5綛目 閉じた祖糸箱の中に、短くなった始まり糸が一筋ある
「祖糸箱は開けられていません」
古糸倉の帳役ノイラは、そう言った。
声は落ち着いていた。
落ち着きすぎている声だった。
契約倉番のメルダは、古い木札を一枚ずつ並べている。
箱を開けた日。
立ち会った者。
取り出した糸。
戻した糸。
箱の鍵を預かった者。
どれも欠けていない。
最後に祖糸箱を開けたのは、半月前。
細雨工房の母系織屋家が、工房の始まりを確かめる年ごとの儀礼を行った時である。
それ以降、開閉札はない。
鍵札も合っている。
封じ糸も切れていない。
箱の外巻きも乱れていない。
それなのに、箱の中に納められた「始まり糸の束」が短くなっていた。
*
始まり糸の束。
繭ではない。
卵でもない。
祖先の殻でもない。
第13文化圏アラクネの工房が最初に立った時、最初の織り手たちがそれぞれの糸を持ち寄り、由来と責任を示すために束ね、封じた古い繊維記録である。
一本の糸ではない。
何代もの糸が重なっている。
外巻き。
古い包み。
封じ糸。
内側の束。
どの母系織屋家が最初に加わったか。
どの技がどこから来たか。
どの工房が火事で絶え、どの工房が別の工房へ技を渡したか。
そうしたことを、糸の重なりと札で残している。
日々の契約には使わない。
婚礼布にも使わない。
売らない。
切らない。
増やさない。
工房の由来を確かめる時だけ開く。
変えてはならない原則の一つとして、石板にも短く刻まれている。
――始まり糸は、始まりを示すために残す。
それだけである。
細かな扱いは、木札と糸札へ残される。
箱を開けるのは、工房頭。
古糸倉の鍵持ち。
母系織屋家の立会人。
三者が揃った時だけ。
それが決まりだった。
「短くなったと分かるのですか」
メルダが聞いた。
「分かります」
ノイラは答えた。
「外巻きの重なりが一つ足りない」
エルネは箱を見た。
古い木箱。
角は丸い。
蝶番は青黒い。
蓋には細雨工房の古い印。
箱の中には、白、灰、薄茶、褪せた青の糸が重ねられている。
見た目だけなら、何も変わっていない。
「どのくらい足りませんか」
エルネが聞いた。
「手のひら半分ほどです」
「一本ですか」
「束の一部です」
「いつ気づきました」
「今朝です」
ノイラの答えは早かった。
「なぜ今朝、箱を見たのですか」
「湿りを見る日でした」
古い糸は、乾かしすぎても切れる。
湿らせすぎても黴びる。
だから箱を開けず、外側の匂い、木の湿り、封じ糸の張りを確かめる日がある。
箱を開ける日ではない。
それでもノイラは、中の束が短いと分かったと言った。
よくない。
とてもよくない。
*
工房頭のバルネが来た。
八つの下肢を低く構え、祖糸箱の前で止まる。
「封じ糸は」
「切れていません」
メルダが言った。
「鍵は」
「二本ともあります」
ノイラが腰の鍵札を示した。
祖糸箱には、二つの鍵がある。
一つはバルネ。
一つはノイラ。
二本を別々の穴へ入れなければ、内側の止め金が外れない。
「俺の鍵は、ずっと工房頭室にあった」
バルネが言った。
「夜番札にも、持ち出しはない」
「なら、開けられない」
メルダが言った。
「開けられない箱の中身が、短くなっている」
エルネは言った。
ノイラの指が、わずかに動いた。
古糸倉の帳役。
祖糸箱の鍵持ち。
古い糸の扱いに最も詳しい女。
始まり糸の束が短くなったと最初に言った者。
エルネは箱の蓋ではなく、底を見た。
第3綛目で、箱は底から開けられた。
だが今回は、底板に新しい木屑はない。
木栓も動いていない。
蝶番にも擦れはない。
封じ糸も正しい。
鍵穴の周りにも、削り跡はない。
「箱は開けられていません」
エルネが言った。
メルダが困った顔をした。
「では、なぜ」
