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アラクネ・ミステリー 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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7/10

7綛目 封じたはずの染料壺に、違う色の沈みがある

「封じ糸は切れていません」


 染め場の女頭ヴェナは、そう言った。


 声は低かった。


 怒っている時の声だった。


 封じ糸。


 壺札。


 色見本。


 開けた日。


 閉じた日。


 使った染料。


 足した水。


 火へ掛けた回数。


 どれも合っている。


 それなのに、染料壺の底には、違う色が沈んでいた。


     *


 問題になった壺は、藍灰の染料壺だった。


 藍ではない。


 灰でもない。


 青へ少しだけ灰を混ぜた、雨前の空のような色。


 細雨工房では、外套の縁や荷覆いの印糸へ使う。


 濃すぎれば重く見える。


 薄すぎれば汚れた白に見える。


 色合わせが難しい。


 だから一度に多く作り、数日のうちに使う。


 使い終われば、壺口を布で覆う。


 封じ糸を回す。


 壺札を結ぶ。


 次に開ける者が、前と同じ色であることを確かめる。


 今回もそうされていた。


 封じ糸は正しい。


 壺札も正しい。


 表面の色も、見本布と合っている。


「なら、何が違うのですか」


 契約倉番のメルダが聞いた。


 染め手のティナが、試し布を差し出した。


 上半分は藍灰。


 下半分は赤紫。


「最初は藍灰でした」


 ティナが言った。


「底へ近づくほど、色が変わりました」


「混ぜたのですか」


「混ぜました」


「何で」


「いつもの攪拌棒です」


 エルネは、試し布を見た。


 上は正しい。


 下は違う。


 壺の中で、色が二つに分かれている。


 表面だけ見れば、何もおかしくない。


 底を動かした時だけ、違う色が出る。


「誰かが後から赤を入れた」


 メルダが言った。


「封じ糸は切れていません」


 ヴェナが答えた。


「では、封じる前に」


「それも考えました」


「誰が最後に使いましたか」


「ナナです」


 呼ばれた若い染め手が、すぐに前へ出た。


 女性のアラクネ。


 多脚の先に、淡い青の染みが残っている。


「藍灰を使いましたか」


 エルネが聞いた。


「使いました」


「赤紫も」


「前の日に、別の壺で」


「この壺へ入れましたか」


「入れていません」


「本当に」


「はい」


 ナナは答えた。


 声は小さい。


 だが、逃げなかった。


     *


 エルネは壺を見た。


 大きい。


 腰の高さほどある。


 内側は暗い。


 表面だけなら見える。


 底までは見えない。


「試し柄杓を」


 エルネが言った。


 ミサが動いた。


 第6綛目から、調べる時の使いを任されている。


「どの柄杓ですか」


「藍灰用」


「一本ですか」


「二本。表面と底で分けます」


「分けた札も」


「お願いします」


 ミサは染め場の棚へ行き、二本の柄杓と二枚の木札を持ってきた。


 余計なものはない。


 足りないものもない。


「触らないでください」


 壺のそばへ寄ろうとした若い染め手へ、ミサが言った。


「動かさないでください」


 壺台へ手を掛けた運び手が止まる。


「元の試し布も捨てないでください」


 ティナが頷いた。


 エルネは、自分では壺へ触れなかった。


 ティナに表面から一杯取らせる。


 藍灰。


 正しい。


 次に、別の柄杓を底まで沈める。


 ゆっくり上げる。


 赤紫が混じっている。


 完全な赤ではない。


 古い紫。


 褐色に近い沈み。


「染料そのものが違うのではありません」


 エルネが言った。


「沈殿です」


「何の」


 ヴェナが聞いた。


「前に使った色の」


     *


 藍灰の壺は、もともと何に使われていたか。


 壺札をめくる。


 今の札。


 その前。


 さらに前。


 三つ前の札に、赤紫とある。


 婚礼布の縁。


 祭礼幕。


 夜市場の印布。


 濃い赤紫。


「洗ったはずです」


 ナナが言った。


「誰が」


