第4話
卒業パーティーが終わった深夜、誰もいない執務室で、エドワードは隣国の皇太子クロードと対峙していた。
「これが、彼女に関する全ての記録だ。好きな花、嫌いな食べ物、魔法を制御する際の癖、そして、彼女が幸せを感じる瞬間の傾向……全て書き留めてある」
差し出した分厚い手引書を、クロードは苦渋に満ちた表情で受け取った。
「正気か、エドワード。これではお前は、彼女にとって一生消えない傷になるのだぞ」
「それでいい。彼女がこの国を憎み、俺を忘れ、お前の隣で笑えるようになるのなら、俺の魂など龍にくれてやる」
エドワードの声は震えていたが、その瞳には一点の曇りもなかった。
彼は引き出しの奥から、先ほど水路から密かに回収させた、泥だらけの守り袋を取り出した。汚れを拭い、肌身離さず身に付ける。これが彼にとって、地獄へ向かうための唯一の道標だった。
◇ ◇ ◇
それから三年──
祭壇の奥底、陽の光さえ届かない暗がりのなかで、エドワードは独り横たわっていた。
かつて黄金色に輝いていた髪はすっかり色褪せ、その体からは命の灯火が今にも消えようとしている。
生贄を失った守護龍の怒りを鎮めるため、エドワードは自らの魂を削り、魔力を捧げ続けることでしか、この国の平穏を繋ぎ止めることができなかった。
国民からは「聖女を追い出し、国を衰退させた愚王」と罵られ、歴史からも抹消されようとしている。
だが、彼の心は不思議なほどに凪いでいた。
先日、隣国の密使が一枚の肖像画を隠密に運んできた。
「エドワード様、クロード様より言付けを預かっております。『約束通りこれを届ける』とのことです」
震える手でそれを受け取り、エドワードは浅い呼吸のなかで目を見開いた。
そこには、隣国の柔らかな陽光を浴びながら、心からの笑顔を浮かべるフェリシアの姿があった。
彼女の隣には、かつての友であり、今は彼女の夫となったクロードが寄り添っている。
彼女の首筋からはあの忌まわしき生贄の紋章が消え、その瞳にはエドワードが愛した、あの暖かなひだまりのような光が満ち溢れていた。
「ああ……本当によかった。君は、笑っているんだな」
エドワードは力なく微笑んだ。
「我が友よ感謝する……そうクロードに伝えてくれ」
彼女は今、自分を捨てた卑劣な男を憎み、あるいは記憶の底に追いやって、別の男の隣で幸福を掴んでいる。
それこそが、あの日、エドワードが地獄に落ちる覚悟で書き上げた唯一の願いだった。
愛する者が生き、笑っている。
その事実だけで、彼がこれまで味わってきた数年間の孤独も痛みも、すべてが輝かしい勲章へと変わる。
エドワードは懐から、泥に汚れ、何度も修復された古い守り袋を取り出した。
もう指先の感覚はほとんどない。
それでも彼は、最後の力を振り絞ってそれを冷え切った胸に押し当てた。
薄れゆく意識のなかで、彼女の姿だけが色鮮やかに蘇る。
初めて言葉を交わした春の昼下がり。不器用な挨拶に戸惑いながらも、ほんのりと頬を染めて微笑んでくれた気恥ずかしそうな表情。
初めての誕生日に贈ったささやかな香水を両手で大切に包み込み、まるで世界中の宝物を手にしたかのように弾んでみせた、陽だまりのような屈託のない笑顔。
茜色に染まる夕暮れの庭園で、「一生君を守る」と誓った日。
溢れる涙を拭いもせず、ただ何度も頷きながら真っすぐに向けられた、あの絶対的な信頼の眼差し。
そして──彼女を生かすためにすべてを壊した、あの卒業パーティーの夜。
彼女がくれた守り袋を「汚れた糸屑」と吐き捨てた自分を射抜いた、ひどく傷つき、やがて絶対的な拒絶と軽蔑へと凍りついていったあの冷え切った眼差し。
憎まれてもよかった。むしろ、深く憎まれなければならなかった。
その全てが愛おしく、今でも鮮やかな映像として脳裏に焼き付いている。
「愛している、フェリシア。どうか、そのままで……」
──たとえ地獄で焼かれようとも、君が二度とこちらを振り返らぬように
意識が遠のき、視界がゆっくりと白く染まっていく。
龍が最後に残った彼の命を啜り上げ、深い満足とともに眠りにつく。
誰もいない静寂の祭壇で、一人の男が静かに事切れた。
その死に顔には、誰にも語られることのない、あまりにも清らかな幸福の笑みが刻まれていた。












