8綛目 婚礼布の裏側に、隠された古糸が一本ある
「婚礼布は、まだ切らないでください」
シアは、そう言った。
声は小さかった。
だが、今度はためらわなかった。
婚礼布の補助役になってから、シアは自分で直さない。
異常を見つけたら、止める。
担当者へ知らせる。
布を動かさない。
糸を抜かない。
隠さない。
第4綛目で母糸を裂いて以来、何度も言い聞かされた手順である。
その日、シアが止めたのは、リセラの婚礼布だった。
*
リセラは、細雨工房の近くにある母系織屋家の娘である。
婚礼の相手は、第1文化圏の帳場商人の家へ入るアラクネの青年だった。
婚礼後、リセラはしばらく第1文化圏で暮らす。
だから婚礼布には、二つの文化圏で意味が通るよう、控えめな文様が選ばれていた。
中央には、向かい合う二つの多脚文様。
その間を、一筋の母糸が通る。
縁には細い金糸。
裏側には、荷札や婚礼札へ縫い付けるための小さな留め糸。
見た目には、何も問題がない。
母糸も正しい。
織屋印も正しい。
契約糸も合っている。
縁文様も乱れていない。
「では、なぜ止めたのですか」
契約倉番のメルダが聞いた。
シアは、布の裏側を指した。
「ここだけ、針が戻っています」
「戻っている」
「はい。表から刺して、裏で一度止まり、もう一度同じ穴へ戻っています」
エルネは婚礼布を見た。
表には出ない。
裏側の小さな留め糸。
普通なら、布端へ沿って同じ方向へ進む。
だが、一か所だけ、針が逆へ戻っている。
わずかなことだった。
それでも、シアは止めた。
「糸を抜きましたか」
エルネが聞いた。
「いいえ」
「布をめくりましたか」
「見えるところまでです」
「誰かへ相談しましたか」
「担当のノイラさんへ」
古糸倉の帳役ノイラ。
第5綛目以降、祖糸箱の鍵を持たず、監督下で働いている。
今は婚礼布の古糸照合にも立ち会っていた。
「私も見ました」
ノイラが言った。
「古い糸が、裏へ縫い込まれています」
*
リセラの母セナラが、布のそばに立っていた。
女性のアラクネ。
娘の婚礼布の準備を手伝うため、数日前から工房へ通っている。
糸札を運ぶ。
布端を整える。
婚礼箱へ入れる小布を畳む。
工房の者ではない。
だが、婚礼の母親として、許された範囲で作業へ加わっていた。
「古い糸とは、何ですか」
セナラが聞いた。
「まだ分かりません」
エルネは答えた。
「だから抜かずに見ます」
ミサが、木札、白い見本布、細い木針、控え糸箱を運んできた。
「触らないでください」
周囲へ言う。
「布を動かさないでください」
運び手が手を引く。
「元の糸を捨てないでください」
シアが頷いた。
ミサは、誰かを疑っているのではない。
調べるものを失わせないために言っている。
*
古い糸は、婚礼布の裏側へ一本だけ縫い込まれていた。
表からは見えない。
布端の折り返しに沿い、母糸の近くまで来ている。
だが、母糸には触れていない。
別の糸である。
「何の糸ですか」
メルダが聞いた。
ノイラは、少し離れて見た。
「古い家守り糸です」
「家守り糸」
「昔、旅へ出る者の衣へ縫い込んだ糸です」
ノイラは答えた。
「今は使いません」
「なぜ」
「どの家の由来を示すか、札が残っていないものが多い。古い布から抜き取られ、別の布へ移されたものもある。由来を確かめられない糸は、婚礼布へ使わないことになっています」
家守り糸。
古い。
由来不明。
禁止されている。
だが、悪い糸とは限らない。
昔は、大切な者を送り出す時、衣の裏へ縫い込まれた。
旅路で迷わないように。
家へ戻れるように。
遠い土地でも、自分の名を忘れないように。
そう願う糸だった。
願いそのものは悪くない。
だが、由来の分からない古糸を、契約へ隠して入れることはできない。
「誰が縫いましたか」
エルネが聞いた。
沈黙。
シアは口を開かなかった。
自分で見つけた。
自分では入れていない。
ノイラも黙っている。
ミサは、糸札を並べている。
