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アラクネ・ミステリー 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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5/10

5綛目 閉じた祖糸箱の中に、短くなった始まり糸が一筋ある

「祖糸箱は開けられていません」


 古糸倉の帳役ノイラは、そう言った。


 声は落ち着いていた。


 落ち着きすぎている声だった。


 契約倉番のメルダは、古い木札を一枚ずつ並べている。


 箱を開けた日。


 立ち会った者。


 取り出した糸。


 戻した糸。


 箱の鍵を預かった者。


 どれも欠けていない。


 最後に祖糸箱を開けたのは、半月前。


 細雨工房の母系織屋家が、工房の始まりを確かめる年ごとの儀礼を行った時である。


 それ以降、開閉札はない。


 鍵札も合っている。


 封じ糸も切れていない。


 箱の外巻きも乱れていない。


 それなのに、箱の中に納められた「始まり糸の束」が短くなっていた。


     *


 始まり糸の束。


 繭ではない。


 卵でもない。


 祖先の殻でもない。


 第13文化圏アラクネの工房が最初に立った時、最初の織り手たちがそれぞれの糸を持ち寄り、由来と責任を示すために束ね、封じた古い繊維記録である。


 一本の糸ではない。


 何代もの糸が重なっている。


 外巻き。


 古い包み。


 封じ糸。


 内側の束。


 どの母系織屋家が最初に加わったか。


 どの技がどこから来たか。


 どの工房が火事で絶え、どの工房が別の工房へ技を渡したか。


 そうしたことを、糸の重なりと札で残している。


 日々の契約には使わない。


 婚礼布にも使わない。


 売らない。


 切らない。


 増やさない。


 工房の由来を確かめる時だけ開く。


 変えてはならない原則の一つとして、石板にも短く刻まれている。


 ――始まり糸は、始まりを示すために残す。


 それだけである。


 細かな扱いは、木札と糸札へ残される。


 箱を開けるのは、工房頭。


 古糸倉の鍵持ち。


 母系織屋家の立会人。


 三者が揃った時だけ。


 それが決まりだった。


「短くなったと分かるのですか」


 メルダが聞いた。


「分かります」


 ノイラは答えた。


「外巻きの重なりが一つ足りない」


 エルネは箱を見た。


 古い木箱。


 角は丸い。


 蝶番は青黒い。


 蓋には細雨工房の古い印。


 箱の中には、白、灰、薄茶、褪せた青の糸が重ねられている。


 見た目だけなら、何も変わっていない。


「どのくらい足りませんか」


 エルネが聞いた。


「手のひら半分ほどです」


「一本ですか」


「束の一部です」


「いつ気づきました」


「今朝です」


 ノイラの答えは早かった。


「なぜ今朝、箱を見たのですか」


「湿りを見る日でした」


 古い糸は、乾かしすぎても切れる。


 湿らせすぎても黴びる。


 だから箱を開けず、外側の匂い、木の湿り、封じ糸の張りを確かめる日がある。


 箱を開ける日ではない。


 それでもノイラは、中の束が短いと分かったと言った。


 よくない。


 とてもよくない。


     *


 工房頭のバルネが来た。


 八つの下肢を低く構え、祖糸箱の前で止まる。


「封じ糸は」


「切れていません」


 メルダが言った。


「鍵は」


「二本ともあります」


 ノイラが腰の鍵札を示した。


 祖糸箱には、二つの鍵がある。


 一つはバルネ。


 一つはノイラ。


 二本を別々の穴へ入れなければ、内側の止め金が外れない。


「俺の鍵は、ずっと工房頭室にあった」


 バルネが言った。


「夜番札にも、持ち出しはない」


「なら、開けられない」


 メルダが言った。


「開けられない箱の中身が、短くなっている」


 エルネは言った。


 ノイラの指が、わずかに動いた。


 古糸倉の帳役。


 祖糸箱の鍵持ち。


 古い糸の扱いに最も詳しい女。


 始まり糸の束が短くなったと最初に言った者。


 エルネは箱の蓋ではなく、底を見た。


 第3綛目で、箱は底から開けられた。


 だが今回は、底板に新しい木屑はない。


 木栓も動いていない。


