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アラクネ・ミステリー 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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6/10

6綛目 薬包みの白糸に、薬ではない匂いが一つある

「毒ではありません」


 薬包み場の頭マレナは、そう言った。


 言い切る声だった。


 薬包み場では、言い切らなければならない時がある。


 この包みは使える。


 これは使えない。


 この糸は薬へ触れてよい。


 これは触れてはならない。


 曖昧なまま荷を出せば、困るのは薬師ではない。


 熱のある者。


 傷を負った者。


 腹を壊した子。


 夜中に薬を待つ者である。


 だから、マレナは言い切った。


「毒ではありません」


 契約倉番のメルダは、ほっとしなかった。


「では、何ですか」


「それが分かりません」


 言い切った直後に、分からないとも言った。


 エルネは、その方がよいと思った。


 分からないことを、分かった顔で包む方が危ない。


     *


 台の上には、薬包み糸が六束あった。


 白い。


 細い。


 撚りは浅い。


 薬草袋や軟膏布を閉じるための糸である。


 強く締めすぎれば、包み紙が裂ける。


 弱ければ、中身がこぼれる。


 薬師が濡れた指で触れることもある。


 煎じ薬の湯気を受けることもある。


 だから、染めない。


 香りを付けない。


 油を引かない。


 虫除け粉も使わない。


 薬そのものの匂いを邪魔しないようにする。


 その白糸から、薬ではない匂いがした。


 甘い。


 少し重い。


 木の皮を焼いたような匂い。


 それだけなら、工房では珍しくない。


 木棚。


 乾燥枠。


 蝋。


 油。


 樹脂。


 どこにでもある。


 だが、薬包み糸に付いてよい匂いではない。


「誰が見つけましたか」


 エルネが聞いた。


「ミサです」


 マレナが答えた。


 呼ばれたのは、若い女性のアラクネだった。


 薬包み場で、糸札を運び、包み紙を数え、使い終えた見本糸を分ける仕事をしている。


 名はミサ。


 まだ正式な文様見ではない。


 契約を判断する役でもない。


 ただ、よく気づく。


「どこで気づきましたか」


 エルネが聞いた。


「三束目を棚から下ろした時です」


「なぜ匂いを嗅いだのですか」


「嗅ごうとしたわけではありません」


 ミサは言った。


「糸札を結ぶ時、指に匂いが移りました」


「その指は、何か別のものへ触れていましたか」


「触れていません」


「石鹸は」


「朝の灰洗いだけです」


「香油は」


「使いません」


「薬草は」


「まだ触っていません」


 答えは短い。


 飾らない。


 エルネは、ミサの指を見た。


 細い糸くずが一本付いている。


 ミサは自分で取ろうとした。


「触らないで」


 エルネが言った。


 ミサの手が止まった。


「そのままにしてください」


「はい」


「マレナ。見本布を」


 マレナが白い小布を出した。


 エルネは、自分では触れず、ミサに指を軽く押し当てさせた。


 布に、淡い黄が移った。


 匂いも残った。


 油である。


 だが、食用油ではない。


 薬油でもない。


 乾燥枠や木箱へ塗る、虫避け樹脂を混ぜた保護油に近い。


「薬包み糸へ油は使いませんね」


「使いません」


 マレナが答えた。


「では、どこで付きました」


 メルダが聞いた。


 誰も答えなかった。


     *


 六束のうち、匂いがあるのは三束目と四束目だけだった。


 一束目。


 匂いなし。


 二束目。


 匂いなし。


 三束目。


 甘い樹脂臭。


 四束目。


 同じ。


 五束目。


 匂いなし。


 六束目。


 匂いなし。


 同じ日に洗われた糸。


 同じ水。


 同じ灰。


 同じ乾燥場。


 同じ薬包み場。


 それなのに、真ん中の二束だけ。


「途中で誰かが触った」


 メルダが言った。


「そうとは限りません」


 エルネは答えた。


「触らなくても、同じ場所へ置けば移ります」


「棚ですか」


「まだ分かりません」


 エルネは、ミサへ言った。


「三束目と四束目の糸札を持ってきてください」


「はい」


「それから、一束目、二束目、五束目、六束目も」


「全部ですか」


「全部です」


 ミサは走らなかった。


 薬包み場では、急ぐ時ほど走らない。


