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訴えの箱

 手紙は、全部で百通を超えていた。


 数えたのはヴェレーナ隊長だ。俺が床の山を見て呆然としている間に、隊長は黙って手紙を拾い集め、執務室の机の上に、出どころごとに分けて積み直していた。護衛の範囲がまた一つ広がった。


「王都の中から来たものと、外から来たもの。字が書ける者のものと、代書屋に書かせたもの。分けておきました」


「……ありがとうございます」


「眠ってからお読みください」


「朝です。眠ってきました」


 隊長は、俺の目の下をじっと見て、それから小さく頷いた。昨夜は、本当に眠った。蝋燭が足りなかったからだ。


  ◇


 読み始めると、止まらなかった。


 王都の冒険者の組合に属する若い冒険者から。組合と結んだ誓約で、依頼の報酬の取り分を組合長が勝手に決める。怪我をしても、組合の命じる依頼を断れない。断れば紋が焼ける。


 王宮の厨房の見習い料理人から。朝の竈に火を入れるのが夜明け前、最後の鍋を洗い終えるのが夜中。料理長の機嫌で、眠る時間が決まる。


 王都の西の織物の工房の娘から。誓約の年季が満ちる前に、親方が「借りがある」と言って、年季を勝手に書き足した。


 そして、王都から遠い、銀山の鉱夫の家族から。代書屋の整った字で、坑道の奥で夜も昼もなく掘らされ、崩れた坑道に入れと命じられて、夫が戻らなかったと書いてあった。銀山のある領地の名を見て、手が止まった。


 ディートリヒ兄上の領地だった。


「……兄上の」


 隊長が、手紙の山の向こうで、顔を上げた。


 次は、もっと高い壁だよ。兄上は、そう言った。この手紙のことを知っていたのだろうか。知らなくても、いずれ俺がここへ行き着くと分かっていたのかもしれない。


 どの手紙にも、同じ言葉が出てきた。誓約だから。名誉だから。務めだから。神への奉仕だから。前世でも、言葉が違うだけで同じだった。やりがいだから。みんなやっているから。会社のためだから。


 全部に、今日行くことはできない。


 前世の監督署でも、申告は山のように来た。全部を一度には見られない。だから、まず、一番命に近いものから行く。今夜にも誰かが倒れそうなもの。そこから順に行く。


 銀山は遠い。王都から馬で何日もかかり、兄上の領地に監察使が立ち入るなら、それなりの備えが要る。今日のうちには行けない。


 厨房なら、今日行ける。


  ◇


 王宮の厨房への立ち入りは、昼の鐘の前に済んだ。


 予告なしに戸を開けると、湯気と煙の中で、料理長が見習いを怒鳴りつけていた。俺の首の銀印を見て、料理長の顔色が変わった。騎士団長が職を解かれた話は、王宮の厨房にまで届いていたらしい。


 見習いたちを一人ずつ裏口に呼んで、最後に眠ったのはいつかを聞いた。答えはどれも、灰沼の前の第九中隊と同じくらい酷かった。料理長に勤めの割り振りを書かせ、二組に分けて交代で休むように言い、見習いの一人の手首に印を当てて、料理長の「眠るのは仕込みが全部済んでからだ」という命令を一つ消した。


 料理長は、銀印の白い光を見て、何も言わずに頷いた。


 騎士団のときのような大騒ぎにはならなかった。王宮の中で働く者にとって、監察使はもう、閑職の飾りではなくなっていた。


  ◇


 執務室に戻ると、隊長が一通の手紙を、俺の前に置いた。


「これは、殿下が読まれたほうがいいと思って、別にしておきました」


 たどたどしい字だった。代書屋に頼む金もない子が、自分で書いたのだと分かる字。紙は、どこかの帳面の端を破ったものだった。


 大神殿の、下働きの少女からだった。


  かんさつしさまへ


  聖女さまが、もうずっとねむっていません。朝も夜も、びょうきの人に手をかざしています。たおれても、また起きて、手をかざします。


  大司教さまは、聖女さまのちかいは神さまへのちかいだから、だれにも止められないと言います。


  でも、聖女さまは、ときどき、だれもいないところでないています。


  ロミー


 読み終えて、しばらく顔を上げられなかった。


「隊長。大神殿の聖女のことを、何か知っていますか」


「王都の者なら、誰でも名前は知っています。聖女クラーラ様。王国でただ一人の、癒しの加護の聖女です」


 隊長は、少し眉を寄せた。


「大神殿の正門では、癒しの寄進の札が売られています。札を買える者から先に、聖女様の癒しを受けられる。札を買えない者は、脇の門で待つ。……私の村の者も、一度、脇の門で三日待って、帰されたことがあります」


  ◇


 書庫で、エメリヒと聖女の誓願を調べた。


「聖女の誓願は、大神殿で立てられます。癒しの加護を持つ者が、神に仕える誓いとして」


 エメリヒは、古い大神殿の記録の写しを広げながら言った。


「問題は、その誓いの主が、神なのか、大神殿なのか、でございますな。誓約の勅が効くのは、人と人との誓約です。神と人との誓いに、王の印が届くのかどうか。誰も確かめたことがございません」


「二百年前の監察使は」


「四代目の王の弟君も、大神殿の門だけはくぐれなかったと、記録にございます。時の大司教が、神の家に王の印は入れぬと言って、門を閉ざした」


 エメリヒは、写しの一行を指でなぞった。


「殿下。大神殿は、騎士団とは違いますぞ。誓約そのものに立ち会う家です。王都の誓約は、どれも大神殿の神官の前で結ばれる。大神殿を敵に回せば、殿下の申し立てに、神官が手を貸さなくなるやもしれません」


「行きます」


 俺は言った。


 聖女は、今夜にも倒れるかもしれない。倒れても、また起きて、手をかざす。そう書いてあった。


「今日のうちに、と言いたいところですが」


 大神殿の門は、日が落ちると閉じる。夜に開くのは、正門の脇の小さな通用口だけで、夜の札を持った客しか通さない。ヴェレーナ隊長が、村の者から聞いた話としてそう教えてくれた。夜に門を叩けば、大司教にすぐ知れる。知れれば、聖女は奥へ隠される。脇の門は、夜明けとともに開き、病人の列の後ろに並べば、誰にも止められずに中を見られる。


「明日の朝、脇の門が開くときに行きます」


 それを聞いていたヴェレーナ隊長が、すぐに言った。


「では、第九から四人、護衛に付けます。私と、カーヤと、ネーレと、ミーケ。大神殿の中では剣を抜けませんので、外套の下に短剣だけ。正門ではなく、脇の門から入ります。病人の列の様子が見えますから」


 段取りが、もう全部組み上がっていた。


  ◇


 夕方、執務室の戸を叩く音がした。


 開けると、白い法衣の若い神官が、穏やかな笑顔で立っていた。


「監察使殿下。大司教グレゴール猊下より、お言葉を預かってまいりました」


 神官は、恭しく頭を下げた。


「猊下は、新しく監察使となられた殿下に、ぜひ神の祝福を授けたいと仰せです。明後日の朝、大神殿の祝福の儀に、お越しくださいますように」


 俺が明日の朝に行くと決めたのは、ついさっきだ。この神官は、それを知らずに来たのだろうか。


 神官は、笑顔のまま、もう一言付け加えた。


「なお、神の家では、王の印は眠っておられるのが習いでございます」

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