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アラクネ・ミステリー 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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8/10

8綛目 婚礼布の裏側に、隠された古糸が一本ある

「婚礼布は、まだ切らないでください」


 シアは、そう言った。


 声は小さかった。


 だが、今度はためらわなかった。


 婚礼布の補助役になってから、シアは自分で直さない。


 異常を見つけたら、止める。


 担当者へ知らせる。


 布を動かさない。


 糸を抜かない。


 隠さない。


 第4綛目で母糸を裂いて以来、何度も言い聞かされた手順である。


 その日、シアが止めたのは、リセラの婚礼布だった。


     *


 リセラは、細雨工房の近くにある母系織屋家の娘である。


 婚礼の相手は、第1文化圏の帳場商人の家へ入るアラクネの青年だった。


 婚礼後、リセラはしばらく第1文化圏で暮らす。


 だから婚礼布には、二つの文化圏で意味が通るよう、控えめな文様が選ばれていた。


 中央には、向かい合う二つの多脚文様。


 その間を、一筋の母糸が通る。


 縁には細い金糸。


 裏側には、荷札や婚礼札へ縫い付けるための小さな留め糸。


 見た目には、何も問題がない。


 母糸も正しい。


 織屋印も正しい。


 契約糸も合っている。


 縁文様も乱れていない。


「では、なぜ止めたのですか」


 契約倉番のメルダが聞いた。


 シアは、布の裏側を指した。


「ここだけ、針が戻っています」


「戻っている」


「はい。表から刺して、裏で一度止まり、もう一度同じ穴へ戻っています」


 エルネは婚礼布を見た。


 表には出ない。


 裏側の小さな留め糸。


 普通なら、布端へ沿って同じ方向へ進む。


 だが、一か所だけ、針が逆へ戻っている。


 わずかなことだった。


 それでも、シアは止めた。


「糸を抜きましたか」


 エルネが聞いた。


「いいえ」


「布をめくりましたか」


「見えるところまでです」


「誰かへ相談しましたか」


「担当のノイラさんへ」


 古糸倉の帳役ノイラ。


 第5綛目以降、祖糸箱の鍵を持たず、監督下で働いている。


 今は婚礼布の古糸照合にも立ち会っていた。


「私も見ました」


 ノイラが言った。


「古い糸が、裏へ縫い込まれています」


     *


 リセラの母セナラが、布のそばに立っていた。


 女性のアラクネ。


 娘の婚礼布の準備を手伝うため、数日前から工房へ通っている。


 糸札を運ぶ。


 布端を整える。


 婚礼箱へ入れる小布を畳む。


 工房の者ではない。


 だが、婚礼の母親として、許された範囲で作業へ加わっていた。


「古い糸とは、何ですか」


 セナラが聞いた。


「まだ分かりません」


 エルネは答えた。


「だから抜かずに見ます」


 ミサが、木札、白い見本布、細い木針、控え糸箱を運んできた。


「触らないでください」


 周囲へ言う。


「布を動かさないでください」


 運び手が手を引く。


「元の糸を捨てないでください」


 シアが頷いた。


 ミサは、誰かを疑っているのではない。


 調べるものを失わせないために言っている。


     *


 古い糸は、婚礼布の裏側へ一本だけ縫い込まれていた。


 表からは見えない。


 布端の折り返しに沿い、母糸の近くまで来ている。


 だが、母糸には触れていない。


 別の糸である。


「何の糸ですか」


 メルダが聞いた。


 ノイラは、少し離れて見た。


「古い家守り糸です」


「家守り糸」


「昔、旅へ出る者の衣へ縫い込んだ糸です」


 ノイラは答えた。


「今は使いません」


「なぜ」


「どの家の由来を示すか、札が残っていないものが多い。古い布から抜き取られ、別の布へ移されたものもある。由来を確かめられない糸は、婚礼布へ使わないことになっています」


