6綛目 薬包みの白糸に、薬ではない匂いが一つある
「毒ではありません」
薬包み場の頭マレナは、そう言った。
言い切る声だった。
薬包み場では、言い切らなければならない時がある。
この包みは使える。
これは使えない。
この糸は薬へ触れてよい。
これは触れてはならない。
曖昧なまま荷を出せば、困るのは薬師ではない。
熱のある者。
傷を負った者。
腹を壊した子。
夜中に薬を待つ者である。
だから、マレナは言い切った。
「毒ではありません」
契約倉番のメルダは、ほっとしなかった。
「では、何ですか」
「それが分かりません」
言い切った直後に、分からないとも言った。
エルネは、その方がよいと思った。
分からないことを、分かった顔で包む方が危ない。
*
台の上には、薬包み糸が六束あった。
白い。
細い。
撚りは浅い。
薬草袋や軟膏布を閉じるための糸である。
強く締めすぎれば、包み紙が裂ける。
弱ければ、中身がこぼれる。
薬師が濡れた指で触れることもある。
煎じ薬の湯気を受けることもある。
だから、染めない。
香りを付けない。
油を引かない。
虫除け粉も使わない。
薬そのものの匂いを邪魔しないようにする。
その白糸から、薬ではない匂いがした。
甘い。
少し重い。
木の皮を焼いたような匂い。
それだけなら、工房では珍しくない。
木棚。
乾燥枠。
蝋。
油。
樹脂。
どこにでもある。
だが、薬包み糸に付いてよい匂いではない。
「誰が見つけましたか」
エルネが聞いた。
「ミサです」
マレナが答えた。
呼ばれたのは、若い女性のアラクネだった。
薬包み場で、糸札を運び、包み紙を数え、使い終えた見本糸を分ける仕事をしている。
名はミサ。
まだ正式な文様見ではない。
契約を判断する役でもない。
ただ、よく気づく。
「どこで気づきましたか」
エルネが聞いた。
「三束目を棚から下ろした時です」
「なぜ匂いを嗅いだのですか」
「嗅ごうとしたわけではありません」
ミサは言った。
「糸札を結ぶ時、指に匂いが移りました」
「その指は、何か別のものへ触れていましたか」
「触れていません」
「石鹸は」
「朝の灰洗いだけです」
「香油は」
「使いません」
「薬草は」
「まだ触っていません」
答えは短い。
飾らない。
エルネは、ミサの指を見た。
細い糸くずが一本付いている。
ミサは自分で取ろうとした。
「触らないで」
エルネが言った。
ミサの手が止まった。
「そのままにしてください」
「はい」
「マレナ。見本布を」
マレナが白い小布を出した。
エルネは、自分では触れず、ミサに指を軽く押し当てさせた。
布に、淡い黄が移った。
匂いも残った。
油である。
だが、食用油ではない。
薬油でもない。
乾燥枠や木箱へ塗る、虫避け樹脂を混ぜた保護油に近い。
「薬包み糸へ油は使いませんね」
「使いません」
マレナが答えた。
「では、どこで付きました」
メルダが聞いた。
誰も答えなかった。
*
六束のうち、匂いがあるのは三束目と四束目だけだった。
一束目。
匂いなし。
二束目。
匂いなし。
三束目。
甘い樹脂臭。
四束目。
同じ。
五束目。
匂いなし。
六束目。
匂いなし。
同じ日に洗われた糸。
同じ水。
同じ灰。
同じ乾燥場。
同じ薬包み場。
それなのに、真ん中の二束だけ。
「途中で誰かが触った」
メルダが言った。
「そうとは限りません」
エルネは答えた。
「触らなくても、同じ場所へ置けば移ります」
「棚ですか」
「まだ分かりません」
エルネは、ミサへ言った。
「三束目と四束目の糸札を持ってきてください」
「はい」
「それから、一束目、二束目、五束目、六束目も」
「全部ですか」
「全部です」
ミサは走らなかった。
薬包み場では、急ぐ時ほど走らない。
多脚でも、糸束へぶつかれば終わる。
八つの下肢を素早く運び、棚の間を抜ける。
戻ってきた時、木札を順番どおりに並べた。
一束目。
二束目。
三束目。
四束目。
五束目。
六束目。
「乾燥枠の札を」
