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懲罰房の夜

「行きます」


 俺は帳面を閉じて、立ち上がった。


 トビアスに言った。団長があなたを罰したら、その罰の命令を消しに行く。今日のうちに。


 今日は、まだ終わっていない。


「第九、外套を」


 ヴェレーナ隊長が言うと、詰め所の中の女騎士たちが、黙って立ち上がった。今夜の夜番の組を除いて、全員だった。カーヤが槍を担ぎ、ネーレが手袋を嵌め、ミーケが一番後ろで木剣を握りしめた。


「皆さんは来なくても」


「殿下」


 隊長が、俺の言葉を遮った。


「騎士団の誓約には、王族の護衛は騎士の務めとあります。今夜、殿下が兵営の懲罰房へ行かれるなら、それは私たちの務めです」


 それから、少しだけ声を落とした。


「……それに、主計官は、私たちの扶持の本当の額を、三年間、一枚ずつ書き留めていてくれた人です」


 トビアスの妻が、椅子の上で、両手で顔を覆った。


  ◇


 懲罰房は、兵営の北の端の、窓のない石造りの小屋だった。


 戸の前に、篝火が二つ。その間に、団長の副官と、団長付きの騎士が数人立っていた。俺たちの角灯の明かりが近づくと、副官が一歩前に出た。


「止まられよ。ここは騎士団の懲罰房です。団長の命で、どなたもお通しできません」


「監察使です。中にいる主計官に、会わせてください」


「殿下でも、お通しできません」


「誓約の勅の最後の行を、ご存じですか」


 副官は、黙った。


「監察使の立ち入りを拒む者は、この勅に背く者として、王の裁きを受ける」


 俺は首の銀印に手を触れた。


「三日後に、評定があります。そこで、団長と一緒に裁かれたいのなら、そのまま立っていてください」


 副官の顔が、篝火の中で引きつった。


 それでも、副官は動かなかった。団長の命に背けば、手首が焼ける。勅に背けば、王に裁かれる。どちらを取るか迷って、目の前の痛みのほうを怖がる顔だった。前世でも、こういう顔はよく見た。会社のために嘘をつく中間の人間の顔だ。


