二つの帳面
騎士団の主計の部屋は、本棟の一階の奥にあった。
窓の小さい、紙とインクの匂いのこもった部屋だ。壁際の棚に帳面が並び、机がいくつか。人がいるのは一番奥の机だけで、痩せた男が一人、背中を丸めて座っていた。
予告はしなかった。昼の鐘が鳴ったばかりで、廊下に人はいない。団長は朝から王宮へ出向いていると、ハルトムートが教えてくれていた。
護衛のヴェレーナ隊長は、昼まで休みの組のはずだった。それなのに、俺が兵営の門をくぐると、詰め所の前で待っていた。
「眠りましたか」
「昼まで、と申し上げました。今は昼です」
隊長は涼しい顔で答えた。
俺は主計の部屋の戸を叩いて、開けた。
「監察使のセオドリクです。騎士団の主計の帳面を、見せてください」
机の男が、跳ねるように立ち上がった。椅子が倒れる。まだ若さの残る男で、インクの染みた指が震えていた。
「か、監察使、殿下」
「主計官の方ですか」
「トビアス・ノイマンと、申します。騎士団の主計を、お預かりして、おります」
トビアスの目の下には、濃い隈があった。第九中隊の女騎士たちと同じ色だ。いや、もっと古い。何年もかけて沈着したような色だった。
「第九中隊の扶持と、糧と、夜番の手当の帳面を。この三年分」
「そ、それは」
トビアスは団長室の方角へ目をやって、それから首の銀印を見て、棚から帳面を何冊か抜き出した。抜き出す手が、迷っていなかった。どの棚のどの帳面か、目をつぶっていても分かるのだろう。
机に広げた。
第九中隊の扶持は、正騎士は一人あたり月に銀貨二十五枚。隊長は役の手当つき。夜番の手当は、毎晩、立った人数分。糧は、一人あたり三食分の割り当てが、毎日出ている。そして、どの払いの頁にも、団長の印が押してある。
帳面の上では、第九中隊は騎士団で一番きちんと払われている中隊だった。
「この帳面の払いは、誰が受け取りましたか」
「だ、第九中隊が」
「アーレンス隊長」
俺は、戸口に立っている隊長を振り返った。
「先月の扶持は、いくら受け取りましたか」
「銀貨十四枚です」
隊長は、はっきりと答えた。
「夜番の手当は」
「見たことがありません」
「糧は」
「黒パンと、薄いスープです」
俺はトビアスに向き直った。
「帳面と、受け取った人の話が合いません。帳面の上で払われた額と、実際に渡った額の間に、差があります」
トビアスの顔から、血の気が引いていった。
「その差は、どこへ行ったんですか」
トビアスは答えなかった。答えられない、という顔だった。唇が白くなるまで噛んで、机の縁を握りしめている。
俺は、ヴェレーナ隊長に目で合図した。隊長は頷いて、廊下へ出て、戸を閉めた。外で誰も近づかないように見張るためだ。
部屋には、俺とトビアスの二人だけになった。
◇
「トビアスさん。座ってください」
倒れた椅子を起こして、トビアスを座らせた。俺は、向かいの空いた机の椅子を引いてきて、腰を下ろした。目の高さを同じにする。前世で、聴き取りのときはいつもそうした。
「先に言っておきます。私に答えたことで、あなたが罰せられることはありません。誓約の勅に、そう書いてあります。あなたの主の団長でも、それはできません」
トビアスは、俯いたまま首を振った。
「で、殿下は、ご存じないんです。団長閣下は」
「知っています。灰沼で、第九中隊を捨て駒にしようとした人です」
トビアスの肩が、びくりと揺れた。
「最後に眠ったのは、いつですか」
トビアスが顔を上げた。何を聞かれたのか分からない、という顔をしていた。
「……眠った、のは」
「目の下の隈が、第九中隊の人たちより古いです。何年も、ちゃんと眠っていないでしょう」
トビアスの目が、急に濡れた。
それから、堰が切れたように、話し始めた。
三年前、団長から帳面の付け方を変えろと命じられたこと。第九中隊の払いを正騎士の額で帳面に書き、実際には見習いの額だけを渡すこと。夜番の手当は、帳面にだけ書いて払わないこと。糧は、半分の額で黒パンと玉葱を買うこと。差額は月の終わりに、団長の副官が取りに来ること。
断れなかった。主計官も、団長と誓約を結んでいる。命令に背けば、手首が焼ける。妻と、まだ小さい娘がいる。
「書き換えるたびに、眠れなくなりました」
トビアスは、両手で顔を覆った。
「数字が、嘘をつくのが、嫌なんです。主計の帳面は、本当のことを書くためのものなのに。毎晩、団長閣下にお見せする帳面を付けて、それから、もう一冊を付けて」
「もう一冊」
俺は、静かに聞き返した。
トビアスは、顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。
「……本当の、払いの控えです」
かすれた声だった。
「実際に第九中隊に渡した額を、一枚ずつ。捨てられなかったんです。捨てたら、本当のことがどこにもなくなってしまう気がして」
前世で、こういう人に何人も会った。会社の不正を知っていて、自分の手で嘘の帳簿を付けさせられて、それでも本物の数字だけは捨てられない人。そういう人の机の引き出しの奥には、たいてい、もう一冊ある。
「その控えを、見せてもらえますか」
トビアスは、首を振った。
「も、もし団長閣下に知られたら。妻と、娘が」
俺は、首の銀印を外して、机の上に置いた。それから帳面に挟んでいた勅の写しを開いて、四行目を指で示した。
「監察使に問われて答えた者を、主は罰してはならない」
トビアスが、その行を見た。
「団長があなたを罰したら、団長が勅に背いたことになります。そのときは、私がその罰の命令を、この印で消しに行きます。罰した団長は、王の裁きまで留め置きます。あなたの家族に手を出しても、同じです」
トビアスは、銀印と勅の写しと、俺の顔を、何度も見比べた。
「……殿下は、本当に、来てくださいますか」
「行きます。今日のうちに」
トビアスは長いこと黙っていた。
それから、のろのろと立ち上がり、自分の机の下にしゃがみこんだ。床板の一枚の端に爪をかけて、持ち上げる。その下の暗がりから、紐で縛った薄い帳面の束を取り出した。
机の上に置いた手が、震えていた。
俺は、紐をほどいて、一枚目をめくった。
三年前の秋の日付。第九中隊、扶持、一人あたり銀貨十四枚。夜番の手当、なし。糧、黒パンと玉葱のスープ、割り当ての半分。
次の頁も、その次の頁も、同じだった。三年分、一月も欠けずに、小さな几帳面な字で、本当のことが書いてあった。
「ありがとうございます、トビアスさん」
俺は控えの束を閉じて、胸に抱えた。
「今夜は、家に帰って、眠ってください。団長に見せる帳面のことは、私が片を付けます」
トビアスは、泣き笑いのような顔をした。
◇
主計の部屋を出ると、廊下の先にヴェレーナ隊長が立っていた。
その向こう、廊下の角のところに、もう一人いた。黒い軍服の、貴族の騎士。団長の副官だ。団長室で、書き直した記録を持ってきた男。
副官は、俺の胸の控えの束を見た。
それから、何も言わずに踵を返し、足早に廊下の奥へ消えていった。