 多脚でも、糸束へぶつかれば終わる。


 八つの下肢を素早く運び、棚の間を抜ける。


 戻ってきた時、木札を順番どおりに並べた。


 一束目。


 二束目。


 三束目。


 四束目。


 五束目。


 六束目。


「乾燥枠の札を」


 エルネが言った。


 ミサはまた取りに行った。


 今度は、乾燥場の木札。


 その次は、洗い桶の札。


 その次は、糸を移した者の名札。


 エルネが頼むたび、ミサは持ってきた。


 余計なものは持ってこない。


 足りないものも持ってこない。


 マレナが途中で言った。


「この子は、走り使いではありません」


「はい」


 エルネは答えた。


「調べる手を増やしています」


 ミサは少しだけ胸を張った。


     *


 三束目と四束目だけ、乾燥枠が違った。


 一束目、二束目、五束目、六束目。


 白糸専用の細枠。


 三束目、四束目。


 予備の広枠。


「なぜ予備枠を」


 エルネが聞いた。


 マレナが乾燥札を読む。


「白糸専用枠の一本が折れたからです」


「いつ」


「前の市日の翌朝」


「誰が替えました」


「私です」


 マレナは隠さなかった。


「広枠は、普段何に使いますか」


「空けてあります」


「本当に」


 マレナは答えかけて、止まった。


 ミサが小さく言った。


「冬布の端を干していました」


 マレナが振り返った。


「いつ」


「前の雨のあとです。倉へ戻す前に、湿りを抜いていました」


「なぜ札がない」


「試し布だから、荷札はいらないと」


「誰が言った」


「私ではありません」


 ミサは首を振った。


「古糸倉から来た人です。名前は分かりません」


 よくない。


 だが、悪意とは限らない。


「冬布には、何を使いますか」


 エルネが聞いた。


「虫避け油を木枠へ薄く」


 マレナが答えた。


 全員が広枠を見た。


     *


 予備の広枠は、乾燥場の壁に立てかけられていた。


 見た目は乾いている。


 触っても、手へ油は付かない。


 匂いも弱い。


「これなら気づかない」


 メルダが言った。


「はい」


 エルネは枠の横木を見た。


 木目の深いところだけ、淡く黄ばんでいる。


 表面は拭かれている。


 だが、木の中へ入った油は、湿りを受けるとまた浮く。


 洗ったばかりの白糸。


 まだ湿っている。


 それを広枠へ掛ける。


 湿りが木へ入る。


 木の奥の油が表へ戻る。


 糸へ移る。


 三束目。


 四束目。


 そこだけ匂いが付く。


「誰かが糸へ油を塗ったのではありません」


 エルネは言った。


「油を使った枠へ、湿った糸を掛けた」


「では、犯人はいない」


 メルダが言った。


「悪意のある者はいません」


 エルネは答えた。


「でも、手順を抜いた者はいます」


 マレナが目を伏せた。


「私です」


「予備枠を選んだことですか」


「はい」


「冬布を干した者は」


「試し布を一時的に掛けただけです。薬包み糸に使うとは知らなかった」


「札を残さなかった」


「はい」


「広枠を洗った者は」


「表だけ拭きました」


「誰が」


「私です」


 マレナは続けた。


「乾いていたので、使えると思いました」


 悪人はいない。


 嘘をついた者もいない。


 盗んだ者もいない。


 それでも薬包み糸は汚れた。


 事故は、悪意がなくても起こる。


 むしろ、皆が少しずつ正しいつもりの時ほど起こる。


     *


「六束すべて止めます」


 マレナが言った。


 メルダが驚いた。


「匂いがあるのは二束だけです」


「同じ洗い日です。移した手も同じです。分けきれません」


「捨てますか」


「まだです」


 エルネは言った。


「捨てる前に、原糸を残してください」


 ミサがすぐに動いた。


「どれを」


「三束目と四束目の外巻き。広枠に触れた側を切らずに、そのまま」


「触らない方がいいですか」


「はい。木札ごと別の布へ」


 ミサは、周囲の者へ言った。


「触らないでください」


 若い包み手が手を止める。


「動かさないでください」


 運び手が籠を下ろす。


「元の糸を捨てないでください」


 マレナが頷いた。


 ミサは命令する立場ではない。


 だが、調べるものを守るための言葉は言える。


 それでよい。


     *


 試しが行われた。


 汚れていない白糸。


 広枠へ触れた白糸。


 広枠を灰湯で洗った後の白糸。


 広枠を灰湯で洗い、乾かし、さらに熱い蒸気へ当てた後の白糸。


 四つを比べる。


 正確な時計はない。


 火番が炭を一度足す間。