「箱を開けなくても、糸へ触れられる場所があります」
*
祖糸箱の外巻きは、箱の中だけにあるのではない。
箱を閉じたあと、封じ糸の一部を蓋の外へ回し、側面の小環へ通す。
その糸は、箱の内側にある始まり糸の束へ直接つながってはいない。
だが、外巻きの一部を、蓋の隙間から細く引き出して封じ糸の下へ添える。
箱を開けずに、外巻きの湿りと傷みを確かめるためである。
点検用の見本端。
本来なら、手の指ほどの長さしか出さない。
必要以上に引いてはならない。
切ってはならない。
戻してはならない。
だが、細い木針で少しずつ引けば、外巻きの一部を蓋の隙間から取り出せる。
箱を開けずに。
封じ糸を切らずに。
鍵を使わずに。
「見本端が長すぎます」
エルネが言った。
箱の側面に添えられた古い糸。
本来なら指一節ほどで止まる。
今は、その倍近い長さが外へ出ている。
「誰かが引いた」
バルネが言った。
「はい」
「引いた分を切った」
「はい」
「外へ出た糸だけを」
「はい」
箱は開けられていない。
だから、開閉札は残らない。
鍵も動かない。
封じ糸も切れない。
だが、始まり糸の外巻きは短くなる。
*
「誰が見本端の扱いを知っていますか」
エルネが聞いた。
ノイラは答えなかった。
バルネが言った。
「古糸倉の者なら知っている」
「全員ですか」
「いいや」
「木針で引き出せることまで知る者は」
沈黙。
メルダが木札をめくる。
祖糸箱の湿り点検。
外巻き見本端の確認。
担当者。
過去三年、すべて同じ名だった。
ノイラ。
「ノイラ」
バルネが呼んだ。
ノイラは顔を上げた。
「始まり糸を取ったか」
長い沈黙のあと、ノイラは頷いた。
「取りました」
逃げなかった。
言い訳を先にもしなかった。
ただ、両手を膝の上へ置いた。
「どのくらい」
「手のひら半分ほどです」
「何のために」
ノイラは、すぐには答えなかった。
「古い織り方を戻したかった」
*
細雨工房には、途絶えた文様がある。
雨環文。
細い輪が重なり、濡れた時だけ二重の円が浮く。
昔は祭礼布へ使われた。
だが、撚り方を知る織り手が亡くなり、二代前から作れなくなった。
木札は残っている。
糸図も残っている。
だが、肝心の撚りの深さが分からない。
どこで糸を休ませるか。
どの湿りで戻すか。
どうすれば輪が潰れないか。
文字では足りない。
ノイラは、始まり糸の束の外巻きに、雨環文の古い撚りが残っていると考えた。
「見本にしたかったのです」
ノイラは言った。
「切って、ほどいて、撚りを数えれば戻せると思いました」
「誰に相談した」
「誰にも」
「なぜ」
「止められると思ったからです」
「止められることを、なぜした」
ノイラの声が初めて揺れた。
「残したかったからです」
「始まり糸を減らして?」
「一部を使えば、雨環文を戻せると思いました」
「戻ったのか」
ノイラは首を振った。
取った糸は古すぎた。
ほどいた時に数本が切れた。
湿らせると撚りが崩れた。
雨環文は戻らなかった。
始まり糸だけが短くなった。
*
「糸はどこにありますか」
エルネが聞いた。
「古糸倉の奥です」
ノイラは立った。
逃げるためではない。
案内するためだった。
壁際の低い棚。
木札束の下。
小さな布包み。
中には、短く切れた古い糸があった。
白。
灰。
褪せた青。
何本かは撚りをほどかれている。
何本かは切れている。
元の束へ戻せない。
戻せば、取ったことを隠すことになる。
新しい糸を足せば、さらに嘘になる。
「これは、始まり糸へ戻しません」
エルネは言った。
ノイラが目を閉じた。
「はい」
「別札を付けます」
「何と」
「雨環文復元のため、ノイラが無断で採取。復元失敗。残片」
厳しい名だった。
だが、正しい。
