隊長は、隊の分まで起きている
「顔を上げてください」
俺が言っても、隊長はしばらく頭を下げたままだった。兵営の門番が、何事かとこちらを見ている。
ようやく顔を上げた彼女は、名乗った。
「第九中隊の隊長、ヴェレーナ・アーレンスです。先ほどは、ミーケを助けていただき、ありがとうございました」
礼の言葉は、きちんと腹から出ていた。そのあとに続いた言葉は、喉の奥から絞り出すようだった。
「ですが、どうか、これ以上は」
「理由を聞いてもいいですか」
「団長に逆らえば、第九中隊は解かれます」
ヴェレーナ隊長は、短く言い切った。
「第九が解かれれば、女騎士の行き場はありません。ほかの中隊は、女を取りません。辺境の砦に一人ずつ散らされるか、誓約を解かれて村へ帰されるか。村へ帰っても、騎士崩れの女に仕事はない。隊の者には、家に仕送りをしている者が多いのです」
「だから、眠らずに従う」
「眠らなくても、死にはしません」
そう言った彼女の右手が、胸当ての縁を握っていた。指の先が、細かく震えている。本人は気づいていない。
前世で、同じことを言った人がいた。眠らなくても死にはしません、と。
「アーレンス隊長。あなたは、最後にいつ眠りましたか」
「昨夜です」
即答だった。答えを用意してあった速さだ。
「そうですか」
俺はそれ以上聞かなかった。聞いても、同じ答えが返ってくるだけだ。
ヴェレーナ隊長はもう一度頭を下げ、詰め所のほうへ戻っていった。背筋はまっすぐで、歩き方も乱れていない。ただ、角を曲がる前に一度、壁に手をついた。
◇
門の前でしばらく待っていると、案の定、赤毛のカーヤが一人で戻ってきた。
「隊長、昨夜寝たって言っただろ」
「言いました」
「嘘だよ」
カーヤは門番に聞こえないように、声を落とした。
「あの人、三年前からずっと、隊の者の夜番を代わって立ってる。若いのが倒れそうになると、今夜は私が立つって言って、自分の持ち場と二つ掛け持ちする。止めても聞かない。自分が倒れたら隊が終わると思ってるんだ」
カーヤは乱暴に頭を掻いた。
「私が言ったって、隊長には言うなよ。あんたが本物かどうか、まだ分からないんだから」
「言いません」
「……昼間の、ミーケのは、ありがとな」
カーヤはそれだけ言って、走って戻っていった。
俺は兵営の石壁を見上げた。
部下を守るために、自分の分を削る隊長。
前世の最後の年に、似た案件を受けた。配送センターの、二十四歳の若い社員だった。上司が辞めて、彼が一人で現場を回していた。彼の母親が監督署に相談に来て、俺は記録を集め、翌週の月曜に予告なしで立ち入る段取りを組んだ。証拠を揃えてから行ったほうが、確実に止められるからだ。
その前の晩に、彼は倉庫で倒れて、そのまま死んだ。
段取りは正しかった。手順も間違っていなかった。それでも、来週じゃなく、今日行けばよかった。あれ以来、ずっとそう思っている。
だから、今夜行く。
◇
王宮書庫は、本棟の北の端にある。高い棚が天井まで並び、古い紙と革の匂いがする。俺が子どものころから通っている場所だ。
「殿下。宴をお抜けになったと伺いましたが、まさか本当に、真っすぐここへお戻りとは」
書記官のエメリヒが、丸い眼鏡の奥で目を細めた。白い髭の老人で、若いころからずっとこの書庫にいる。俺が勅を読み込んでいたのを知っているのは、王宮でこの人だけだ。
「回廊の件も、もう耳に入っております。閑職の印が光ったと、侍女たちが騒いでおりました」
「エメリヒ。申し立ての決まりを、もう一度確かめたい」
「承知しております。これでございましょう」
エメリヒは、俺が数えきれないほど開いた写しを、迷わず棚から抜いてきた。初代王が誓いの神の前で立てた、誓約の勅。
――誓約の定めは、仕える者が人たるに値する暮らしを営むための必要を満たすものでなければならない。
最初の一行を読むたびに、俺は少しだけ笑いそうになる。
労働基準法の第一条と、ほとんど同じ言葉なのだ。「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」。前世で、新人の研修のたびに読み上げた条文だ。三百年前のこの国の王が、どうしてこの言葉を書けたのか。それを考え始めると夜が明けるので、今日は考えない。
勅は続けて、仕える者の命と眠りと糧を奪う定めは、監察使の前に効を失うと言う。監察使は王の名において、いつでも仕える場に立ち入り、記録を求め、仕える者に問い、命を損なう勤めを差し止め、責めを負う者を王の裁きまで留め置く。問われて答えた者を、主は罰してはならない。
「殿下もご存じのとおり、申し立てが偽りか、事実が足りなければ、印は応えません」
エメリヒが言った。
「そうなったときの恥は、殿下お一人のものでは済みませんぞ。二百年前の監察使は、四代目の王の弟君でございました。貴族の領地の誓約を次々と申し立て、領地から働き手が去った。貴族たちが王に詰め寄り、四代目の王はそれきり、次の監察使をお任じにならなかった。それから二百年、この勅の権限の行を読んだのは、この書庫の二人だけでございます」
「知っています」
「殿下、それでも参られますか」
「行きます」
エメリヒは、ため息とも笑いともつかない息を吐いた。
「では、事実をお揃えなさいませ。何がお入り用です」
「今夜、本当に誰がどの持ち場に立っているか。それを、一人ずつ聞きます。上の者のいないところで」
前世の手順だ。記録はいくらでも書き直せるが、夜の見張り場に実際に立っている人間は書き直せない。そして聴き取りは、必ず一人ずつ、上司のいない場所でやる。上司の前で本当のことを言える人は少ない。
「それと、騎士団の規則を。夜番の割り振りの決まりが載っているものを」
「それなら、こちらに」
エメリヒは別の棚から、薄い綴りを抜いてきた。百年以上前に定められた騎士団の古い規則だ。夜番は中隊ごとに回す。夜番に立った中隊は、翌朝の訓練を免じる。誰も読まなくなった規則だが、廃されてはいない。
「書き写しておきなさいませ。……それから殿下、朝から何も召し上がっておられませんな」
「そうでしたか」
「そうでございます」
エメリヒが、机の引き出しから固いパンを一つ出して、俺の前に置いた。前世から、俺は書類を読み始めると食べるのを忘れる。言われるまで、腹が空いていることにも気づかなかった。
パンを齧りながら規則を写し、勅をもう一度頭から読み返すうちに、高窓の外が暗くなった。夜の鐘が鳴った。
立ち上がった俺に、エメリヒが言った。
「せめて角灯をお持ちなさい。兵営の夜は、足元が暗うございます」
俺は書庫の角灯を一つ借りて、兵営の北門へ歩き出した。




