聖女は、休みたくない
手首を胸に抱き込んだまま、聖女クラーラは俺を見ていた。
怯えた目だった。俺に怯えているのではない。俺の手の中の銀印にでもない。印が触れたら何かが起きる、その「何か」を怖がっている目だった。
俺は、伸ばしかけた手を下ろした。
押そうと思えば、押せたかもしれない。手首を掴んで、紋に印を当てて、申し立てる。でも、それは違う。
回廊で手首を差し出したミーケは、泣きながら痛みから逃れたがっていた。訓練場で手首を差し出したヴェレーナ隊長は、迷って、それでも自分で一歩前に出た。この人は、手を引いた。印から逃げた。
何を怖がっているのかを知らないまま押せば、俺はこの人から、怖がっているものごと何かを取り上げることになる。それが何なのか、俺はまだ知らない。
それに、誓願の紋に何が書かれているのかも、まだ見ていない。一行目が「拒まず」だということしか知らない。事実を揃えずに押すのは、この印の使い方ではない。
「分かりました」
俺は銀印を鎖に戻した。
「今日は、押しません」
クラーラの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。それから、次の寝台のほうを見た。札を持った貴族が、目を閉じたまま待っている。
「失礼します。次の方が」
クラーラは次の寝台へ向かおうとして、またよろめいた。俺が思わず手を出すより早く、自分で寝台の縁を掴んで、体を支えた。そして、次の寝台へ歩いていった。
◇
「ご覧のとおりでございます」
幕をくぐって、大司教グレゴールが入ってきた。ヴェレーナ隊長が、その半歩後ろにぴたりと付いている。剣は抜いていないが、目は大司教から離していない。
「聖女は、自ら望んで神に仕えております。誰に強いられたのでもない。殿下の印の出る幕は、どこにもございませぬな」
大司教は、穏やかに笑った。白い髭の奥の唇が、柔らかく弧を描いている。
クラーラが、寝台の前で振り返った。大司教を見て、それから俺を見た。大司教が小さく頷くと、クラーラは目を伏せて、貴族の胸に手をかざした。
その頷きを、俺は見ていた。
許しを与える頷きではなかった。続けなさい、という頷きだった。
「殿下には、正門までお送りいたしましょう。神殿騎士を付けます。脇の門は病人で混み合っておりますのでな」
俺は、大司教ではなく、脇に控えている年若い神官に向き直った。
「聖女様は、一日に何刻、癒しの間に立っておられますか」
神官は口を開きかけて、大司教のほうを見た。大司教は笑みを崩さない。神官は、何も言わずに目を伏せた。
答えられないのではない。答えてはいけないと思っている顔だった。騎士団の主計の部屋で、トビアスが同じ顔をしていた。
「殿下。神に仕える者に、刻を数えさせるのは無粋というものです」
大司教が、柔らかく言った。
断る理由を、その場で作ることはできなかった。俺は、まだこの大神殿の中で、勅が届くかどうかを示していない。神殿騎士に囲まれて回廊を戻る間、カーヤが何度も舌打ちをして、ネーレに袖を引かれていた。
回廊の途中に、癒しの間を見下ろす小さな窓があった。通り過ぎるときに、目が勝手にそちらへ向いた。
白い床の上で、クラーラがまた膝をついていた。誰も駆け寄らない。しばらくして、寝台の縁を掴んで、立ち上がる。
足が止まった。
「殿下」
ヴェレーナ隊長が、俺の横で低く言った。前と後ろに、神殿騎士の槍がある。
「今日は押さないと、殿下がお決めになりました」
分かっている。決めたのは俺だ。押さないと決めたなら、押せるようになるまでの段取りを組むしかない。
俺は窓から目を離して、また歩き出した。歩きながら、帳面に一行書いた。神官は、聖女の勤めの刻を答えられない。
◇
正門の外へ出ると、日が高くなっていた。
門の前には、さっきより長い馬車の列ができていた。屋台の札は、金色のものから売り切れていく。従者たちが札を握りしめて、主人の馬車へ駆け戻る。
丘の脇の細い道では、脇の門から帰される人の列が、来たときと同じ道を下っていた。熱で赤い顔の子どもを抱いた母親が、立ち止まって門を振り返り、また歩き出す。
俺は、しばらく二つの道を見比べていた。
同じ丘の上の、同じ聖女の癒しだ。片方の道には、札の色の順番がある。もう片方の道には、順番すらない。
「アーレンス隊長」
「はい」
「さっき、聖女が何を怖がっていたか、分かりますか」
隊長は、少し考えた。それから、自分の右の手首を、左手でそっと押さえた。紋の線が一本消えた、あの手首だ。
「私も、怖かったです」
「何がですか」
「回廊で、殿下に手首を見せるのが。訓練場で、手首を差し出すまでも」
隊長は、丘を下る人の列を見ながら言った。
「押されたら、隊が終わる気がしました。団長に逆らったことになって、第九が解かれて、隊の者が散り散りになる。眠れるようになることより、そっちのほうが、ずっと怖かった」
俺は、黙って聞いていた。
「聖女様も、何か、眠れないことよりも、失うのが怖いものがあるのだと思います。押されたら、それがなくなってしまう、と思うような何かが」
隊長は、それきり口を閉じた。
前世でも、同じだった。休めと言われて、休むほうが怖いと答える人がいた。休んだら席がなくなる。休んだら評価が下がる。休んだら、自分が要らない人間だと分かってしまう。そういう人に「休め」とだけ言っても、相手には、席を取り上げると言っているようにしか聞こえない。
あの人が何を失うと思っているのか。それを知らなければ、押しても救えない。
「ありがとうございます、隊長。……あなたに聞いてよかったです」
隊長は、少し驚いた顔をして、それから目を逸らした。
「殿下、ちゃんと前を見て歩いてください。石畳が崩れています」
カーヤが後ろで「照れてる」と呟き、ネーレが「しっ」とそれを止めた。
◇
丘を半分ほど下ったところで、後ろから、ぱたぱたと小さな足音が追いかけてきた。
振り返ると、ロミーだった。下働きの灰色の服のまま、頭巾をずり落としそうになりながら走ってくる。大神殿を抜け出してきたのだ。
「ロミーさん。抜け出して大丈夫なんですか」
「水汲みだって、言ってきました」
ロミーは息を切らして、手に提げた空の桶を振ってみせた。それから周りを見回して、誰もいないのを確かめると、背伸びをして俺の耳元に顔を寄せた。
小さな声だった。
「聖女さまは、休むと、神さまの加護がなくなるって、大司教さまに言われてるんです」




