遊びは終わりだ、セオ
昼の鐘が鳴っても、第九中隊の詰め所からは誰も出てこなかった。
古い厩を直した建物の中は、薄暗くて静かだった。寝台が足りないので、半分の騎士は床に毛布を敷いて寝ている。外套を着たまま丸まっている者、胸当てを外す前に力尽きた者、隣の騎士の背中を枕にしている者。誰も寝返りを打たない。
奥から、地鳴りのような音が聞こえる。カーヤのいびきだった。
俺は戸口で、王宮の厨房から運ばせた鍋を下ろした。肉と根菜を煮込んだスープと、籠に山盛りの白いパン。俺の扶持から出した。後ろ盾のない第六王子の扶持でも、一日の昼飯くらいはどうにかなる。
蓋を開けて、湯気が詰め所に流れ込んだ瞬間だった。
床の毛布の一つが、むくりと起き上がった。
「……肉の匂い」
そばかすの魔術兵、ネーレだった。目はまだ半分閉じている。
「肉の匂いがします」
「肉が入っています。どうぞ」
ネーレは毛布を引きずったまま這ってきて、俺の差し出した椀を両手で受け取り、一口すすって、固まった。
「……おいしい」
それから、ものすごい勢いで飲み始めた。
その音で、何人かが目を覚ました。匂いでさらに何人かが起き、ネーレが「肉です! 白いパンもあります!」と叫んだので、残りも起きた。カーヤのいびきだけが最後まで止まらなかった。
◇
鍋はあっという間に空になった。
椀を抱えた女騎士たちが、詰め所の床に車座になっている。ミーケは白いパンを両手で持ったまま、ちぎるのがもったいないという顔でじっと見ていた。
「いつもは、何を食べているんですか」
俺が聞くと、ネーレが口をもぐもぐさせながら答えた。
「黒パンと、スープです。薄いやつ。具は、たまに玉葱が浮いてます。朝も昼も夜も、それです」
「三年くらい、ずっとそうだよ」
ようやく起きてきたカーヤが、鍋の底をパンで拭いながら言った。
「本隊は肉が出るらしいけどね。第九は女だから少なくていいんだってさ」
俺は黙って、帳面に一行だけ書いた。
騎士団の糧は、主計が一人あたりの額を割り当てて出す。書庫の規則の写しで見た額なら、三食に肉とスープと白いパンが出る。黒パンと薄いスープだけでは、割り当ての額の半分も使わない。
残りの半分は、どこへ行ったのか。
今日はまだ、そこまで手を伸ばす時ではない。一行書いて、帳面を閉じた。
顔を上げると、ミーケが白いパンを持ったまま、俺を見ていた。
「あの、殿下は、召し上がりましたか」
「私は」
言いかけて、詰まった。昨日の昼にエメリヒのパンを齧ってから、何も食べていない。夜は物見に立っていたので、眠ってもいない。
「……あとで食べます」
「殿下、それ、昨日の隊長と同じ言い方です」
ネーレが遠慮なく言って、籠の底から最後の一つを掴み、俺の手に押しつけた。周りの女騎士たちが、くすくす笑う。笑い声を聞くのは、この詰め所に来て初めてだった。
俺は大人しくパンを齧った。前世から、人に休めと言うのは得意で、自分が休むのは下手だ。
詰め所の奥から、ヴェレーナ隊長が出てきた。夜明けに俺が掛けた外套を、きちんと畳んで両手に持っている。
「殿下。これを、お返しします」
「ありがとうございます。眠れましたか」
「……はい」
今度は、即答ではなかった。少し考えてから、本当のことを言う顔で答えた。
「昼まで、一度も目が覚めませんでした。三年ぶりです」
隊長は外套を俺に渡すと、それ以上何も言わずに、車座の端に座った。ネーレが彼女の分の椀を取っておいてあった。
◇
夕の鐘が鳴った。
第二王子の部屋は、王宮の南翼の一番日当たりのいい場所にある。白い壁に金の縁取り、窓の外には庭園の噴水。後ろ盾のない第六王子の部屋とは、広さも日当たりも比べものにならない。
「やあ、セオ。座りなさい」
ディートリヒ兄上は、いつもの柔らかい笑顔に戻っていた。手ずから紅茶を注いで、俺の前に置く。
「今朝の訓練場は見事だったね。団長が、あんなに慌てた顔をするのを初めて見たよ」
「恐れ入ります」
兄上は、俺が子どものころから、俺を見るときにいつもこういう顔をする。可愛い弟を見る顔だ。可愛いのは、役に立たない間だけだということも、俺はよく知っている。
「団長は、私の大事な友人でね。騎士団は王都の守りだ。その騎士団の規律を、書庫から出てきたばかりの弟がかき回すのは、兄としてあまり嬉しくない」
「規律は、騎士団の古い規則のとおりに戻しただけです」
「それで、だ」
兄上は自分の杯を持ち上げて、香りを嗅いだ。
「遊びは終わりだ、セオ」
笑顔は変わらなかった。声の温度だけが、すっと下がった。
「灰沼に泥牙が増えている。秋はいつもそうだが、今年は群れが大きい。四日後の朝、騎士団が討伐に出る。団長の命でね、先鋒は第九中隊だ」
灰沼は王都の北にある湿地だ。泥牙は、人の背丈ほどもある蜥蜴の魔物で、群れで泥に潜り、足に噛みつく。夜になると強くなる。
「数合わせが先鋒で、何人戻るかな」
兄上は楽しそうに言った。
「討伐は騎士の務めだ。誓約の勅とやらにも、魔物と戦うなとは書いていないだろう?」
書いていない。
魔物の討伐は、騎士が誓約を結ぶときに引き受ける務めそのものだ。命の危険はあっても、勅が禁じているのは、眠りと糧と命を奪う「定め」や、その「使い方」だ。討伐に出すこと自体は、止められない。兄上はそれを分かっていて言っている。いや、勅の中身は知らないはずだから、分かっているのは団長の入れ知恵か。
俺は紅茶に口をつけずに、杯を置いた。
「では、私も行きます」
「お前が?」
「監察使として。討伐の間も、第九中隊の勤めが勅に背いていないか、見ていなければなりませんから」
兄上は一瞬、目を細めた。それから声を立てて笑った。
「いいとも。書庫の王子が泥まみれになるのは見ものだ。せいぜい、騎士の足を引っ張らないようにな」
◇
詰め所に戻ったときには、もう日が落ちていた。
女騎士たちは夕飯の黒パンを前に、交代で起きたり眠ったりしている。「昼夜を問わず」の一行が消えた今、第九中隊が本隊の持ち場まで立つ理由はもうない。
俺はヴェレーナ隊長を呼んで、兄上の話をそのまま伝えた。灰沼。泥牙。先鋒。
隊長は、顔色一つ変えなかった。
「承知しました。討伐は、騎士の務めです」
「私も行きます」
「殿下が?」
「後ろで記録を取ります。それと、一つだけお願いがあります」
俺は、隊の者たちの寝息を背中に聞きながら言った。
「四日あります。四日、ちゃんと眠ってください。全員です。あなたも」