 湯気が弱まり、もう一度水を足すまで。


 日陰の風が一巡するまで。


 工房で実際に測れる時間で試す。


 一度拭いただけでは、匂いが戻る。


 灰湯で洗っても、湿らせるとわずかに戻る。


 蒸気を当て、乾かし、再び湿らせる。


 それでも、木目の深いところから匂いが出た。


「この枠は、薬包み糸には戻せません」


 マレナが言った。


「はい」


 エルネは答えた。


「冬布専用にしてください」


「印を変えます」


「色ではなく、刻みも」


「なぜ」


「暗い場所では色が見えません」


 広枠の端へ、三つの深い刻みを入れる。


 冬布。


 虫避け油あり。


 薬包み糸には使わない。


 誰が見ても分かるようにする。


     *


 汚れた二束は、薬包み糸としては使えなかった。


 だが、捨てなかった。


 虫避け油の匂いが問題にならない、倉内の束ね糸へ回された。


 残り四束も、薬師へ出す前に別の乾燥枠で湿り戻しを行い、匂いが出ないことを確かめた。


 それから出荷した。


 遅れた。


 薬師から苦情も来た。


 だが、汚れた糸を薬包みへ使うよりよい。


「犯人を決めないのですか」


 メルダが聞いた。


「決めません」


 エルネは答えた。


「マレナが予備枠を使った。冬布の者が札を残さなかった。枠を洗った者が表だけ拭いた。誰も、薬包み糸を汚そうとはしていません」


「では、誰の責任ですか」


「手順を決める工房の責任です」


 バルネが答えた。


 いつからいたのか、乾燥場の入口に立っていた。


「個人の失敗は残す。だが、悪人を作って終わらせるな」


 マレナが頭を下げた。


     *


 新しい仮手順が木札へ増えた。


 一、薬包み糸の乾燥枠は専用とする。


 二、油、樹脂、香り、染めに触れた枠は、薬包み糸へ戻さない。


 三、予備枠にも用途札を付ける。


 四、色印だけでなく、暗所でも分かる刻みを入れる。


 五、一時使用でも、使った布と処理を木札へ残す。


 六、湿った糸は、枠の表面だけでなく木目の中の油も引き出すものとして扱う。


 七、異臭がある時は、元の糸、枠、札を動かさず残す。


 八、異臭のない束も、同じ洗い日なら一度止める。


 バルネは木札を見た。


「長い」


「はい」


 エルネは答えた。


「石へ残すなら」


「薬包み糸の枠へ油を入れないこと」


「短いな」


「短い原則を守るために、長い手順があります」


 すぐには石へ刻まない。


 三度の市日で試す。


 枠が足りるか。


 洗い場が詰まらないか。


 夜番でも刻みが分かるか。


 それを確かめる。


     *


 夕方、ミサは乾燥枠の札を並べ直していた。


 白糸専用。


 染め糸。


 冬布。


 試し布。


 廃糸。


 札だけではない。


 刻みも触って確かめる。


「これは三つ」


 ミサが言った。


「冬布」


「はい」


 マレナが答えた。


「これは二つ」


「染め糸」


「これは刻みなし」


「白糸専用」


「刻みなしでいいのですか」


 マレナは止まった。


「よくないですね」


「はい」


「白糸にも刻みを入れましょう」


 ミサは、エルネを見た。


 エルネは頷いた。


 見つけるのは、特別な目だけではない。


 札を運ぶ者。


 枠を触る者。


 糸を結ぶ者。


 指へ移った匂いを、そのままにしなかった者。


 そういう者が、事故を止める。


「ミサ」


 エルネが呼んだ。


「はい」


「次から、調べる時の使いを頼みます」


「何を持ってくればいいですか」


「必要なものを言います」


「それだけですか」


「それが大事です」


 ミサは少し考えてから、頷いた。


「では、勝手に増やしません」


「はい」


「でも、足りないと思ったら聞きます」


「はい」


「触らないで、と言ってもいいですか」


「言ってください」


 ミサは、今度ははっきり頷いた。


     *


 薬包み場の灯りが落ちる前に、エルネは白糸を見た。


 白いから、清いとは限らない。


 匂いが弱いから、安全とも限らない。


 悪意がないから、事故が起きないわけでもない。


 誰か一人の手だけを探しても、見つからないことがある。


 枠。


 札。


 洗い方。


 一時使用。


 湿り。


 木目の奥。


 正しいつもりの小さな省略。


 それらが重なって、薬ではない匂いを糸へ移す。


 だから見る。


 犯人だけではなく。


 手順の流れを。


 薬包みの白糸に、薬ではない匂いが一つ残っていないかを。

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