7綛目 封じたはずの染料壺に、違う色の沈みがある
「封じ糸は切れていません」
染め場の女頭ヴェナは、そう言った。
声は低かった。
怒っている時の声だった。
封じ糸。
壺札。
色見本。
開けた日。
閉じた日。
使った染料。
足した水。
火へ掛けた回数。
どれも合っている。
それなのに、染料壺の底には、違う色が沈んでいた。
*
問題になった壺は、藍灰の染料壺だった。
藍ではない。
灰でもない。
青へ少しだけ灰を混ぜた、雨前の空のような色。
細雨工房では、外套の縁や荷覆いの印糸へ使う。
濃すぎれば重く見える。
薄すぎれば汚れた白に見える。
色合わせが難しい。
だから一度に多く作り、数日のうちに使う。
使い終われば、壺口を布で覆う。
封じ糸を回す。
壺札を結ぶ。
次に開ける者が、前と同じ色であることを確かめる。
今回もそうされていた。
封じ糸は正しい。
壺札も正しい。
表面の色も、見本布と合っている。
「なら、何が違うのですか」
契約倉番のメルダが聞いた。
染め手のティナが、試し布を差し出した。
上半分は藍灰。
下半分は赤紫。
「最初は藍灰でした」
ティナが言った。
「底へ近づくほど、色が変わりました」
「混ぜたのですか」
「混ぜました」
「何で」
「いつもの攪拌棒です」
エルネは、試し布を見た。
上は正しい。
下は違う。
壺の中で、色が二つに分かれている。
表面だけ見れば、何もおかしくない。
底を動かした時だけ、違う色が出る。
「誰かが後から赤を入れた」
メルダが言った。
「封じ糸は切れていません」
ヴェナが答えた。
「では、封じる前に」
「それも考えました」
「誰が最後に使いましたか」
「ナナです」
呼ばれた若い染め手が、すぐに前へ出た。
女性のアラクネ。
多脚の先に、淡い青の染みが残っている。
「藍灰を使いましたか」
エルネが聞いた。
「使いました」
「赤紫も」
「前の日に、別の壺で」
「この壺へ入れましたか」
「入れていません」
「本当に」
「はい」
ナナは答えた。
声は小さい。
だが、逃げなかった。
*
エルネは壺を見た。
大きい。
腰の高さほどある。
内側は暗い。
表面だけなら見える。
底までは見えない。
「試し柄杓を」
エルネが言った。
ミサが動いた。
第6綛目から、調べる時の使いを任されている。
「どの柄杓ですか」
「藍灰用」
「一本ですか」
「二本。表面と底で分けます」
「分けた札も」
「お願いします」
ミサは染め場の棚へ行き、二本の柄杓と二枚の木札を持ってきた。
余計なものはない。
足りないものもない。
「触らないでください」
壺のそばへ寄ろうとした若い染め手へ、ミサが言った。
「動かさないでください」
壺台へ手を掛けた運び手が止まる。
「元の試し布も捨てないでください」
ティナが頷いた。
エルネは、自分では壺へ触れなかった。
ティナに表面から一杯取らせる。
藍灰。
正しい。
次に、別の柄杓を底まで沈める。
ゆっくり上げる。
赤紫が混じっている。
完全な赤ではない。
古い紫。
褐色に近い沈み。
「染料そのものが違うのではありません」
エルネが言った。
「沈殿です」
「何の」
ヴェナが聞いた。
「前に使った色の」
*
藍灰の壺は、もともと何に使われていたか。
壺札をめくる。
今の札。
その前。
さらに前。
三つ前の札に、赤紫とある。
婚礼布の縁。
祭礼幕。
夜市場の印布。
濃い赤紫。
「洗ったはずです」
ナナが言った。
「誰が」
「私です」
「どのように」
「残りを別壺へ移しました。湯を入れて、柄杓で回して、二度捨てました」
「底を擦りましたか」
「長柄箒で」
「その箒は」
ミサが取りに行こうとした。
「待って」
エルネが止めた。
