本隊の夜
本隊の兵舎に立ち入ったのは、その日の夜だった。
予告はしなかった。団長に知らせれば、本隊の記録も一晩で「整う」。灰沼の前に団長室で見た、インクの乾いていない帳面のように。
護衛には、ヴェレーナ隊長が付いた。
「殿下が夜に兵営を歩かれるなら、私が付きます」
灰沼から戻ってから、隊長はそれを当たり前のように言うようになった。断る理由も思いつかないので、そのままにしている。
本隊の兵舎は、第九中隊の詰め所とは比べものにならないほど立派だった。石造りの二階建てで、寝台が並び、暖炉がある。ただ、中の空気は、灰沼の泥の上と同じくらい重かった。寝台に横になっている騎士たちの多くが、眠っているのか起きているのか分からない顔をしている。灰沼で噛まれた若い騎士が、包帯を巻いた足を投げ出して座っていた。
戸口に立った俺を見て、何人かが身を起こした。首の銀印を見て、顔を見合わせる。
「監察使だ」
「騎士団を潰しに来た王子だろ」
「馬鹿、灰沼で第九を眠らせた王子だよ」
ひそひそ声が、兵舎の中を走った。
俺は戸口で、いつもと同じことを言った。
「監察使のセオドリクです。皆さんの勤めについて、話を聞かせてください。先に言っておきます。私に答えたことで、罰せられることはありません。誓約の勅にそう書いてあります。団長でも、それはできません」
誰も動かなかった。
当然だ。第九中隊の女騎士たちが答えたのは、彼女たちにもう失うものが少なかったからでもある。本隊の騎士は、貴族の次男や三男が多い。団長に睨まれれば、家にまで響く。
暖炉のそばの寝台から、身なりのいい騎士が一人、身を起こした。
「殿下。ここは本隊の兵舎です。団長の許しもなく、夜に女を連れて入ってこられるのは、いかがなものか。このこと、団長にご報告いたしますよ」
女、とはヴェレーナ隊長のことだ。隊長は眉一つ動かさなかった。
「どうぞ、報告してください」
俺は答えた。
「監察使の立ち入りに、団長の許しは要りません。それから、もしあなたが報告したことで、ここで私に話した誰かが団長に罰されたら、罰した団長が勅に背いたことになります。そのときは私が、その罰の命令を消しに行きます。罰した団長は、王の裁きまで留め置きます」
騎士は鼻白んで、毛布をかぶって背を向けた。周りの何人かが、小さく息を吐くのが聞こえた。笑いをこらえたような息だった。
奥の寝台から、杖をついた男が立ち上がった。
「俺から話します」
ハルトムートだった。
◇
聴き取りは、兵舎の裏の物置を借りて、一人ずつやった。
ハルトムートが話し終えて出ていくと、しばらくして、別の騎士が物置の戸を叩いた。それが終わると、また次が来た。最初の一人が話すと、次の一人が話せるようになる。前世でも、そうだった。
ヴェレーナ隊長は物置の戸の外に立って、誰も近づかないように見張っていた。聴き取りの中身が外に漏れないように、戸から少し離れて立つ。俺が頼んだわけではない。隊長は、何も言わずにそうしていた。
本隊の騎士たちの話は、少しずつ違って、全体では一つの形になった。
この三年、本隊の夜番は第九中隊に回されていた。そのかわり、本隊の夜は、別のことに使われていた。団長の命で、夜を通して王都の外を歩く行軍。王宮の式典の前の、夜更けまでの稽古。そして、団長の屋敷で開かれる宴の警護。
「夜通し歩くのは、何のためですか」
俺は、何人目かに来た騎士に聞いた。若い、真面目そうな男だった。
「夜明けに旗を立てるためです」
「旗を立てると、どうなるんですか」
「……王都の北の丘から、見えます」
「誰が見るんですか」
騎士は、少し黙った。
「団長と。それから、第二王子殿下が、丘の上の離宮から、ご覧になると」
「夜通し歩いた後、旗を立てて、その日は何をしますか」
「その日も、普段どおりの勤めです。巡回と、訓練と」
「眠るのは」
「……勤めの合間に」
前世の言葉で言えば、見栄のための徹夜だ。成果ではなく、上の人間に見せるための働き方。そういう職場の記録を、俺は前世で山ほど読んだ。
その次に来た騎士は、灰沼で足を噛まれた若い騎士の同期だという男だった。
「あいつ、灰沼の前の晩、宴の警護で一睡もしてなかったんです。それで夜通し歩いて、泥の上に座ったら、そのまま寝ちまった。気がついたら、足を噛まれてた。歩けるようになるかどうか、医者もまだ分からないって」
男は、膝の上で拳を握っていた。
「あいつの家は、騎士の家なんです。歩けなくなったら、終わりなんですよ」
俺は帳面に、その名前を書いた。書きながら、手に力が入っているのが自分で分かった。
◇
最後に、本隊の当番の騎士に頼んで、行軍の命令書の控えを見せてもらった。本隊の兵舎の箱に、命令書の写しが残っている。夜の行軍の命令。式典の稽古の命令。屋敷の宴の警護の命令。どれにも、団長の印がある。
それから、本隊の騎士の誓約書の写しも見た。本隊の誓約には、第九中隊のような「昼夜を問わず」の一行はない。代わりに、古くからの定めが一つある。
――本隊は、団長の求めに応じ、王都の守りに就く。
王都の守りのための定めだ。それを団長は、屋敷の宴の警護にも、見栄の行軍にも使っていた。定めの言葉そのものは正しい。正しい言葉を、眠りを奪うように使っている。
勅は、命と眠りと糧を奪う定めだけでなく、定めを、仕える者の眠りを奪うように使うことも禁じている。これは、そっちに当たる。
ここで押そうと思えば、押せたかもしれない。ハルトムートの手首に印を当てて、屋敷の宴の警護の命令を一つ消すことはできる。
でも、それでは足りない。命令を一つ消しても、団長は次の命令を出す。消すべきなのは命令ではなく、こういう命令を出し続ける人の、その椅子だ。それは監察使にはできない。王の裁きにしかできない。
だから、今は押さない。命令書の写しを集めて、話を集めて、裁きの場に持っていく。
「今夜は、ここまでにします」
物置を出ると、ハルトムートが壁にもたれて待っていた。
「どうですか、殿下」
「話してくれた人の分は、全部書きました。名前は、私の帳面の外には出しません」
「……ありがとうございます」
ハルトムートは、少し笑った。
「俺たちは、第九を数合わせって呼んでた。夜番を押しつけられてるのを知ってて、黙ってた。自分たちも眠れてないのに、もっと下がいると思うと、少し楽だったんだ」
それは、前世でも何度も聞いた種類の言葉だった。
「今は、そう思わなくていいです。皆さんも、眠っていいんです」
兵舎を出ると、夜の空気が冷たかった。
しばらく黙って歩いていたヴェレーナ隊長が、本棟の角を曲がったところで、ふいに足を止めた。
「殿下」
「はい」
「私の扶持の額を、まだ申し上げていませんでした」




