は。だから団長は、何をしても辞めないと思ってる」
「辞めない人を、使い潰していい理由にはなりません」
「……言うね、王子様」
カーヤは鼻を鳴らして立ち上がり、柵の具合を確かめに行った。その背中が、昨日よりほんの少し軽そうに見えた。
◇
本隊の陣は、丘から泥の原を少し下った、沼の縁にあった。
夜明けに着いて旗を立てたあと、そのまま泥の上に陣を組まされたらしい。天幕の足元がぬかるみ、馬が泥に脚を取られて嘶いている。騎士たちは鎧のまま泥の上に座り込み、何人かは兜を抱えたまま眠っていた。
俺はヴェレーナ隊長と二人で、本隊の陣を見に行った。
陣の端で、一人の騎士が、馬の上で船を漕いでいた。日に焼けた、がっしりした男だ。訓練場で、笑わずに的打ちを見ていた騎士だった。
馬が首を振った拍子に、男ははっと目を開けた。
「……すまん。寝てたか」
「寝ていました」
俺が言うと、男は俺の顔を見て、それから首の銀印を見て、慌てて馬から降りようとして、泥で滑った。
「本隊の、ハルトムートです。監察使殿下」
「昨夜は、眠りましたか」
「歩いてました。一晩中」
ハルトムートは苦笑いした。
「その前の晩は、団長のお屋敷の宴の警護で。第二王子殿下がお見えになるとかで、本隊から人を出せと」
騎士団の本隊が、団長の屋敷の宴の警護に立つ。騎士団の務めの中に、そんな定めがあっただろうか。俺は帳面に一行書いた。
「その前の晩は」
「……覚えてません」
団長の天幕は、陣の真ん中の、少しだけ乾いた場所にあった。
団長は折りたたみの椅子に座り、地図を広げていた。俺を見ると、眉をひそめた。
「書庫の殿下。泥遊びには、まだ早いですぞ」
「団長。お願いがあります」
俺は、天幕の外で泥に座り込んでいる騎士たちを振り返った。
「眠っていない兵は、酒を飲んで見張りに立つのと同じです。今夜、泥牙が上がってくる前に、本隊の半分を休ませてください。半分ずつ、交代で」
「何を言われるかと思えば」
団長は、地図から目も上げなかった。
「戦場で休む騎士がいるか。我が本隊は夜を通して歩き、夜明けに旗を立てた。王都の北の丘からも見えたはずだ。それが騎士の誉れというものです。殿下の書庫の本には、書いておりませんかな」
「誉れで、泥牙の牙は止まりません」
「止めるのは剣だ」
団長は、ようやく顔を上げた。
「第九は先鋒だ。泥牙が上がってきたら、真っ先に沼の縁へ出させる。殿下は丘の上で、せいぜい記録をお取りなさい。数合わせが何人残ったか、をね」
それ以上、話は続かなかった。
天幕を出ると、隊長が黙って俺の横に並んだ。
「本隊には、申し立てられないのですか」
隊長が、小声で聞いた。
「今夜の前には、無理です」
俺は首を振った。
「立ち入ることはできます。でも、昨夜の行軍の命令は、もう終わっています。終わった命令は、消しても誰も眠れません。本隊の誓約書の定めも、勤めの記録も、まだ見ていない。今夜、泥牙と戦えという命令は、騎士の務めです。眠っていない者を戦わせるなと申し立てるには、本隊の一人一人が、いつから眠っていないかを聞かなければならない。今から一人ずつ聞いている間に、日が沈みます」
申し立てるには、事実が要る。前世でも、目の前で人が倒れそうでも、根拠がなければ止められないことがあった。そのたびに、自分の手の届かなさに腹が立った。
「今夜は、第九中隊を守ります。それしかできません」
隊長は、しばらく本隊の陣を見ていた。泥の上で眠っている騎士たち。馬の上で船を漕ぐ騎士。それから、丘の上の自分の隊の柵を見た。
「……第九が、本隊を守ることも、できます」
「隊長の判断に任せます」
隊長は短く頷いて、丘へ戻る道を歩き出した。
日が傾き始めていた。
丘に戻って篝火に火が入るころ、俺は柵の縁に立って、沼を見下ろしていた。
風が止んでいた。
それなのに、葦が揺れている。
沼の縁から奥へ向かって、葦の原が一筋、二筋と、何かが下をくぐるように揺れていく。泥の表面に、小さな泡が浮いた。一つ、また一つ。泡は列になって、本隊の陣のほうへ並んでいく。
「隊長」
俺が呼ぶより早く、ヴェレーナ隊長はもう剣を抜いていた。