失敗を隠さない。
取ったことを消さない。
残った糸も捨てない。
それが、今できる最も小さい修復だった。
*
ノイラへの処分は、すぐに決まらなかった。
始まり糸は売り物ではない。
金額で損を測れない。
盗んで他所へ売ったわけでもない。
工房を裏切るために持ち出したのでもない。
だが、無断で取った。
切った。
ほどいた。
失敗するまで報告しなかった。
重大だった。
バルネは、古糸倉の者と母系織屋家の立会人を集めた。
夜番の鐘を越えて評議が続いた。
追放を求める者もいた。
鍵持ちから外すだけでは軽いと言う者もいた。
技を戻そうとした意図は汲むべきだと言う者もいた。
最後に、バルネが決めた。
「ノイラから祖糸箱の鍵を外す」
ノイラは頭を下げた。
「古糸倉からも外しますか」
「外さない」
周囲がざわめいた。
「古い糸を一番知っているのは、お前だ」
「はい」
「だからこそ、一人にはしない」
ノイラは、以後、古糸倉で働き続ける。
ただし、単独では入れない。
鍵は持たない。
祖糸箱へ触れない。
古糸の復元試験は、二人以上の立会いと試験糸で行う。
始まり糸、母糸、契約糸を試験材料に使ってはならない。
木札へ仮説を書く。
使う糸を書く。
失敗した時も残す。
それを守る限り、古糸の知識を捨てさせない。
「罰として残すのですか」
ノイラが聞いた。
「責任として残す」
バルネは答えた。
*
新しい仮手順が木札へ増えた。
一、祖糸箱の見本端は、長さを糸札へ写し取る。
二、見本端の確認は二人で行う。
三、見本端へ木針を差し入れてはならない。
四、古い撚りを調べる時は、試験用の保管糸を使う。
五、始まり糸、母糸、契約糸を復元試験へ使ってはならない。
六、途絶えた技を戻す試みは、仮説、材料、立会人、失敗を木札へ残す。
七、祖糸箱の鍵持ちと古糸点検役を同じ者にしない。
バルネは長い木札を見た。
「長い」
「はい」
エルネは答えた。
「石へ残すなら」
エルネは祖糸箱を見た。
「始まり糸を試してはならない」
「始まり糸は、始まりを示すために残す、では足りないか」
「足りなかったから、短くなりました」
バルネはしばらく黙った。
「なら、二行目として残すかは、三度の市日で試してから決める」
「はい」
原則は短い。
だが、短すぎる言葉は、守る者の都合で伸ばされることがある。
だから、試す。
現場で守れる形へ直す。
それから石へ残す。
*
三度の市日が過ぎた。
ノイラは古糸倉へ戻った。
一人ではない。
若い帳役が一人。
糸具直しのロムドが一人。
必要に応じてエルネも呼ばれる。
ノイラは雨環文を諦めなかった。
ただし、始まり糸には触れない。
古い失敗布。
ほどかれた祭礼布の端。
使い道を失った試験糸。
そうしたものだけを使った。
木札へ書く。
撚りを変える。
失敗する。
残す。
また試す。
すぐには戻らない。
それでも、隠して切るより遅い道を選んだ。
*
夕方、エルネは祖糸箱の前に立った。
箱は閉じている。
封じ糸もある。
鍵も二本ある。
外巻きの見本端には、新しい小札が添えられていた。
――この長さより引かない。
とても短い札だった。
だが、前にはなかった。
始まり糸の束は、元の長さへ戻らない。
取られた分は戻らない。
切れた糸も戻らない。
失敗をなかったことにはできない。
だから、短くなったことを残す。
誰が取ったか。
何のためか。
何に失敗したか。
残った糸がどこにあるか。
それを隠さない。
糸は、古いほど正しいわけではない。
残っているだけで、使ってよいわけでもない。
本物であることと、試してよいことは同じではない。
だから見る。
鍵だけではなく。
封じ糸だけではなく。
閉じた祖糸箱の中に、短くなった始まり糸がないかを。