「私です」


「どのように」


「残りを別壺へ移しました。湯を入れて、柄杓で回して、二度捨てました」


「底を擦りましたか」


「長柄箒で」


「その箒は」


 ミサが取りに行こうとした。


「待って」


 エルネが止めた。


「誰も触らないでください」


 ミサはすぐに言い直した。


「長柄箒を動かさないでください」


 染め場の隅に、三本の長柄箒があった。


 藍。


 赤。


 無印。


「どれを使いました」


 ナナが指した。


「無印です」


「無印は何用ですか」


 ヴェナが答えた。


「空いた壺を洗う共用です」


 よくない。


 とてもよくない。


     *


 無印の長柄箒は、乾いていた。


 表面に色はない。


 だが、柄の根元と束の内側に、赤紫の粉が残っていた。


 水に濡らす。


 白い試し布へ押し当てる。


 淡い紫が移る。


「これですか」


 メルダが聞いた。


「これだけではありません」


 エルネは答えた。


「箒の色が壺底へ入ったなら、もっと広く混じります」


「では」


「底へ残っていた色を、箒が十分に落とせなかった」


 古い染料。


 壺底の小さな傷。


 そこへ沈んだ赤紫。


 湯を入れる。


 回す。


 捨てる。


 表面と中ほどはきれいになる。


 だが、底の傷へ入った沈みは残る。


 無印の箒は、束の外側しか底へ当たらなかった。


 傷の奥まで届かない。


 そこへ新しい藍灰を入れた。


 上は藍灰。


 下には赤紫。


「でも、最初に混ぜた時に出るはずです」


 ティナが言った。


「最初は、何で混ぜましたか」


「攪拌棒です」


「どの棒を」


 沈黙。


 ナナが棚を見た。


 棒は四本あった。


 長い。


 短い。


 平たい。


 丸い。


 色札は付いていない。


「これです」


 ナナが平たい棒を指した。


「前の日も同じですか」


「覚えていません」


「洗いましたか」


「洗いました」


「誰が」


「私です」


「戻したのは」


「ティナです」


 ティナが顔を上げた。


「私は、乾いているのを見て棚へ戻しました」


「底を擦ったかは」


「見ていません」


「試し布は」


「ナナがしました」


「どこから取りました」


 ナナは、壺の表面を指した。


 表面。


 表面だけ。


     *


 誰か一人が悪いのではなかった。


 ナナは壺を洗った。


 だが、底の傷まで確かめなかった。


 共用の長柄箒を使った。


 攪拌棒も洗った。


 だが、どの棒を使ったか札を残さなかった。


 ティナは乾いた棒を棚へ戻した。


 だが、洗い方までは確かめなかった。


 ヴェナは封じ糸と壺札を確認した。


 だが、封じる前の底色を見なかった。


 試し布は取った。


 だが、表面からだけだった。


 全員が、自分の仕事をしたつもりだった。


 それでも、赤紫は底へ残った。


「犯人はいません」


 エルネは言った。


 メルダが少しだけ眉を寄せる。


「またですか」


「はい」


「では、誰の責任ですか」


 ヴェナが答えた。


「染め場です」


 声は低いままだった。


 だが、怒りの向きが変わっていた。


 誰か一人へではない。


 自分たちの手順へ向いている。


「ナナだけではない」


 ヴェナは言った。


「ティナだけでもない。私も通した」


 ナナの多脚が少しだけ緩んだ。


     *


 問題の藍灰は、正規色としては使えなかった。


 捨てるには量が多い。


 そのまま流せば、染め捨て場へ負担がかかる。


 井戸より低く、畑と水路から離れた場所へ運ぶとしても、使えるものまで捨てる理由にはならない。


 ヴェナは試し染めを行った。


 白糸。


 灰糸。


 薄茶糸。


 三つへ染める。


 藍灰に赤紫が沈んだ色。


 混ぜれば、雨上がりの石壁に似た鈍い紫灰になる。


「売れますか」


 ティナが聞いた。


「藍灰としては売れない」


 ヴェナは答えた。


「別の色としてなら」


「名は」


 ミサが聞いた。


 ヴェナは少し考えた。


「暮雨色」


「暮れの雨」


「失敗した色を、正しい色のふりで出さないための名だ」


 失敗を隠さない。


 別の色として札を付ける。


 見本布も作る。


 正規の藍灰契約へは使わない。


