大神殿の門
大神殿は、王都の東の丘の上にあった。
白い石の壁が丘の頂をぐるりと囲み、その奥に、天に向かって尖った塔がいくつも立っている。誓いの神ヴェルダの家。王都の誓約は、どれもここの神官の前で結ばれる。騎士団の誓約も、厨房の見習いの誓約も、トビアスの誓約も。
丘を登る道の途中で、道が二つに分かれていた。
広い石畳の道は、正門へ続いている。その道に、馬車が列をなしていた。紋章付きの立派な馬車ばかりだ。正門の前には小さな屋台が出ていて、神官が札を売っていた。
「癒しの寄進の札でございます。札の色で、聖女様の癒しを受けられる順が決まります」
金色の札を買った貴族の従者が、馬車へ駆け戻っていく。
細い土の道は、丘の脇の小さな門へ続いていた。そちらにも、列があった。馬車ではなく、人の列だ。足を引きずる老人。熱で赤い顔の子どもを抱いた母親。担架に寝かされた男。誰も札を持っていない。
脇の門の前で、神官が一人、列の先頭の老人に首を振っていた。
「今日の癒しは、もう札の方々で埋まっております。明日、またおいでなさい」
老人は何も言わずに、列を離れていった。昨日も同じことを言われたのだろう、という歩き方だった。
ヴェレーナ隊長が、俺の隣で拳を握るのが分かった。この人の村の者も、ここで三日待って帰されたのだ。
書庫で読んだ大神殿の古い記録には、聖女の誓願の言葉が写してあった。癒しを求める者を、拒まず。
拒まず、と誓わせておいて、門の前で札の色で並べ替え、札のない者を帰している。誰を先にするか、誰を帰すかを決めているのは、神ではない。この門の前の神官で、その上の大司教だ。
前世の言葉で言えば、仕事の割り振りを決めている者が、雇い主だ。神の名がどこに書いてあっても、そこは変わらない。
俺はそれを、帳面に一行だけ書いた。
◇
脇の門をくぐろうとすると、門の陰から小さな影が飛び出してきた。
まだ幼さの残る、痩せた少女だった。灰色の下働きの服に、頭巾。手が、洗い物で赤くひび割れている。
「か、かんさつしさま、ですか」
「そうです。ロミーさんですか」
少女は、目を丸くした。それから、ぶんぶんと首を縦に振った。
「来てくれた。本当に、来てくれた」
ロミーは周りを見回し、それから俺たちを手招きした。
「こっちです。正面から入ると、大司教さまに見つかります。聖女さまは、こっち」
ロミーに連れられて、下働きの通る裏の回廊を抜けた。白い石の廊下は冷たく、香の匂いがこもっている。カーヤが窮屈そうに肩をすくめ、ネーレが高い天井をぽかんと見上げ、ミーケは短剣を隠した外套の前をぎゅっと握っていた。
回廊の突き当たりに、厚い幕が下がっていた。幕の向こうから、人の声と、低い祈りの声が聞こえる。
「ここです」
ロミーが、幕の端を、ほんの少しだけめくった。
◇
幕の向こうは、広い癒しの間だった。
高い窓から光が差し込み、白い床に、寝台がいくつも並んでいる。寝台の上には、絹の寝間着を着た貴族たちが横たわっていた。金色の札を手に持ったまま。その寝台の間を、一人の少女が歩いていた。
白に近い淡い水色の髪を、長く背中に垂らしている。白い聖女の衣は、裾が汚れていた。
聖女クラーラだった。
クラーラは、寝台の一つの前で立ち止まり、横たわる貴族の胸に手をかざした。掌から、柔らかい光がこぼれる。貴族が、満足そうに息を吐いた。
クラーラは、次の寝台へ歩こうとして、よろめいた。
膝が折れて、床に手をついた。
誰も、駆け寄らなかった。寝台の貴族たちは、自分の番を待って目を閉じている。脇に控えた神官たちは、祈りの声を止めもしない。
クラーラは、床に手をついたまま、しばらく動かなかった。それから、寝台の縁を掴んで、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がって、次の寝台の前で、また手をかざした。
その顔が、幕の隙間から見えた。
目の下の隈は、ヴェレーナ隊長のものより、ずっと深かった。三晩眠っていなかったミーケよりも、帳面を二冊付け続けたトビアスよりも、深い。いつから眠っていないのか、見当もつかない色だった。
隣で、隊長が息を呑んだ。
「……殿下」
「はい」
俺は、首の銀印に手を触れた。
見てしまった。
「これはこれは、監察使殿下」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、回廊に、白い髭の老人が立っていた。白と金の法衣。太い指に、金の指輪。後ろに、若い神官を何人も従えている。
「大司教の、グレゴールでございます」
老人は、にこやかに頭を下げた。
「祝福の儀は、明日の朝とお伝えしたはずでございますが。お急ぎのご様子ですな。それも、脇の門から、下働きの者の案内で」
ロミーが、俺の背中に隠れた。
「せっかくお越しになったのですから、ここで祝福を授けましょう」
大司教は、手を軽く上げた。神官の一人が香炉を揺らし、祈りの言葉を唱え始める。大司教は、その祈りに合わせるように、俺の額に指先で触れた。
「誓いの神ヴェルダの御名において、監察使殿下に、祝福を」
それから、指を離して、穏やかに言った。
「ここは神の家です、殿下。神への誓いに、王の印は届きませぬ。二百年前の監察使殿も、それをよくご存じでございました。お若い殿下には、まだお分かりにならぬことでしょうが」
「届くかどうかは、確かめてから決めます」
俺はそう答えて、幕をくぐった。
大司教が何か言うより早く、ヴェレーナ隊長が、俺と大司教の間に半歩出た。剣は抜かない。ここでは抜けない。それでも、そこに立った。
◇
癒しの間の白い床を歩いて、俺はクラーラの前に立った。
クラーラは、手をかざしかけたまま、俺を見た。琥珀色の瞳が、焦点を合わせるのに時間がかかっていた。
「……どなた、ですか」
「監察使のセオドリクです」
俺は、彼女の正面に立って、少しだけ身を屈めた。
「最後に眠ったのはいつですか」
クラーラは、すぐには答えなかった。
答えを探しているのではなかった。思い出そうとして、思い出せない顔だった。
それで十分だった。
俺は首から銀印を外し、彼女の右の手首へ伸ばした。袖の下に、銀の細い紋が見える。誓約の紋とは少し違う形の、聖女の誓願の紋だ。
印が、紋に触れる前だった。
クラーラが、手を引いた。
手首を胸に抱き込むようにして、俺から身を引いた。そして、かすれた声で、はっきりと言った。
「やめてください」
琥珀色の目が、怯えていた。俺ではなく、何か別のものに。
「私は、休みたくなんてありません」
お読みいただきありがとうございます。三年間眠らせてもらえなかった第九中隊は、ようやく夜を取り戻し、騎士団長は玉座の前で職を解かれました。ここで第1章が完結です。次は、眠らない聖女と大神殿へ。第2章も続けて投稿します。ここまで楽しんでいただけたら、ブックマークと、下の☆での評価で応援してもらえると嬉しいです。




