4綛目 同じ織屋印の中に裂かれた母糸が一筋ある
「織屋印は同じです」
契約倉番のメルダは、そう言った。
声は硬かった。
困っている時の声だった。
前なら、同じ印なら安心していた。
織屋印。
工房印。
契約糸。
控え糸。
色噛み糸。
封じ糸。
雨覆い。
それらが合っていれば、荷は通る。
だが、契約倉の手順は、もう短くない。
石板に刻まれているのは、変えてはならない原則だけである。
細かな確認順は、長い木札へ書かれ、三度の市日ごとに改められている。
長い手順は嫌われる。
けれど、嫌われる手順ほど、揉め事の前で役に立つ。
だからメルダは、同じ印を見ても、すぐには荷を通さなかった。
エルネは、台の上の布を見た。
婚礼布だった。
白い。
厚すぎず、薄すぎない。
端には淡い金糸。
中央には、向かい合う二つの多脚文様。
その間を、一筋の母糸が通っている。
母糸付き婚礼布。
第13文化圏アラクネでは、婚礼の時、二人の結びを示す布へ、織屋家の母糸を一筋通すことがある。
血統そのものではない。
身分を誇るための糸でもない。
どの母系織屋家から技が続いたか。
誰が誰へ手を教えたか。
どの工房が責任を持つか。
それを示す糸である。
母糸は、古い糸束から勝手に抜くものではない。
婚礼布一枚ごとに、定められた長さだけを母糸箱から出す。
立会人を置く。
母糸札へ残す。
残りを数える。
それで初めて、一本の母糸として婚礼布へ通せる。
だから、重い。
布の重さではない。
意味が重い。
そして、値も張る。
値の張る布は、揉め事を連れてくる。
エルネは、もう知っていた。
*
揉めているのは、二組だった。
一組目は、第13文化圏の織屋家へ嫁ぐ娘の親族。
母親が、婚礼布の端を震える指で押さえている。
「こちらが先に頼んだ布です」
そう言っている。
二組目は、第1文化圏の商家へ嫁ぐアラクネ娘の兄。
紙写しを持ち、声を荒げている。
「こちらにも同じ織屋印がある。契約糸も正しい。代金も払っている」
そう言っている。
どちらも、自分が正しいと思っている。
そして、困ったことに、どちらの婚礼布にも同じ織屋印があった。
同じ工房頭の印。
同じ母糸札の名。
同じ控え糸。
同じ母系織屋家。
なのに、同じ日に出された婚礼布が二枚ある。
本来、その日に母糸箱から出された一筋は、一枚の婚礼布にしか通らない。
古い決まりだ。
面倒な決まりだ。
だが、婚礼布では大事な決まりだった。
「どちらかが偽物ですか」
メルダが小さく聞いた。
工房頭のバルネは答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、どちらも本物に見えたからである。
織屋印も本物。
工房印も本物。
契約糸も本物。
布も本物。
母糸も、少なくとも別物には見えない。
偽物なら、まだよい。
本物が二つある時、糸は一番もつれる。
*
「母糸を見ます」
エルネは言った。
第1文化圏の商家の兄が、眉を寄せる。
「印があるだろう」
「あります」
「なら正しい」
「いいえ」
エルネは布の端を見た。
「母糸付き婚礼布の契約です。なら、母糸を見ます」
布の契約なら、布を見る。
糸の契約なら、糸を見る。
雨覆いがあるなら、内側を見る。
鈴糸が鳴らないなら、下の埃を見る。
母糸付き婚礼布なら、母糸を見る。
紙だけでは終わらない。
印だけでも終わらない。
エルネは、一枚目の婚礼布を広げた。
淡い金糸の縁。
中央の母糸。
母糸は、普通の糸より少し太い。
複数の細糸を、決められた向きへ深く撚ってある。
古い母糸ほど、撚りの戻り方に癖が残る。
体から採られた工房糸も、洗い、選び、撚り、長く保管されれば、曲げられた向きと湿りの受け方を残す。
エルネは水皿を出させた。
母親が声を上げる。
「婚礼布を濡らすのですか」
「見本端だけです」
「傷みませんか」
「立会いのもとで、許された幅だけを湿らせます」
メルダが母糸札へ書き足した。
試した箇所。
使った水。
立会人。
残った長さ。
エルネは木針の先に水を含ませ、母糸の見本端をほんの少し湿らせた。
糸が、ゆっくり戻る。
だが、浅い。
本来なら丸く戻るはずの撚りが、半ばで止まった。
二枚目も同じように見る。
こちらも戻る。
だが、戻る向きが逆だった。
一枚目は上へ丸まりかけて止まる。
二枚目は下へ丸まりかけて止まる。
どちらも、同じ母糸の癖を半分ずつ持っていた。
「同じ母糸です」
エルネは言った。
メルダが息を吐きかけた。
だが、エルネは続けた。
「ただし、一本のままではありません」
倉の中が静かになった。
