監察使の護衛
第九中隊の宴は、詰め所の前の空き地で開かれた。
古い厩を直した詰め所には、全員で宴を開く広さがない。それで、空き地に兵営の古い長机を並べ、篝火を焚き、市場で買ってきた肉を串に刺して焼いた。白いパンが、籠にいくつも積み上がっている。積み上げたのはネーレだ。
「見てください殿下、白いパンの山です!」
「すごい山ですね」
「三年分です!」
ネーレは胸を張って、山の一番上から一つ取って、俺に押しつけた。
カーヤが、どこから持ってきたのか分からない酒樽の栓を抜いて、歌い始めた。南の村の、収穫の歌らしい。音程は外れていたが、声だけは兵営の端まで届いた。何人かが一緒に歌い出し、何人かが手を叩き、本隊の兵舎の窓から、騎士が何人か顔を出して笑っていた。
ハルトムートが、本隊の騎士を連れて、肉の串を差し入れに来た。灰沼で泥から引き上げられた騎士たちだった。第九中隊の女騎士たちは最初こそ目を丸くしていたが、カーヤが「座れ座れ」と長机に引っ張り込んで、すぐに一緒に飲み始めた。
この三年間、こんな夜は一度もなかったのだろう。
◇
篝火の端で肉を齧っていると、ミーケがおずおずと寄ってきた。
「あの、殿下」
「はい」
「回廊で、助けていただいて、ありがとうございました。ちゃんとお礼を言っていなかったので」
亜麻色のおさげの見習いは、深々と頭を下げた。あの日、立ったまま眠って崩れた子だ。今はもう、頬に血の色が戻っている。
「私、あのとき、騎士を辞めなきゃいけないと思ったんです。立てなくて、紋が焼けて、こんな騎士は要らないって言われると思って」
「辞めたいですか」
「いいえ」
ミーケは、首を振った。
「辞めたくないです。隊長みたいになりたいです。だから、ちゃんと寝ます」
そう言ってから、自分で言ったことが可笑しかったのか、照れたように笑って、また長机のほうへ走っていった。
入れ替わりに、ヴェレーナ隊長が隣に来た。酒の杯を二つ持っていて、一つを俺に差し出す。俺は十六になったばかりだが、この国では成人の儀を済ませれば酒を飲んでいい。
「殿下に、一つ伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、監察使になりたかったのですか」
隊長は、篝火を見ながら言った。
「回廊で、殿下は、閑職を押しつけられた方の顔をしておられませんでした。ずっと欲しかったものを手に入れた方の顔でした」
見られていたのか、と思った。あのときの隊長は、三晩眠っていない隈の下から、俺を見ていたのだ。
前世のことは、話せない。話しても、通じない。
「昔、間に合わなかったことがあるんです」
俺は、杯の縁を指でなぞりながら言った。
「働きすぎて倒れそうな人がいると分かっていて、確実に止められる日を待って、その前の晩に、その人は倒れました。それから、見てしまったら、その日のうちに行くことにしています。行ける役目が、欲しかったんです」
隊長は、しばらく何も言わなかった。
それから、杯を俺の杯に、こつんと当てた。
「では、殿下が見てしまったときは、私も、その日のうちに参ります」
◇
宴の途中で、団長代理が顔を出した。
白い髭の老騎士は、篝火の前で咳払いをして、第九中隊の女騎士たちを見回した。それから、ヴェレーナ隊長を手招きした。
「アーレンス隊長。先日の願いの件だが」
「はい」
「許す。騎士団の誓約にある王族の護衛として、第九中隊を、監察使殿下の護衛に付ける。殿下が王宮の外へ出られるとき、立ち入りに行かれるときは、第九が付け」
隊長の顔が、篝火の中でぱっと明るくなった。それから、すぐにいつもの真面目な顔に戻って、背筋を伸ばした。
「承りました」
俺は、肉の串を持ったまま、固まっていた。
「……隊長。いつ、そんな願いを」
「評定の翌日です」
隊長は、しれっと答えた。
「殿下には近衛が付いておられません。騎士団の誓約には、王族の護衛は騎士の務めとあります。務めを果たすのに、殿下の許しは要らないと思いました」
後ろで、カーヤが噴き出した。
◇
それからの隊長は、護衛というものの範囲を、俺が思っていたよりずっと広く取った。
朝、北翼の部屋を出ると、もう戸口に立っている。俺の一日の予定を、俺より正確に覚えている。書庫に何刻いて、どこへ立ち入り、誰に会うか。昼になると、俺がまだ何も食べていないのを見計らったように、兵営の厨房から包んできた昼飯を差し出す。
夜になると、部屋の蝋燭を勝手に減らしていく。
「隊長、蝋燭が足りないのですが」
「足りています。眠るには」
「書き物をするには、足りません」
「眠ってください」
取りつく島がなかった。
「隊長。それ、殿下の侍従の仕事だろ」
見かねたカーヤが言ったが、隊長は「侍従殿は、殿下が夜更かしをなさっても止めない」とだけ答えた。年老いた侍従は、その横で申し訳なさそうに頭を下げていた。
護衛の人は大変だな、と俺は思った。王族の護衛というのは、こんなことまでしなければならないのか。近衛が付いている兄上たちの近衛も、毎晩蝋燭を減らしに来るのだろうか。
カーヤとネーレが、俺の顔を見て、なぜか同時に大きなため息をついた。
◇
宴の翌日、母上が詰め所に来た。
前触れもなく、侍女も連れずに、一人で兵営の門をくぐってきたらしい。門番が慌てて詰め所まで走ってきて、俺を呼んだ。
「母上。こんなところに」
「こんなところって、あなたが毎日来ているところでしょう」
母上は詰め所の中を見回して、それから、戸口に立っていたヴェレーナ隊長の前に歩いていった。
「あなたが、アーレンス隊長?」
「は、はい。第九中隊の」
「セオを、寝かせてくれてありがとう」
母上は、隊長の両手を取って、ぎゅっと握った。
「この子、昔から、言っても寝ないの。書庫から帰ってこない日もあって。あなたが蝋燭を取り上げてくれたって聞いて、本当に嬉しかった」
隊長は、真っ赤になって固まった。
背筋はまっすぐなまま、手を握られたまま、瞬きもせずに動かなくなった。大泥牙の首を落とした人が、侍女上がりの側妃に手を握られて、何も言えずにいる。
「……い、いえ。務め、ですので」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
母上は満足そうに頷いて、俺のほうを振り返った。
「いい人ね」
「護衛の方です」
「そう」
母上は、なぜか、カーヤやネーレと同じ顔でため息をついた。
◇
その日の夕方、侍従が一つの知らせを持ってきた。
王宮書庫の隣の、古い物置を片付けて、監察使の執務室に使ってよいという。父上の言葉だった。理由は何も付いていなかった。
物置には、窓が一つと、古い机が一つあった。俺はそこに帳面と勅の写しを運び込み、戸の脇に、訴えを書いた手紙を入れるための木箱を一つ置いた。エメリヒの案だった。
「監察使に何か訴えたい者がいても、王宮の奥まで入ってこられる者は少のうございます。箱を置いて、王宮の門番に届けさせればよろしい」
翌朝、物置の戸を開けると、木箱が手紙で溢れていた。
箱に入りきらなかった手紙が、戸の前の床に、山になって積もっていた。