 荷主へ見せ、承知した者だけに売る。


 それなら、嘘にはならない。


     *


 再現試験が行われた。


 一つ目。


 赤紫を使った壺を、湯だけで二度洗う。


 二つ目。


 湯と灰で洗い、共用箒を使う。


 三つ目。


 湯と灰で洗い、底専用の硬い刷毛を使う。


 四つ目。


 洗ったあと、白い試し水を底へ入れ、表面と底から別々に取る。


 正確な時計は使わない。


 湯が指を入れられるまで冷める間。


 火番が炭を一度足すまで。


 染め場の風口が二度開閉するまで。


 工房で測れる順で試す。


 結果は明らかだった。


 湯だけでは、底の傷へ色が残る。


 共用箒では、前の色を持ち込むことがある。


 底専用の刷毛なら、傷へ届く。


 ただし、刷毛そのものを色ごとに分けなければならない。


 最後に、白い試し水を表面と底から取る。


 表面が透明でも、底に色があれば使わない。


「封じる前に見るべきでした」


 ティナが言った。


「はい」


 ヴェナは答えた。


「封じ糸は、きれいにした証ではない」


 エルネが言った。


「きれいにしたと誰かが判断した後で、開けられていないことを示すだけです」


 封じは、過去の手順を正しくするものではない。


 間違った状態のまま封じれば、間違いも守られる。


     *


 新しい仮手順が木札へ増えた。


 一、染料壺は、表面と底から別々に試し水を取る。


 二、試し柄杓を表面用と底用に分ける。


 三、攪拌棒、柄杓、刷毛は、用途と色を札と刻みで分ける。


 四、共用の洗い道具を、濃色壺へ使わない。


 五、壺洗いは、洗った者、使った道具、戻した者を残す。


 六、試し布は表面だけでなく、底を混ぜた色も取る。


 七、封じ糸を掛ける前に、染め場の頭が底色を確認する。


 八、違う色が混じった染料は、元の色名で出さない。


 バルネが染め場へ来て、木札を読んだ。


「長い」


「はい」


 エルネが答えた。


「染め場は、元から長い」


 ヴェナが言った。


「さらに長くなります」


「守れるか」


「三度の市日で試します」


 バルネは頷いた。


「石へ残すなら」


 エルネは壺を見た。


「封じる前に、底を見ること」


「封じた後ではなく」


「前です」


「短いな」


「封じ糸が正しくても、中身が正しいとは限りません」


     *


 夕方、ミサは染め道具へ札を結んでいた。


 藍用。


 赤用。


 黄用。


 濃色用。


 白試し水用。


 文字だけではない。


 刻みも入れる。


 暗い染め場で、濡れた手でも分かるようにする。


「これは二つ刻み」


 ミサが言った。


「赤用」


 ナナが答える。


「これは三つ」


「藍用」


「これは横一本」


「底の試し柄杓」


「表面は」


「縦一本」


 ティナが答えた。


 ミサは頷いた。


「戻す前に、誰が洗ったか言ってください」


「はい」


「乾いていてもです」


「はい」


「元の試し布を捨てないでください」


「はい」


 前より、返事が揃っていた。


     *


 暮雨色の見本布は、染め場の入口へ掛けられた。


 藍灰ではない。


 赤紫でもない。


 失敗から生まれた色。


 だが、失敗を隠さず、別の名で出すなら商品になる。


 最初に買ったのは、石工組合だった。


 濡れた石壁の色に似ているから、作業外套の縁へ使うという。


 ヴェナは笑わなかった。


 ただ、見本札へ一行を足した。


 ――旧赤紫沈み混入。藍灰契約には使用不可。


 売れたから、失敗が消えるわけではない。


 残すべきことは残す。


     *


 染め場の灯りが落ちる前に、エルネは封じられた壺を見た。


 封じ糸は切れていない。


 壺札も正しい。


 表面の色も合っている。


 それでも、底には違う色が沈むことがある。


 封じは、正しさそのものではない。


 誰かが確かめた後、変わっていないことを示すだけだ。


 確かめ方が足りなければ、足りないまま守られる。


 だから見る。


 封じ糸だけではなく。


 表面だけではなく。


 攪拌棒。


 試し布。


 洗った者。


 戻した者。


 そして、壺の底。


 封じたはずの染料壺に、違う色の沈みがないかを。

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