第5話
隣国の王宮に広がる庭園は、今まさに百花繚乱の時を迎えていた。
柔らかな陽光が色とりどりの花弁を透かし、風が吹くたびに甘い香りがバルコニーまで運ばれてくる。
その中心で、フェリシアが子供たちに囲まれて笑っていた。
かつてアルカディア王国のパーティー会場で見せた、あの凍りついたような絶望の表情は、今やどこにも見当たらない。彼女は今、この国で「ひだまりの聖女」と慕われ、一人の女性として穏やかな日々を謳歌している。
クロードはバルコニーの手すりに手をかけ、その光景を静かに見守っていた。
手元には、一冊の分厚い手引書がある。
表紙には何の題名もないが、中にはエドワードの筆跡で、フェリシアを幸せにするためのあらゆる工夫が書き込まれている。
彼女が好む茶葉の配合から、不安を感じた時にかけるべき言葉、さらには彼女の魔力を最も効率よく安定させるための環境設定まで。
それは狂気と言えるほどの執念で綴られた、世界で最も歪で、最も純粋な遺言だった。
クロードは、その使い込まれたページをそっとなぞる。
彼女が今浮かべている笑顔の影に、一人の男が自らの魂を削り、泥を啜って作り上げた絶望的なまでの献身があることを、彼女は一生知ることはない。
それでいい、とクロードは心の中で呟いた。
この平穏な風景こそが、親友が命を賭して買い取った、この世で最も高価な景色なのだから。
クロードは、手の中の手引書をゆっくりと閉じた。
金装飾の施された表紙が、西日に照らされて鈍く光る。
あの日、地下の密談室でエドワードが見せた、鬼気迫る表情が脳裏をよぎった。
血の気の失せた顔で、それでも瞳の中にだけは消えない焔を宿して、彼はクロードの襟元を掴んだのだ。
頼む、クロード。彼女には真実を教えないでくれ。俺を世界一のクズだと思わせたまま、二度とあんな地獄を振り返らないようにしてやってくれ。
それが、親友から託された最後にして唯一の、呪いのような願いだった。
クロードはその願いを忠実に守り続けてきた。
フェリシアがふとした瞬間に見せる、過去を惜しむような寂しげな眼差し。
その光がエドワードへの未練に変わらぬよう、クロードはあえて彼を「最低な裏切り者」として語る役割を引き受けてきた。
彼女の傷を癒やすためには、エドワードという存在を、憎むべき過去の遺物として完結させる必要があったからだ。
もし彼女が真実を知れば、その優しすぎる心は罪悪感で壊れてしまうだろう。
自分が生きている理由が、愛する男が地獄で焼かれ続けているからだと知って、彼女が笑えるはずがない。
エドワードが自らの名誉も命も投げ打って守り抜いたのは、彼女の笑顔そのものだった。
だからこそ、クロードは共犯者として、永遠に沈黙を貫く。
彼女の幸福を支える礎は、嘘と泥と、一人の男の無償の愛でできている。
それを知っているのは、この世界で自分一人だけでいい。
クロードはバルコニーを離れ、影の差す室内へと一歩踏み出した。
この秘密を墓場まで持っていくことが、彼が親友に報いるための、たった一つの道だった。
執務室の机に置かれた一通の封書は、差出人の名も、王家の紋章も刻まれていなかった。
アルカディア王国の影から、クロードだけが受け取れる特別な経路で届けられた密書だ。
封を切ると、なかには短く、事務的な報告だけが記されていた。
アルカディア国王エドワード、地下祭壇にて崩御。
その文字を読んだ瞬間、クロードの肺からすべての空気が漏れ出したような錯覚に陥った。
ついにこの日が来たのだ。
エドワードは、誰に看取られることもなく、一人で龍の渇きを癒やし続け、枯れ木のようになって逝った。
彼が守り抜いた国の民は、彼を「聖女を追放した愚王」と呼び、その死を悼むことさえしないだろう。
だが、それこそが彼が望んだ結末だった。
愛する女に憎まれ、民に蔑まれ、歴史の泥に沈んでいくこと。
すべては、あの庭園で笑っているフェリシアに、一片の影も落とさないための計算だった。
クロードは、机の上にある小さな銀の盆の上で、その紙に火を灯した。
青白い炎が這い回り、友の最期を告げる唯一の証拠を灰へと変えていく。
「最後まで、見事な馬鹿野郎だったな、エドワード」
灰が崩れ、風に舞って消えていく。
これで、この世からエドワード・アルカディアの真実を知る術は完全に失われた。
クロードは、胸の奥に突き刺さったままの痛みを無視し、椅子から立ち上がった。
扉の向こうからは、幸せを疑わないフェリシアの笑い声が聞こえてくる。
その声を、彼は生涯、誰にも壊させはしない。
庭園のひだまりのなかから、フェリシアがこちらに気づいて顔を上げた。
彼女は手にした花を高く掲げ、少女のような無垢な笑みを浮かべて大きく手を振る。
その瞳には、かつてアルカディアを去った夜に宿っていた絶望の破片など、微塵も残っていない。
いま、彼女を包み込んでいるのは、エドワードが己の命と引き換えに買い取った偽りの幸福だ。
クロードはバルコニーから身を乗り出し、穏やかな微笑みを返して手を振り返した。
胸の奥にある真実は、鉛のように重く、そして氷のように冷たい。
もし、いまこの場で彼女を抱き寄せ、あの愚かな男がどれほど彼女を愛していたかを叫んでしまったら、彼女は再び壊れてしまうだろう。
救われた命が、罪悪感という名の猛毒に侵され、彼女の笑顔は二度と戻らなくなる。
そんなことは、あいつが絶対に許さない。
「お前の勝ちだ、エドワード」
クロードは小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
お前が望んだ通り、彼女は俺を愛し、お前を憎み、そしていま、世界で一番幸せそうに笑っている。
お前がすべてを捨てて作り上げたこの優しい嘘を、俺は死ぬまで守り通そう。
たとえ後世の歴史家が、お前を無能な愚王と断じ、俺を略奪者と呼ぼうとも、この真実だけは誰にも渡さない。
フェリシアが階段を駆け上がり、弾むような足取りでこちらに向かってくる。
クロードは彼女を迎え入れるために両腕を広げた。
親友から託されたもっとも重く、もっとも尊い愛の義務。
この永遠の沈黙こそが、俺とお前の、生涯消えない友情の証だ。
(完)












