交代表と、大きすぎる火
翌朝、俺は第九中隊の詰め所の壁に、一枚の紙を貼った。
交代表だ。隊を三つの組に分け、夜番と訓練と休みを順に回す。夜番に立った組は、翌朝の訓練に出ない。昼は巡回に出る組と、眠る組が入れ替わる。灰沼へ出る朝まで、誰も二晩続けて立たない。
書庫で写した騎士団の古い規則を、そのまま紙に落としただけのものだった。
「これ、規則に書いてあったのか」
カーヤが紙を覗き込んで、唸った。
「書いてありました。百年以上前から」
「誰も読んでないじゃないか」
「読む人がいないと、規則は眠ります」
前世でも同じだった。法律に書いてあっても、誰も見に来なければ、職場の中では無いのと同じになる。だから見に行く人間がいる。
ヴェレーナ隊長が、表を上から下まで何度も読んで、言った。
「この割り振りだと、隊長の私が夜番に立つのは、三晩に一晩です」
「そうです」
「……それでは、隊の者に申し訳が」
「隊の者が倒れないように、組を三つにしてあります。あなたが二晩立つと、どこかの組が一つ足りなくなって、表が崩れます」
隊長は、しばらく紙を睨んでいた。
「表が崩れるのは、困ります」
「困ります」
隊長は小さく頷いて、自分の名前の横の「休み」の欄を、指でなぞった。
その晩、見回りのついでに詰め所を覗くと、休みの組の寝台で、隊長が一人だけ目を開けて天井を見ていた。
「眠れませんか」
小声で聞くと、隊長は身を起こしかけて、やめた。
「……夜に横になるのが、落ち着きません。誰かが今、私の代わりに立っていると思うと」
「立っているのは、今夜の組です。代わりではありません。今夜はその人たちの番で、明日はあなたの番です」
隊長はしばらく黙っていた。それから、毛布を顎まで引き上げた。
「明日は、私の番」
「そうです」
隣の寝台のネーレが、寝返りを打ちながら「隊長、早く寝てください……」と寝言のように言った。隊長はそれで少しだけ笑って、目を閉じた。
兵営の北門の見張り台には、三年ぶりに本隊の騎士が立っていた。ぶつぶつ文句を言う声が、夜の空気に乗って聞こえてくる。
◇
その翌日の昼、訓練場で的打ちがあった。
中隊ごとに、藁を巻いた的に剣や槍や魔法を当てる。訓練場の端では、本隊の騎士が数人、腕を組んで眺めていた。
「おい、第九の番だぞ」
「焚き火の時間か」
笑い声が上がる。第九中隊の魔術兵の火が、焚き火ほどの大きさしかないのは、騎士団では知られた話だったらしい。
ネーレが前に出た。
立ち入りの晩、厩の裏で角灯ほどの火しか出せなかった娘が、少し不安そうに掌を上に向けた。
次の瞬間、訓練場の真ん中に、人の背丈を超える火柱が立った。
的が丸ごと火に呑まれた。後ろに積んであった藁束まで燃え移り、慌てた見習いたちが水桶を抱えて走っていく。
本隊の騎士たちの笑い声が、ぴたりと止まった。
一番驚いていたのは、ネーレ本人だった。
「え。え? 私、こんなに出ましたっけ?」
「出たね」
カーヤが笑いながら槍を構えた。突き出した穂先は、的を支える太い杭ごと貫いて、杭を真っ二つに割った。
見ていた本隊の騎士の一人が、組んでいた腕をほどいた。もう一人は、何も言わずに訓練場を出ていった。
見習いのミーケは、自分の番で木剣を振ったあと、手のひらをじっと見ていた。
「どうしました」
「剣が、軽いんです。昨日まで、腕に石が付いてるみたいだったのに」
身体の強化の加護は、まだ弱いと聞いていた。弱いなりに、ちゃんと働いている。ミーケは木剣を胸に抱いて、泣きそうな顔で笑った。
訓練場の端で、一人だけ笑わずに最初から見ていた本隊の騎士がいた。日に焼けた、がっしりした男だ。燃え残りの藁と割れた杭を見比べて、小さく「あれが第九か」と呟いたのが聞こえた。
俺は藁の燃え残りを見ながら、前世で読んだ研究を思い出していた。十七時間から十九時間起き続けた人は、反応の速さも正確さも、酒に酔った人と同じくらいに落ちる。眠らずに働く人は、酔って働いているのと変わらない。
この国の加護も、同じだったらしい。疲れれば鈍り、眠れば戻る。
強くなったんじゃない。戻っただけだ。彼女たちは三年間、ずっと酔ったような体で剣を振っていた。
◇
その夕方、母上の宮に寄った。
王宮の外れの、小さな宮だ。母上は窓辺で針仕事をしていて、俺の顔を見るなり手を止めた。
「セオ。あなた、寝たの」
「寝ました」
「いつ」
答えに詰まった。
灰沼の前に、第九中隊の誓約書の写しをもう一度読んでおきたくて、この二晩は書庫で夜を明かした。その前の晩は、物見に立っていた。
母上は、針を針山に刺して、ため息をついた。
「人には眠りなさいって言って回ってるって、侍女たちが噂してるわよ」
「噂は早いですね」
「早いわよ。王宮は暇だもの」
母上は笑って、俺の頬を指でつついた。俺が小さいころからの癖だ。
「無理はしないでね。あなたは、昔から無理をしてることに気づかない子だったから」
前世からです、とは言えなかった。
◇
詰め所に戻ると、戸口にヴェレーナ隊長が立っていた。俺を待っていたらしい。
「殿下。灰沼のことで、お願いがあります」
「何でしょう」
「灰沼では、私が殿下の護衛に付きます」
隊長は、まっすぐ俺を見て言った。
「騎士団の誓約には、王族の護衛は騎士の務めとあります。殿下には近衛が付いておられない。殿下が来られるなら、私が前に立ちます」
「私は後ろで記録を取るだけです。前には出ません」
「では、その後ろの、前に立ちます」
言い切ってから、隊長は自分の言ったことの妙さに気づいたらしく、少しだけ耳を赤くした。それでも、目は逸らさなかった。
断っても無駄だと分かった。それで、かわりに灰沼のことを聞いた。
「泥牙と戦ったことは」
「去年の秋にも出ました。泥牙は、昼は泥の中で鈍っています。夜になると上がってきて、足を狙う。だから、日のあるうちに着いて、泥の届かない高いところに陣を組むのが一番です。灰沼の南の縁に、小さな丘があります」
隊長の声は、さっきまでと違って迷いがなかった。戦いのことになると、この人は言葉が速くなる。
「去年は、そうしましたか」
「去年は、夜通し歩いて夜明けに着けと命じられました。着いた日の晩に、三人が足を噛まれました」
「今年は、昼のうちに着きましょう。行き方を決めるのは、隊長の務めでしょう」
「……団長が、何と言うか」
「先鋒の行き方まで、団長は決めていません。兄上は、先鋒は第九中隊とだけ言いました」
隊長は少し考えて、頷いた。
断る言葉を探しているうちに、兵営の本棟のほうから、団長の大声が聞こえてきた。
「本隊は、明日の晩に発つ。夜を通して歩き、夜明けに灰沼に旗を立てる。騎士の誉れだ!」