 蝶番にも擦れはない。


 封じ糸も正しい。


 鍵穴の周りにも、削り跡はない。


「箱は開けられていません」


 エルネが言った。


 メルダが困った顔をした。


「では、なぜ」


「箱を開けなくても、糸へ触れられる場所があります」


     *


 祖糸箱の外巻きは、箱の中だけにあるのではない。


 箱を閉じたあと、封じ糸の一部を蓋の外へ回し、側面の小環へ通す。


 その糸は、箱の内側にある始まり糸の束へ直接つながってはいない。


 だが、外巻きの一部を、蓋の隙間から細く引き出して封じ糸の下へ添える。


 箱を開けずに、外巻きの湿りと傷みを確かめるためである。


 点検用の見本端。


 本来なら、手の指ほどの長さしか出さない。


 必要以上に引いてはならない。


 切ってはならない。


 戻してはならない。


 だが、細い木針で少しずつ引けば、外巻きの一部を蓋の隙間から取り出せる。


 箱を開けずに。


 封じ糸を切らずに。


 鍵を使わずに。


「見本端が長すぎます」


 エルネが言った。


 箱の側面に添えられた古い糸。


 本来なら指一節ほどで止まる。


 今は、その倍近い長さが外へ出ている。


「誰かが引いた」


 バルネが言った。


「はい」


「引いた分を切った」


「はい」


「外へ出た糸だけを」


「はい」


 箱は開けられていない。


 だから、開閉札は残らない。


 鍵も動かない。


 封じ糸も切れない。


 だが、始まり糸の外巻きは短くなる。


     *


「誰が見本端の扱いを知っていますか」


 エルネが聞いた。


 ノイラは答えなかった。


 バルネが言った。


「古糸倉の者なら知っている」


「全員ですか」


「いいや」


「木針で引き出せることまで知る者は」


 沈黙。


 メルダが木札をめくる。


 祖糸箱の湿り点検。


 外巻き見本端の確認。


 担当者。


 過去三年、すべて同じ名だった。


 ノイラ。


「ノイラ」


 バルネが呼んだ。


 ノイラは顔を上げた。


「始まり糸を取ったか」


 長い沈黙のあと、ノイラは頷いた。


「取りました」


 逃げなかった。


 言い訳を先にもしなかった。


 ただ、両手を膝の上へ置いた。


「どのくらい」


「手のひら半分ほどです」


「何のために」


 ノイラは、すぐには答えなかった。


「古い織り方を戻したかった」


     *


 細雨工房には、途絶えた文様がある。


 雨環文。


 細い輪が重なり、濡れた時だけ二重の円が浮く。


 昔は祭礼布へ使われた。


 だが、撚り方を知る織り手が亡くなり、二代前から作れなくなった。


 木札は残っている。


 糸図も残っている。


 だが、肝心の撚りの深さが分からない。


 どこで糸を休ませるか。


 どの湿りで戻すか。


 どうすれば輪が潰れないか。


 文字では足りない。


 ノイラは、始まり糸の束の外巻きに、雨環文の古い撚りが残っていると考えた。


「見本にしたかったのです」


 ノイラは言った。


「切って、ほどいて、撚りを数えれば戻せると思いました」


「誰に相談した」


「誰にも」


「なぜ」


「止められると思ったからです」


「止められることを、なぜした」


 ノイラの声が初めて揺れた。


「残したかったからです」


「始まり糸を減らして?」


「一部を使えば、雨環文を戻せると思いました」


「戻ったのか」


 ノイラは首を振った。


 取った糸は古すぎた。


 ほどいた時に数本が切れた。


 湿らせると撚りが崩れた。


 雨環文は戻らなかった。


 始まり糸だけが短くなった。


     *


「糸はどこにありますか」


 エルネが聞いた。


「古糸倉の奥です」


 ノイラは立った。


 逃げるためではない。


 案内するためだった。


 壁際の低い棚。


 木札束の下。


 小さな布包み。


 中には、短く切れた古い糸があった。


 白。


 灰。


 褪せた青。


 何本かは撚りをほどかれている。


 何本かは切れている。


 元の束へ戻せない。


 戻せば、取ったことを隠すことになる。


 新しい糸を足せば、さらに嘘になる。


「これは、始まり糸へ戻しません」


 エルネは言った。


 ノイラが目を閉じた。


「はい」


「別札を付けます」


「何と」


「雨環文復元のため、ノイラが無断で採取。復元失敗。残片」