セナラだけが、布を見ていた。
*
「私です」
セナラが言った。
リセラが母親を見た。
「お母さん」
「私が縫いました」
セナラは逃げなかった。
言い訳を先にもしなかった。
「なぜですか」
メルダが聞いた。
「娘が遠くへ行くからです」
「契約外の糸です」
「分かっています」
「分かっていて」
「はい」
セナラは、婚礼布の裏を見た。
「私の母が、私の婚礼衣へ入れた糸です」
倉の中が静かになった。
「その時の札は」
ノイラが聞いた。
「ありません」
「どの家守り糸か、由来は」
「母から、母の母から来たと聞いただけです」
「なら、確かめられません」
「分かっています」
セナラの声が震えた。
「でも、娘が第1文化圏へ行くと聞いた時、何か残したかった」
*
セナラは、リセラの婚礼布を作る工房へ、古い小布を持ち込んだ。
自分の婚礼衣の裏から外した家守り糸。
細く。
褪せて。
ところどころ撚りが緩んでいる。
その糸を、婚礼布の裏へ一本だけ縫い込んだ。
母糸へ触れないように。
表へ出ないように。
誰にも分からないように。
悪いことをしている自覚はあった。
だから隠した。
「願いを入れただけです」
セナラは言った。
「娘を売ったわけではありません」
「分かっています」
エルネは答えた。
「でも、隠しました」
「はい」
「契約にないものを」
「はい」
「由来の確かめられない古糸を」
「はい」
「娘にも言わずに」
セナラは答えられなかった。
*
リセラは、しばらく母親を見ていた。
怒っているようにも見えた。
泣きそうにも見えた。
「私に言ってくれればよかった」
ようやく、そう言った。
「言ったら、止めるでしょう」
セナラが答えた。
「止めます」
「だから」
「だから隠したのですか」
セナラは黙った。
「私が遠くへ行くから、私の布へ、私に言わず、古い糸を入れた」
「守りたかった」
「私をですか。それとも、お母さんの安心をですか」
セナラの多脚が小さく震えた。
答えは、すぐには出なかった。
願いは、善意だけではない。
不安。
寂しさ。
手放したくない気持ち。
自分の安心。
そういうものも混ざる。
混ざったからといって、すべて悪くなるわけではない。
だが、他人の布へ隠してよい理由にはならない。
*
「婚礼布はどうなりますか」
リセラが聞いた。
「このままでは通せません」
メルダが答えた。
「古糸を抜けば使えますか」
エルネは布を見た。
古糸は、表地を大きく傷つけてはいない。
ただし、針穴は残る。
母糸の近くを通っている。
抜き方を誤れば、母糸を引く。
「その場で抜いてはいけません」
シアが言った。
皆がシアを見る。
「担当者と古糸照合役が立ち会って、どこからどこまで通っているかを札へ写してからです」
バルネが頷いた。
「続けろ」
シアは一度息を吸った。
「古糸を抜く。針穴を見て、母糸へ傷がないか確かめる。傷がなければ、補修糸で塞ぐ。傷があれば、婚礼布としては止める」
自分で直さない。
だが、どう止めるべきかは言えるようになっている。
第4綛目の頃とは違う。
*
古糸は、立会いのもとで抜かれた。
担当者。
ノイラ。
シア。
メルダ。
リセラ。
セナラ。
六人が見た。
ミサは、抜いた糸を捨てさせなかった。
「元の糸を、そのまま包んでください」
白い見本布へ載せる。
木札を付ける。
――セナラ持込。
――由来不明の家守り糸。
――リセラ婚礼布へ無断で縫込み。
――発見者シア。
――母糸への損傷なし。
――抜去済み。
針穴は小さかった。
母糸へ傷はなかった。
婚礼布は、補修後に再検品することになった。
契約は一度止められた。
婚礼日まで、あと四日。
急がなければならない。
だが、急いで隠したものを、そのまま通すことはできない。
*
「処分を」
バルネが言った。
セナラは頭を下げた。
「受けます」
「工房の者ではない。役を外すことはできない」
「はい」
「婚礼布の補助作業から外す。以後、この婚礼布へ触れる時は立会いを要する」