エルネが言った。
ミサはまた取りに行った。
今度は、乾燥場の木札。
その次は、洗い桶の札。
その次は、糸を移した者の名札。
エルネが頼むたび、ミサは持ってきた。
余計なものは持ってこない。
足りないものも持ってこない。
マレナが途中で言った。
「この子は、走り使いではありません」
「はい」
エルネは答えた。
「調べる手を増やしています」
ミサは少しだけ胸を張った。
*
三束目と四束目だけ、乾燥枠が違った。
一束目、二束目、五束目、六束目。
白糸専用の細枠。
三束目、四束目。
予備の広枠。
「なぜ予備枠を」
エルネが聞いた。
マレナが乾燥札を読む。
「白糸専用枠の一本が折れたからです」
「いつ」
「前の市日の翌朝」
「誰が替えました」
「私です」
マレナは隠さなかった。
「広枠は、普段何に使いますか」
「空けてあります」
「本当に」
マレナは答えかけて、止まった。
ミサが小さく言った。
「冬布の端を干していました」
マレナが振り返った。
「いつ」
「前の雨のあとです。倉へ戻す前に、湿りを抜いていました」
「なぜ札がない」
「試し布だから、荷札はいらないと」
「誰が言った」
「私ではありません」
ミサは首を振った。
「古糸倉から来た人です。名前は分かりません」
よくない。
だが、悪意とは限らない。
「冬布には、何を使いますか」
エルネが聞いた。
「虫避け油を木枠へ薄く」
マレナが答えた。
全員が広枠を見た。
*
予備の広枠は、乾燥場の壁に立てかけられていた。
見た目は乾いている。
触っても、手へ油は付かない。
匂いも弱い。
「これなら気づかない」
メルダが言った。
「はい」
エルネは枠の横木を見た。
木目の深いところだけ、淡く黄ばんでいる。
表面は拭かれている。
だが、木の中へ入った油は、湿りを受けるとまた浮く。
洗ったばかりの白糸。
まだ湿っている。
それを広枠へ掛ける。
湿りが木へ入る。
木の奥の油が表へ戻る。
糸へ移る。
三束目。
四束目。
そこだけ匂いが付く。
「誰かが糸へ油を塗ったのではありません」
エルネは言った。
「油を使った枠へ、湿った糸を掛けた」
「では、犯人はいない」
メルダが言った。
「悪意のある者はいません」
エルネは答えた。
「でも、手順を抜いた者はいます」
マレナが目を伏せた。
「私です」
「予備枠を選んだことですか」
「はい」
「冬布を干した者は」
「試し布を一時的に掛けただけです。薬包み糸に使うとは知らなかった」
「札を残さなかった」
「はい」
「広枠を洗った者は」
「表だけ拭きました」
「誰が」
「私です」
マレナは続けた。
「乾いていたので、使えると思いました」
悪人はいない。
嘘をついた者もいない。
盗んだ者もいない。
それでも薬包み糸は汚れた。
事故は、悪意がなくても起こる。
むしろ、皆が少しずつ正しいつもりの時ほど起こる。
*
「六束すべて止めます」
マレナが言った。
メルダが驚いた。
「匂いがあるのは二束だけです」
「同じ洗い日です。移した手も同じです。分けきれません」
「捨てますか」
「まだです」
エルネは言った。
「捨てる前に、原糸を残してください」
ミサがすぐに動いた。
「どれを」
「三束目と四束目の外巻き。広枠に触れた側を切らずに、そのまま」
「触らない方がいいですか」
「はい。木札ごと別の布へ」
ミサは、周囲の者へ言った。
「触らないでください」
若い包み手が手を止める。
「動かさないでください」
運び手が籠を下ろす。
「元の糸を捨てないでください」
マレナが頷いた。
ミサは命令する立場ではない。
だが、調べるものを守るための言葉は言える。
それでよい。
*
試しが行われた。
汚れていない白糸。
広枠へ触れた白糸。
広枠を灰湯で洗った後の白糸。
広枠を灰湯で洗い、乾かし、さらに熱い蒸気へ当てた後の白糸。
四つを比べる。
正確な時計はない。
火番が炭を一度足す間。
湯気が弱まり、もう一度水を足すまで。
日陰の風が一巡するまで。