 家守り糸。


 古い。


 由来不明。


 禁止されている。


 だが、悪い糸とは限らない。


 昔は、大切な者を送り出す時、衣の裏へ縫い込まれた。


 旅路で迷わないように。


 家へ戻れるように。


 遠い土地でも、自分の名を忘れないように。


 そう願う糸だった。


 願いそのものは悪くない。


 だが、由来の分からない古糸を、契約へ隠して入れることはできない。


「誰が縫いましたか」


 エルネが聞いた。


 沈黙。


 シアは口を開かなかった。


 自分で見つけた。


 自分では入れていない。


 ノイラも黙っている。


 ミサは、糸札を並べている。


 セナラだけが、布を見ていた。


     *


「私です」


 セナラが言った。


 リセラが母親を見た。


「お母さん」


「私が縫いました」


 セナラは逃げなかった。


 言い訳を先にもしなかった。


「なぜですか」


 メルダが聞いた。


「娘が遠くへ行くからです」


「契約外の糸です」


「分かっています」


「分かっていて」


「はい」


 セナラは、婚礼布の裏を見た。


「私の母が、私の婚礼衣へ入れた糸です」


 倉の中が静かになった。


「その時の札は」


 ノイラが聞いた。


「ありません」


「どの家守り糸か、由来は」


「母から、母の母から来たと聞いただけです」


「なら、確かめられません」


「分かっています」


 セナラの声が震えた。


「でも、娘が第1文化圏へ行くと聞いた時、何か残したかった」


     *


 セナラは、リセラの婚礼布を作る工房へ、古い小布を持ち込んだ。


 自分の婚礼衣の裏から外した家守り糸。


 細く。


 褪せて。


 ところどころ撚りが緩んでいる。


 その糸を、婚礼布の裏へ一本だけ縫い込んだ。


 母糸へ触れないように。


 表へ出ないように。


 誰にも分からないように。


 悪いことをしている自覚はあった。


 だから隠した。


「願いを入れただけです」


 セナラは言った。


「娘を売ったわけではありません」


「分かっています」


 エルネは答えた。


「でも、隠しました」


「はい」


「契約にないものを」


「はい」


「由来の確かめられない古糸を」


「はい」


「娘にも言わずに」


 セナラは答えられなかった。


     *


 リセラは、しばらく母親を見ていた。


 怒っているようにも見えた。


 泣きそうにも見えた。


「私に言ってくれればよかった」


 ようやく、そう言った。


「言ったら、止めるでしょう」


 セナラが答えた。


「止めます」


「だから」


「だから隠したのですか」


 セナラは黙った。


「私が遠くへ行くから、私の布へ、私に言わず、古い糸を入れた」


「守りたかった」


「私をですか。それとも、お母さんの安心をですか」


 セナラの多脚が小さく震えた。


 答えは、すぐには出なかった。


 願いは、善意だけではない。


 不安。


 寂しさ。


 手放したくない気持ち。


 自分の安心。


 そういうものも混ざる。


 混ざったからといって、すべて悪くなるわけではない。


 だが、他人の布へ隠してよい理由にはならない。


     *


「婚礼布はどうなりますか」


 リセラが聞いた。


「このままでは通せません」


 メルダが答えた。


「古糸を抜けば使えますか」


 エルネは布を見た。


 古糸は、表地を大きく傷つけてはいない。


 ただし、針穴は残る。


 母糸の近くを通っている。


 抜き方を誤れば、母糸を引く。


「その場で抜いてはいけません」


 シアが言った。


 皆がシアを見る。


「担当者と古糸照合役が立ち会って、どこからどこまで通っているかを札へ写してからです」


 バルネが頷いた。


「続けろ」


 シアは一度息を吸った。


「古糸を抜く。針穴を見て、母糸へ傷がないか確かめる。傷がなければ、補修糸で塞ぐ。傷があれば、婚礼布としては止める」


 自分で直さない。


 だが、どう止めるべきかは言えるようになっている。


 第4綛目の頃とは違う。


     *


 古糸は、立会いのもとで抜かれた。


 担当者。


 ノイラ。


 シア。


 メルダ。


 リセラ。


 セナラ。


 六人が見た。


 ミサは、抜いた糸を捨てさせなかった。


「元の糸を、そのまま包んでください」


 白い見本布へ載せる。


 木札を付ける。


 ――セナラ持込。


 ――由来不明の家守り糸。


 ――リセラ婚礼布へ無断で縫込み。


 ――発見者シア。


 ――母糸への損傷なし。


 ――抜去済み。


 針穴は小さかった。


 母糸へ傷はなかった。


 婚礼布は、補修後に再検品することになった。


 契約は一度止められた。


 婚礼日まで、あと四日。


 急がなければならない。