「誰も触らないでください」
ミサはすぐに言い直した。
「長柄箒を動かさないでください」
染め場の隅に、三本の長柄箒があった。
藍。
赤。
無印。
「どれを使いました」
ナナが指した。
「無印です」
「無印は何用ですか」
ヴェナが答えた。
「空いた壺を洗う共用です」
よくない。
とてもよくない。
*
無印の長柄箒は、乾いていた。
表面に色はない。
だが、柄の根元と束の内側に、赤紫の粉が残っていた。
水に濡らす。
白い試し布へ押し当てる。
淡い紫が移る。
「これですか」
メルダが聞いた。
「これだけではありません」
エルネは答えた。
「箒の色が壺底へ入ったなら、もっと広く混じります」
「では」
「底へ残っていた色を、箒が十分に落とせなかった」
古い染料。
壺底の小さな傷。
そこへ沈んだ赤紫。
湯を入れる。
回す。
捨てる。
表面と中ほどはきれいになる。
だが、底の傷へ入った沈みは残る。
無印の箒は、束の外側しか底へ当たらなかった。
傷の奥まで届かない。
そこへ新しい藍灰を入れた。
上は藍灰。
下には赤紫。
「でも、最初に混ぜた時に出るはずです」
ティナが言った。
「最初は、何で混ぜましたか」
「攪拌棒です」
「どの棒を」
沈黙。
ナナが棚を見た。
棒は四本あった。
長い。
短い。
平たい。
丸い。
色札は付いていない。
「これです」
ナナが平たい棒を指した。
「前の日も同じですか」
「覚えていません」
「洗いましたか」
「洗いました」
「誰が」
「私です」
「戻したのは」
「ティナです」
ティナが顔を上げた。
「私は、乾いているのを見て棚へ戻しました」
「底を擦ったかは」
「見ていません」
「試し布は」
「ナナがしました」
「どこから取りました」
ナナは、壺の表面を指した。
表面。
表面だけ。
*
誰か一人が悪いのではなかった。
ナナは壺を洗った。
だが、底の傷まで確かめなかった。
共用の長柄箒を使った。
攪拌棒も洗った。
だが、どの棒を使ったか札を残さなかった。
ティナは乾いた棒を棚へ戻した。
だが、洗い方までは確かめなかった。
ヴェナは封じ糸と壺札を確認した。
だが、封じる前の底色を見なかった。
試し布は取った。
だが、表面からだけだった。
全員が、自分の仕事をしたつもりだった。
それでも、赤紫は底へ残った。
「犯人はいません」
エルネは言った。
メルダが少しだけ眉を寄せる。
「またですか」
「はい」
「では、誰の責任ですか」
ヴェナが答えた。
「染め場です」
声は低いままだった。
だが、怒りの向きが変わっていた。
誰か一人へではない。
自分たちの手順へ向いている。
「ナナだけではない」
ヴェナは言った。
「ティナだけでもない。私も通した」
ナナの多脚が少しだけ緩んだ。
*
問題の藍灰は、正規色としては使えなかった。
捨てるには量が多い。
そのまま流せば、染め捨て場へ負担がかかる。
井戸より低く、畑と水路から離れた場所へ運ぶとしても、使えるものまで捨てる理由にはならない。
ヴェナは試し染めを行った。
白糸。
灰糸。
薄茶糸。
三つへ染める。
藍灰に赤紫が沈んだ色。
混ぜれば、雨上がりの石壁に似た鈍い紫灰になる。
「売れますか」
ティナが聞いた。
「藍灰としては売れない」
ヴェナは答えた。
「別の色としてなら」
「名は」
ミサが聞いた。
ヴェナは少し考えた。
「暮雨色」
「暮れの雨」
「失敗した色を、正しい色のふりで出さないための名だ」
失敗を隠さない。
別の色として札を付ける。
見本布も作る。
正規の藍灰契約へは使わない。
荷主へ見せ、承知した者だけに売る。
それなら、嘘にはならない。
*
再現試験が行われた。
一つ目。
