扶持の額
「銀貨十四枚です」
本棟の角の暗がりで、ヴェレーナ隊長は言った。
「毎月。三年前から、ずっと同じ額です。隊長になった年からです」
俺は、すぐには返事ができなかった。
騎士団の古い規則の写しは、今も俺の帳面に挟んである。見習い騎士の扶持は、月に銀貨十四枚。正騎士は二十五枚。隊長には、それに役の手当が付く。
隊長になった年から、見習いの額。灰沼で大泥牙の首を落とした腕の人が、三年間、騎士団に入ったばかりの見習いと同じ額で働いていた。
「規則では、正騎士の扶持は銀貨二十五枚です」
「女騎士は、見習い扱いだと」
隊長は、淡々と言った。
「三年前に、団長が。女は数合わせだから、扶持も見習いの額でいい、と。それまでは正騎士の額をいただいていたので、おかしいとは思いました。でも、そういうものだと言われれば、そういうものだと思うしかありませんでした」
「規則に、そんな行はありません」
「……そう、なのですか」
隊長は、少しだけ目を見開いた。それから、困ったように視線を落とした。
「明日、南の門へ行きます。妹たちへの仕送りを送る日なので」
「付いていってもいいですか」
「殿下が、ですか」
「護衛される側として」
隊長は、ほんの少し口元を緩めた。
◇
王都の南の門のそばに、手紙と荷物と金を運ぶ窓口がある。地方の村へ向かう荷馬車が、毎朝ここから出る。
朝の窓口には、仕送りを送る人の列ができていた。兵士、職人の弟子、屋敷の使用人。誓約を結んで王都で働き、稼ぎを故郷へ送る人たちだ。
ヴェレーナ隊長は、列に並んで、小さな革袋を窓口に差し出した。南の村の、母と二人の妹へ。
袋の中身は、扶持のほとんどだった。
残ったわずかな銀貨で、隊長は一月を暮らしている。騎士団の兵営で寝床と糧は出るが、その糧が黒パンと薄いスープだった。
窓口の係が、隊長に封書を一通渡した。妹たちからの返事だという。
隊長は、列を離れてから、門の脇の石段に腰を下ろして封を切った。俺は少し離れて立っていた。読むのを邪魔したくなかった。
読み終えた隊長が、手紙を俺に差し出した。
「……殿下に、見ていただきたい行があります」
拙い字の手紙だった。下の妹のほうが書いたらしい。母の具合のこと、村の祭りのこと、上の妹の縁談のこと。最後の行に、少し大きな字で、こう書いてあった。
お姉ちゃん、ちゃんと寝てる?
隊長が、手紙を返してもらいながら、小さく笑った。
「毎回、書いてくるんです。毎回、寝ていると返事をしていました。……今度は、本当のことが書けます」
俺は、何も言えなかった。
腹の底で、何かが静かに煮えていた。
見習いの額で三年。夜番の手当は一度も出ていない。糧は割り当ての半分も使われていない。それを、隊の全員の分、三年かそれ以上。頭の中で、勝手に勘定が始まりかけた。
やめた。
数えるのは、帳面の前でいい。ここで数えても、この人の三年は一枚も戻ってこない。
「アーレンス隊長。差額は、必ず取り戻します」
隊長は、少し驚いた顔で俺を見上げた。
「差額、ですか」
「あなたが受け取るはずだった扶持と、受け取った扶持の差です。あなたの分も、隊の全員の分も」
「……そんなことが、できるのですか」
「できます。誰かが、それを懐に入れていなければ、そもそも差は出ません。入れた人がいるなら、その人から戻させます」
隊長はしばらく黙っていた。それから、膝の上の手紙を、大事そうに畳んだ。
◇
その夜、俺は王宮の北翼の自分の部屋で、帳面を写していた。
灰沼の夜の記録。本隊の聴き取り。命令書の写しの中身。第九中隊の誓約書の定め。扶持の規則。全部を、一冊の綺麗な帳面にまとめ直す。裁きの場に出すときに、誰が読んでも分かるように。
前世でも、送検の前の夜はこうだった。書類を揃えるのは、何度やっても夜中までかかる。
蝋燭が燃え尽きて、新しい一本に火を移したとき、戸を叩く音がした。
返事をする前に、戸が開いた。
ヴェレーナ隊長だった。夕方、王宮の門まで俺を送ったあと、兵営に戻ったはずだった。
「殿下」
隊長は部屋に入ってくると、机の前に立ち、黙って俺の手から帳面を取り上げた。それから、蝋燭を手に取って、ふっと吹き消した。
部屋が暗くなった。窓から月の光だけが入ってくる。
「……アーレンス隊長?」
「殿下が、灰沼から一度も眠っておられないことは、隊の者が皆知っています」
暗がりの中で、隊長の声は静かだった。
「ネーレが、毎晩、北翼の窓に灯りが点いていると言っていました。カーヤが、殿下の目の下が私と同じ色になってきたと」
言い返そうとして、言い返す言葉がなかった。
灰沼の前は書庫にいた。灰沼の夜は丘に立っていた。戻ってからは、この机にいた。
隊長は、取り上げた帳面を胸に抱えたまま、少しだけ首を傾げた。
「殿下は、私に眠れと言ってくださいました。四日、ちゃんと眠れと。……監察使の命令が、要りますか」
負けた。
俺は椅子から立ち上がり、寝台へ向かった。隊長は、帳面を机の上にそっと戻し、戸口のところで立ち止まった。
「朝まで、ここに立っています。殿下が起き出して蝋燭を点けないように」
「それでは、あなたが眠れません」
「今夜は、私の番ではありません。でも、明日の昼まで休みの組です。昼に眠ります」
交代表を、そのまま返された。
寝台に横になると、驚くほどすぐに瞼が重くなった。
最後に朝まで眠ったのは、いつだっただろう。この世界に生まれてからは、書庫に通い始めてからずっと夜更かしだった。前世の最後の何年かは、眠った記憶がほとんどない。
思い出す前に、眠っていた。
◇
目が覚めると、窓の外が明るかった。
戸口に、隊長の姿はもうなかった。机の上に、帳面と、まだ温かいパンが一つ置いてある。
頭が、驚くほど軽かった。昨夜まで、帳面の頁をどう並べれば団長の嘘が一番はっきり見えるか、何時間考えても分からなかった。それが、パンを齧っているうちに、あっけなく見えた。
主計の帳面だ。団長室の記録と、第九中隊が実際に受け取った額。その二つを並べれば、間に差がある。差があれば、どこかにそれを埋めた帳面がある。
「今日は、主計へ行きます」
誰もいない部屋で、俺は声に出して言った。