 だが、急いで隠したものを、そのまま通すことはできない。


     *


「処分を」


 バルネが言った。


 セナラは頭を下げた。


「受けます」


「工房の者ではない。役を外すことはできない」


「はい」


「婚礼布の補助作業から外す。以後、この婚礼布へ触れる時は立会いを要する」


「はい」


「古糸の持ち込みは禁止。持ち込んだ糸は、由来不明の残片として古糸倉へ置く」


「はい」


「契約の再検品費用と補修費用は、工房とセナラ家で分ける」


 リセラが顔を上げた。


「工房も払うのですか」


「補助に入る者の持ち物を確認しなかった」


 バルネは答えた。


「工房側にも見落としがある」


 シアが唇を噛んだ。


「私が先に気づけば」


「気づいた」


 バルネが言った。


「隠さず止めた」


「でも、縫い込まれた時は見ていません」


「お前一人がすべてを見る手順ではない」


 シアは黙った。


「見落としは残す。だが、報告した者まで隠した側へ置くな」


 明確な区別だった。


 セナラは、故意に隠した。


 シアは、見落とした。


 だが、見つけた後に隠さなかった。


 同じではない。


     *


 リセラは、古糸を受け取らなかった。


「捨てるのですか」


 セナラが聞いた。


「捨てません」


 リセラは答えた。


「でも、婚礼布には入れません」


「では」


「別の小袋へ入れてください」


「持っていくの」


「はい」


 セナラが目を上げた。


「家守り糸としてではありません」


 リセラは続けた。


「お母さんが、私に黙って入れた糸として持っていきます」


 厳しい言葉だった。


 だが、拒絶ではなかった。


「由来が分からないなら、分からないと書きます。お母さんの母から来たと聞いたことも書きます。婚礼布へ隠したことも書きます」


「そんなことまで」


「隠さないためです」


 セナラは、しばらく何も言えなかった。


     *


 新しい仮手順が木札へ増えた。


 一、婚礼布へ入れる糸は、表裏を問わず、すべて糸札へ残す。


 二、親族持込の糸、布片、飾りは、作業前に担当者が確認する。


 三、由来不明の古糸を、母糸、婚礼布、契約布へ入れない。


 四、補助者が異常を見つけた時は、自分で抜かず、担当者へ申告する。


 五、裏側の留め糸も、針の向きと戻りを見る。


 六、見落としと故意の隠匿を同じ処分にしない。


 七、抜いた古糸は捨てず、由来と発見経緯を付けて残す。


 八、婚礼の当人へ知らせず、守り糸を入れてはならない。


 バルネは木札を見た。


「長い」


「はい」


 エルネが答えた。


「婚礼布の手順は、前よりさらに長い」


「はい」


「石へ残すなら」


 エルネは婚礼布の裏を見た。


「隠して糸を入れないこと」


「短いな」


「隠す者は、長い手順を読まないことがあります」


 バルネは頷いた。


「なら、短い原則を先に置け」


     *


 婚礼布は、翌日の夕方に補修を終えた。


 シアは、補修を一人では行わなかった。


 担当者の横で、針穴を数えた。


 母糸へ傷がないことを確認した。


 控え糸を並べた。


 最後に、裏側をもう一度見た。


「異常なし」


 担当者が言った。


 シアはすぐには頷かなかった。


 布端。


 留め糸。


 母糸。


 金糸。


 裏側。


 折り返し。


 全部を見る。


「異常なしです」


 ようやく言った。


 今度は、確信のある声だった。


     *


 婚礼当日。


 リセラは、補修された婚礼布をまとった。


 古糸は入っていない。


 代わりに、小さな布袋を持っていた。


 中には、セナラが縫い込んだ家守り糸。


 外側の札には、由来不明とある。


 その下に、もう一行。


 ――母セナラより。無断で婚礼布へ縫込み。リセラが抜去後に所持。


 きれいな記録ではない。


 だが、本当だった。


 リセラは母親へ言った。


「次は、先に言ってください」


 セナラは泣きながら頷いた。


     *


 婚礼布の灯りが落ちる前に、エルネは裏側を見た。


 表は美しい。


 母糸も正しい。


 印も合っている。


 それでも、裏側には、誰かの願いが隠されることがある。


 願いだから許されるわけではない。


 母親だから、娘へ黙ってよいわけでもない。


 古いから、正しいわけでもない。


 守りたい気持ちが、相手の選ぶ権利を越えることもある。


 だから見る。


 表だけではなく。


 母糸だけではなく。


 裏の留め糸。


 戻った針穴。


 由来のない古糸。


 そして、誰にも知らされず入れられた願い。


 婚礼布の裏側に、隠された古糸が一本ないかを。

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