「……団長の命です」


 副官が、剣の柄に手をかけた。


 その瞬間、ヴェレーナ隊長が、俺の前に出た。


 何も言わなかった。剣も抜かなかった。ただ、俺と副官の間に、黙って立った。


 その後ろに、第九中隊が並んだ。カーヤが槍の石突きを、どん、と地面に突いた。


 団長付きの騎士たちが、顔を見合わせた。


 彼らは本隊の騎士だった。灰沼の夜、泥の上で崩れたところを、第九中隊に丘へ引き上げられた騎士たちだった。大泥牙の首が落ちるのを、泥の中から見ていた騎士たちだった。


 一人が、剣の柄から手を離した。


 もう一人が、黙って一歩、横へずれた。


 その後ろの騎士が、戸の閂に手をかけた。


 袖の下で、騎士の手首が赤く光った。団長の命に背いたのだ。騎士は歯を食いしばったまま、閂を外し、戸を押し開けて、一歩下がった。


 赤い光は、戸が開ききってから、ゆっくりと引いていった。どなたも通すな、という命令は、通ってしまった後には、もう背きようがない。


「お、おい」


 副官が振り返って声を上げたが、閂を外した騎士は副官の顔を見ずに言った。


「灰沼で、俺は第九に泥から引き上げられた。この人たちの前に、剣は向けられません」


 副官は、口の中で何か言いかけて、それきり何も言わなかった。


  ◇


 懲罰房の中は、湿った石の匂いがした。


 壁の燭台に、蝋燭が一本。その下の木の椅子に、トビアスが座らされていた。机の上に、紙が一枚とペンが置いてある。紙には、副官の字で、文が書いてあった。


 ――私、トビアス・ノイマンは、主計の帳面を自ら書き誤り、それを隠すために偽りの控えを作った。


 下に、名前を書く欄が空けてある。


 トビアスは、右の手首を左手で押さえて、震えていた。誓約紋が、赤く光っている。


「書け、と言われて」


 トビアスは、俺を見上げて、かすれた声で言った。


「書かないと、手首が。でも、書いたら、本当のことが、どこにもなくなる。だから、書けなくて」


 昼から、ずっとこうしていたのだ。眠らせてもらえず、書けと言われ続け、書かずに手首を焼かれ続けた。


 俺は、トビアスの前に膝をついた。


「遅くなりました。トビアスさん」


 銀印を、彼の手首に当てた。熱い。


「監察使として申し立てます。この者は、昨日、監察使に問われて、主計の本当の払いを答えました。その者に、答えを偽りだと書けと命じ、眠らせずに手首を焼くことは、監察使に答えた者を罰することです。誓約の勅の四行目に背きます」


 銀印が、熱を持った。


 白い光が紋の上を走り、トビアスの手首の赤い光が、すっと消えた。


 トビアスは、自分の手首を見つめた。それから、机の上の紙を見た。


 俺はその紙を取り上げて、二つに畳んで、帳面に挟んだ。


「これは、評定に出します。誰が、誰に、何を書かせようとしたか。副官の字で書いてありますから」


 戸口で、副官が息を呑む音がした。


 トビアスに肩を貸して懲罰房を出ると、夜風が冷たかった。副官と団長付きの騎士たちは、もう篝火の前にいなかった。


 並んで歩きながら、ヴェレーナ隊長が小さな声で言った。


「殿下。さっきは、出過ぎた真似を」


「助かりました」


 本当にそう思った。俺一人なら、副官は剣を抜いていたかもしれない。抜かれていたら、俺には止める腕がない。


「あなたが前に立ってくれたので、剣が抜かれませんでした」


 隊長は、しばらく黙って歩いた。


「……前に立てて、よかったです」


 それだけ言って、隊長は少し歩く速さを上げた。外套の襟から覗く耳が、篝火の名残の明かりで赤く見えた。


 後ろでカーヤが、ネーレに何か耳打ちして、二人でくすくす笑っていた。


  ◇


 トビアスを家まで送り届けたのは、夜も更けてからだった。戸口で待っていた妻と小さな娘が、トビアスに飛びついた。娘は寝間着のまま、裸足だった。


 トビアスは、二人を抱いたまま、俺のほうを振り返った。


「殿下。評定で、話します」


 はっきりした声だった。


「本当のことを。全部」


 兵営に戻ると、第九中隊の詰め所の前に、ハルトムートが立っていた。後ろに、本隊の騎士が何人か並んでいる。懲罰房の前で道を空けた騎士の顔もあった。


「殿下。評定で、俺たちも話します」


 ハルトムートが言った。


「夜の行軍のことも、宴の警護のことも、灰沼で誰が大泥牙の首を落としたかも。本隊の若いのが一人、歩けるかどうか分からないことも」


  ◇


 それから評定までの二日、俺はほとんど眠らなかった。


 トビアスの控えを清書し、本隊の騎士たちの話を一人ずつ確かめ直し、命令書の写しと並べ、副官の書付を頁に貼った。灰沼の夜の記録を、誰が読んでも分かる順に並べ直した。


 評定の朝、詰め所で最後の頁を閉じたとき、窓の外はもう明るかった。


 カーヤが、戸口にもたれて、呆れた顔で俺を見ていた。


「王子様。それ、二晩寝てない顔だよ」


「評定が終わったら寝ます」


「監察使殿下が、王国で一番の違反者だな」


 ヴェレーナ隊長が、何も言わずに、俺の外套を差し出した。隊長の目の下には、もう隈がなかった。


 王宮の鐘が鳴った。


 玉座の間の扉が、開いた。

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