「はい」
「古糸の持ち込みは禁止。持ち込んだ糸は、由来不明の残片として古糸倉へ置く」
「はい」
「契約の再検品費用と補修費用は、工房とセナラ家で分ける」
リセラが顔を上げた。
「工房も払うのですか」
「補助に入る者の持ち物を確認しなかった」
バルネは答えた。
「工房側にも見落としがある」
シアが唇を噛んだ。
「私が先に気づけば」
「気づいた」
バルネが言った。
「隠さず止めた」
「でも、縫い込まれた時は見ていません」
「お前一人がすべてを見る手順ではない」
シアは黙った。
「見落としは残す。だが、報告した者まで隠した側へ置くな」
明確な区別だった。
セナラは、故意に隠した。
シアは、見落とした。
だが、見つけた後に隠さなかった。
同じではない。
*
リセラは、古糸を受け取らなかった。
「捨てるのですか」
セナラが聞いた。
「捨てません」
リセラは答えた。
「でも、婚礼布には入れません」
「では」
「別の小袋へ入れてください」
「持っていくの」
「はい」
セナラが目を上げた。
「家守り糸としてではありません」
リセラは続けた。
「お母さんが、私に黙って入れた糸として持っていきます」
厳しい言葉だった。
だが、拒絶ではなかった。
「由来が分からないなら、分からないと書きます。お母さんの母から来たと聞いたことも書きます。婚礼布へ隠したことも書きます」
「そんなことまで」
「隠さないためです」
セナラは、しばらく何も言えなかった。
*
新しい仮手順が木札へ増えた。
一、婚礼布へ入れる糸は、表裏を問わず、すべて糸札へ残す。
二、親族持込の糸、布片、飾りは、作業前に担当者が確認する。
三、由来不明の古糸を、母糸、婚礼布、契約布へ入れない。
四、補助者が異常を見つけた時は、自分で抜かず、担当者へ申告する。
五、裏側の留め糸も、針の向きと戻りを見る。
六、見落としと故意の隠匿を同じ処分にしない。
七、抜いた古糸は捨てず、由来と発見経緯を付けて残す。
八、婚礼の当人へ知らせず、守り糸を入れてはならない。
バルネは木札を見た。
「長い」
「はい」
エルネが答えた。
「婚礼布の手順は、前よりさらに長い」
「はい」
「石へ残すなら」
エルネは婚礼布の裏を見た。
「隠して糸を入れないこと」
「短いな」
「隠す者は、長い手順を読まないことがあります」
バルネは頷いた。
「なら、短い原則を先に置け」
*
婚礼布は、翌日の夕方に補修を終えた。
シアは、補修を一人では行わなかった。
担当者の横で、針穴を数えた。
母糸へ傷がないことを確認した。
控え糸を並べた。
最後に、裏側をもう一度見た。
「異常なし」
担当者が言った。
シアはすぐには頷かなかった。
布端。
留め糸。
母糸。
金糸。
裏側。
折り返し。
全部を見る。
「異常なしです」
ようやく言った。
今度は、確信のある声だった。
*
婚礼当日。
リセラは、補修された婚礼布をまとった。
古糸は入っていない。
代わりに、小さな布袋を持っていた。
中には、セナラが縫い込んだ家守り糸。
外側の札には、由来不明とある。
その下に、もう一行。
――母セナラより。無断で婚礼布へ縫込み。リセラが抜去後に所持。
きれいな記録ではない。
だが、本当だった。
リセラは母親へ言った。
「次は、先に言ってください」
セナラは泣きながら頷いた。
*
婚礼布の灯りが落ちる前に、エルネは裏側を見た。
表は美しい。
母糸も正しい。
印も合っている。
それでも、裏側には、誰かの願いが隠されることがある。
願いだから許されるわけではない。
母親だから、娘へ黙ってよいわけでもない。
古いから、正しいわけでもない。
守りたい気持ちが、相手の選ぶ権利を越えることもある。
だから見る。
表だけではなく。
母糸だけではなく。
裏の留め糸。
戻った針穴。
由来のない古糸。
そして、誰にも知らされず入れられた願い。
婚礼布の裏側に、隠された古糸が一本ないかを。