赤紫を使った壺を、湯だけで二度洗う。
二つ目。
湯と灰で洗い、共用箒を使う。
三つ目。
湯と灰で洗い、底専用の硬い刷毛を使う。
四つ目。
洗ったあと、白い試し水を底へ入れ、表面と底から別々に取る。
正確な時計は使わない。
湯が指を入れられるまで冷める間。
火番が炭を一度足すまで。
染め場の風口が二度開閉するまで。
工房で測れる順で試す。
結果は明らかだった。
湯だけでは、底の傷へ色が残る。
共用箒では、前の色を持ち込むことがある。
底専用の刷毛なら、傷へ届く。
ただし、刷毛そのものを色ごとに分けなければならない。
最後に、白い試し水を表面と底から取る。
表面が透明でも、底に色があれば使わない。
「封じる前に見るべきでした」
ティナが言った。
「はい」
ヴェナは答えた。
「封じ糸は、きれいにした証ではない」
エルネが言った。
「きれいにしたと誰かが判断した後で、開けられていないことを示すだけです」
封じは、過去の手順を正しくするものではない。
間違った状態のまま封じれば、間違いも守られる。
*
新しい仮手順が木札へ増えた。
一、染料壺は、表面と底から別々に試し水を取る。
二、試し柄杓を表面用と底用に分ける。
三、攪拌棒、柄杓、刷毛は、用途と色を札と刻みで分ける。
四、共用の洗い道具を、濃色壺へ使わない。
五、壺洗いは、洗った者、使った道具、戻した者を残す。
六、試し布は表面だけでなく、底を混ぜた色も取る。
七、封じ糸を掛ける前に、染め場の頭が底色を確認する。
八、違う色が混じった染料は、元の色名で出さない。
バルネが染め場へ来て、木札を読んだ。
「長い」
「はい」
エルネが答えた。
「染め場は、元から長い」
ヴェナが言った。
「さらに長くなります」
「守れるか」
「三度の市日で試します」
バルネは頷いた。
「石へ残すなら」
エルネは壺を見た。
「封じる前に、底を見ること」
「封じた後ではなく」
「前です」
「短いな」
「封じ糸が正しくても、中身が正しいとは限りません」
*
夕方、ミサは染め道具へ札を結んでいた。
藍用。
赤用。
黄用。
濃色用。
白試し水用。
文字だけではない。
刻みも入れる。
暗い染め場で、濡れた手でも分かるようにする。
「これは二つ刻み」
ミサが言った。
「赤用」
ナナが答える。
「これは三つ」
「藍用」
「これは横一本」
「底の試し柄杓」
「表面は」
「縦一本」
ティナが答えた。
ミサは頷いた。
「戻す前に、誰が洗ったか言ってください」
「はい」
「乾いていてもです」
「はい」
「元の試し布を捨てないでください」
「はい」
前より、返事が揃っていた。
*
暮雨色の見本布は、染め場の入口へ掛けられた。
藍灰ではない。
赤紫でもない。
失敗から生まれた色。
だが、失敗を隠さず、別の名で出すなら商品になる。
最初に買ったのは、石工組合だった。
濡れた石壁の色に似ているから、作業外套の縁へ使うという。
ヴェナは笑わなかった。
ただ、見本札へ一行を足した。
――旧赤紫沈み混入。藍灰契約には使用不可。
売れたから、失敗が消えるわけではない。
残すべきことは残す。
*
染め場の灯りが落ちる前に、エルネは封じられた壺を見た。
封じ糸は切れていない。
壺札も正しい。
表面の色も合っている。
それでも、底には違う色が沈むことがある。
封じは、正しさそのものではない。
誰かが確かめた後、変わっていないことを示すだけだ。
確かめ方が足りなければ、足りないまま守られる。
だから見る。
封じ糸だけではなく。
表面だけではなく。
攪拌棒。
試し布。
洗った者。
戻した者。
そして、壺の底。
封じたはずの染料壺に、違う色の沈みがないかを。