工房で実際に測れる時間で試す。
一度拭いただけでは、匂いが戻る。
灰湯で洗っても、湿らせるとわずかに戻る。
蒸気を当て、乾かし、再び湿らせる。
それでも、木目の深いところから匂いが出た。
「この枠は、薬包み糸には戻せません」
マレナが言った。
「はい」
エルネは答えた。
「冬布専用にしてください」
「印を変えます」
「色ではなく、刻みも」
「なぜ」
「暗い場所では色が見えません」
広枠の端へ、三つの深い刻みを入れる。
冬布。
虫避け油あり。
薬包み糸には使わない。
誰が見ても分かるようにする。
*
汚れた二束は、薬包み糸としては使えなかった。
だが、捨てなかった。
虫避け油の匂いが問題にならない、倉内の束ね糸へ回された。
残り四束も、薬師へ出す前に別の乾燥枠で湿り戻しを行い、匂いが出ないことを確かめた。
それから出荷した。
遅れた。
薬師から苦情も来た。
だが、汚れた糸を薬包みへ使うよりよい。
「犯人を決めないのですか」
メルダが聞いた。
「決めません」
エルネは答えた。
「マレナが予備枠を使った。冬布の者が札を残さなかった。枠を洗った者が表だけ拭いた。誰も、薬包み糸を汚そうとはしていません」
「では、誰の責任ですか」
「手順を決める工房の責任です」
バルネが答えた。
いつからいたのか、乾燥場の入口に立っていた。
「個人の失敗は残す。だが、悪人を作って終わらせるな」
マレナが頭を下げた。
*
新しい仮手順が木札へ増えた。
一、薬包み糸の乾燥枠は専用とする。
二、油、樹脂、香り、染めに触れた枠は、薬包み糸へ戻さない。
三、予備枠にも用途札を付ける。
四、色印だけでなく、暗所でも分かる刻みを入れる。
五、一時使用でも、使った布と処理を木札へ残す。
六、湿った糸は、枠の表面だけでなく木目の中の油も引き出すものとして扱う。
七、異臭がある時は、元の糸、枠、札を動かさず残す。
八、異臭のない束も、同じ洗い日なら一度止める。
バルネは木札を見た。
「長い」
「はい」
エルネは答えた。
「石へ残すなら」
「薬包み糸の枠へ油を入れないこと」
「短いな」
「短い原則を守るために、長い手順があります」
すぐには石へ刻まない。
三度の市日で試す。
枠が足りるか。
洗い場が詰まらないか。
夜番でも刻みが分かるか。
それを確かめる。
*
夕方、ミサは乾燥枠の札を並べ直していた。
白糸専用。
染め糸。
冬布。
試し布。
廃糸。
札だけではない。
刻みも触って確かめる。
「これは三つ」
ミサが言った。
「冬布」
「はい」
マレナが答えた。
「これは二つ」
「染め糸」
「これは刻みなし」
「白糸専用」
「刻みなしでいいのですか」
マレナは止まった。
「よくないですね」
「はい」
「白糸にも刻みを入れましょう」
ミサは、エルネを見た。
エルネは頷いた。
見つけるのは、特別な目だけではない。
札を運ぶ者。
枠を触る者。
糸を結ぶ者。
指へ移った匂いを、そのままにしなかった者。
そういう者が、事故を止める。
「ミサ」
エルネが呼んだ。
「はい」
「次から、調べる時の使いを頼みます」
「何を持ってくればいいですか」
「必要なものを言います」
「それだけですか」
「それが大事です」
ミサは少し考えてから、頷いた。
「では、勝手に増やしません」
「はい」
「でも、足りないと思ったら聞きます」
「はい」
「触らないで、と言ってもいいですか」
「言ってください」
ミサは、今度ははっきり頷いた。
*
薬包み場の灯りが落ちる前に、エルネは白糸を見た。
白いから、清いとは限らない。
匂いが弱いから、安全とも限らない。
悪意がないから、事故が起きないわけでもない。
誰か一人の手だけを探しても、見つからないことがある。
枠。
札。
洗い方。
一時使用。
湿り。
木目の奥。
正しいつもりの小さな省略。
それらが重なって、薬ではない匂いを糸へ移す。
だから見る。
犯人だけではなく。
手順の流れを。
薬包みの白糸に、薬ではない匂いが一つ残っていないかを。