 厳しい名だった。


 だが、正しい。


 失敗を隠さない。


 取ったことを消さない。


 残った糸も捨てない。


 それが、今できる最も小さい修復だった。


     *


 ノイラへの処分は、すぐに決まらなかった。


 始まり糸は売り物ではない。


 金額で損を測れない。


 盗んで他所へ売ったわけでもない。


 工房を裏切るために持ち出したのでもない。


 だが、無断で取った。


 切った。


 ほどいた。


 失敗するまで報告しなかった。


 重大だった。


 バルネは、古糸倉の者と母系織屋家の立会人を集めた。


 夜番の鐘を越えて評議が続いた。


 追放を求める者もいた。


 鍵持ちから外すだけでは軽いと言う者もいた。


 技を戻そうとした意図は汲むべきだと言う者もいた。


 最後に、バルネが決めた。


「ノイラから祖糸箱の鍵を外す」


 ノイラは頭を下げた。


「古糸倉からも外しますか」


「外さない」


 周囲がざわめいた。


「古い糸を一番知っているのは、お前だ」


「はい」


「だからこそ、一人にはしない」


 ノイラは、以後、古糸倉で働き続ける。


 ただし、単独では入れない。


 鍵は持たない。


 祖糸箱へ触れない。


 古糸の復元試験は、二人以上の立会いと試験糸で行う。


 始まり糸、母糸、契約糸を試験材料に使ってはならない。


 木札へ仮説を書く。


 使う糸を書く。


 失敗した時も残す。


 それを守る限り、古糸の知識を捨てさせない。


「罰として残すのですか」


 ノイラが聞いた。


「責任として残す」


 バルネは答えた。


     *


 新しい仮手順が木札へ増えた。


 一、祖糸箱の見本端は、長さを糸札へ写し取る。


 二、見本端の確認は二人で行う。


 三、見本端へ木針を差し入れてはならない。


 四、古い撚りを調べる時は、試験用の保管糸を使う。


 五、始まり糸、母糸、契約糸を復元試験へ使ってはならない。


 六、途絶えた技を戻す試みは、仮説、材料、立会人、失敗を木札へ残す。


 七、祖糸箱の鍵持ちと古糸点検役を同じ者にしない。


 バルネは長い木札を見た。


「長い」


「はい」


 エルネは答えた。


「石へ残すなら」


 エルネは祖糸箱を見た。


「始まり糸を試してはならない」


「始まり糸は、始まりを示すために残す、では足りないか」


「足りなかったから、短くなりました」


 バルネはしばらく黙った。


「なら、二行目として残すかは、三度の市日で試してから決める」


「はい」


 原則は短い。


 だが、短すぎる言葉は、守る者の都合で伸ばされることがある。


 だから、試す。


 現場で守れる形へ直す。


 それから石へ残す。


     *


 三度の市日が過ぎた。


 ノイラは古糸倉へ戻った。


 一人ではない。


 若い帳役が一人。


 糸具直しのロムドが一人。


 必要に応じてエルネも呼ばれる。


 ノイラは雨環文を諦めなかった。


 ただし、始まり糸には触れない。


 古い失敗布。


 ほどかれた祭礼布の端。


 使い道を失った試験糸。


 そうしたものだけを使った。


 木札へ書く。


 撚りを変える。


 失敗する。


 残す。


 また試す。


 すぐには戻らない。


 それでも、隠して切るより遅い道を選んだ。


     *


 夕方、エルネは祖糸箱の前に立った。


 箱は閉じている。


 封じ糸もある。


 鍵も二本ある。


 外巻きの見本端には、新しい小札が添えられていた。


 ――この長さより引かない。


 とても短い札だった。


 だが、前にはなかった。


 始まり糸の束は、元の長さへ戻らない。


 取られた分は戻らない。


 切れた糸も戻らない。


 失敗をなかったことにはできない。


 だから、短くなったことを残す。


 誰が取ったか。


 何のためか。


 何に失敗したか。


 残った糸がどこにあるか。


 それを隠さない。


 糸は、古いほど正しいわけではない。


 残っているだけで、使ってよいわけでもない。


 本物であることと、試してよいことは同じではない。


 だから見る。


 鍵だけではなく。


 封じ糸だけではなく。


 閉じた祖糸箱の中に、短くなった始まり糸がないかを。

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