*
「どういうことですか」
娘の母親が聞いた。
声が震えていた。
「母糸は本物です」
エルネは答えた。
「偽物ではありません」
第1文化圏の商家の兄が声を強くした。
「なら、こちらも正しい」
「いいえ」
「本物なのだろう」
「本物であることと、正しく使われていることは同じではありません」
兄は口を閉じた。
エルネは二枚の婚礼布の端を並べた。
太さ。
撚りの深さ。
戻り方。
表へ出る細糸の数。
二つはよく似ている。
だが、どちらも本来の母糸より細い。
しかも、一枚は右撚り側の癖が強い。
もう一枚は左撚り側の癖が強い。
「母糸が縦に裂かれています」
エルネは言った。
バルネが目を閉じた。
メルダが息を呑んだ。
「切ったのではありません」
エルネは木針で断面を示した。
「一本の母糸を構成していた細糸を、撚りに沿って二組へ分けています。それぞれを撚り直し、二枚へ通した」
母糸は一本で通す。
一筋の由来と責任を、一枚の布に通す。
それが意味である。
半分に裂いた母糸は、由来まで偽物になるわけではない。
だが、一本の証しではなくなる。
「どちらも偽物ではありません」
エルネは言った。
「でも、どちらも契約どおりの母糸付き婚礼布ではありません」
*
「誰が母糸を扱った」
バルネが言った。
声は静かだった。
メルダが母糸箱の開閉札をめくる。
「五日前。立会いは、バルネ様、婚礼布担当のシア、倉番一名」
「出した長さは」
「一枚分です」
「二枚目の記録は」
「ありません」
「シアを呼べ」
奥にいた若い織り手が出てきた。
女性のアラクネ。
八つの下肢を小さく畳み、両手を前に置く。
婚礼布を一人で受け持ち始めて、まだ長くない。
糸を見る目はよい。
その目が、今は泣きそうになっていた。
「シア」
バルネが言った。
「母糸を裂いたか」
シアは逃げなかった。
言い訳を先にもしなかった。
しばらく沈黙したあと、小さく頷いた。
「裂きました」
母親が息を呑んだ。
兄が机を叩いた。
「何をしたのか分かっているのか」
「分かっています」
「分かっていてやったのか」
「やった時は、通せると思いました」
シアの声は細かった。
「二枚とも本物の母糸が入るなら、完全な嘘ではないと」
「今は」
「違うと分かっています」
*
シアは、二件の婚礼布を同時に受けてしまった。
一件は、第13文化圏の織屋家へ嫁ぐ娘の婚礼。
もう一件は、第1文化圏の商家へ嫁ぐ娘の婚礼。
どちらも急いでいた。
どちらも同じ母系織屋家の母糸を望んだ。
本来なら、一件を断る。
別の母糸を提案する。
婚礼日をずらせるか尋ねる。
母糸付きではない布へ変える。
工房頭へ戻す。
そうすべきだった。
だが、シアは断れなかった。
一方は古い取引先。
一方は、今後の大きな取引につながる商家。
どちらも失いたくなかった。
自分が任された最初の大仕事を、失敗にしたくなかった。
だから、一枚分の母糸を裂いた。
偽糸へ替えたのではない。
印を盗んだのでもない。
代金を自分のものにしたのでもない。
本物を、勝手に二つへ分けた。
「本物なら通ると思ったのですか」
エルネは聞いた。
「思いたかったのです」
シアは答えた。
正直な言葉だった。
だが、正直な言葉でも布は元へ戻らない。
「完全な嘘ではないものは、よく嘘になります」
エルネは言った。
シアは顔を伏せた。
*
「契約はどうなる」
第1文化圏の商家の兄が言った。
「婚礼日が近い。今からでは作り直せない」
もう一方の母親も言った。
「こちらも、招き札を出しています」
婚礼布は、ただの布ではない。
期日がある。
名がある。
相手がある。
家がある。
取り替えれば済むとは限らない。
しかし、このまま母糸付き婚礼布として通すこともできない。
「選べる道は三つあります」
エルネは言った。
全員が彼女を見た。
「一つ。二枚とも不成立として、新しい母糸で作り直す」
「間に合わない」
兄が言った。
「二つ。母糸を裂いたことを別札に残し、当人たちが承知した上で、裂き母糸の婚礼布として使う」
母親が顔を上げた。
「裂き母糸」
「本来の母糸付き婚礼布とは別のものです。隠さず、名を変えて使います」
「縁起が悪い」
「そう考える者はいます」
エルネは認めた。
「ですが、隠された裂き糸の方が悪い」
「三つ目は」
「一方を裂き母糸として使い、もう一方を工房負担で別母糸により作り直す」
兄が即座に言った。
「こちらを先に」
母親も言った。
「こちらが先の契約です」
また揉める。
当然だった。
誰も、自分の婚礼を半分にされたくない。
エルネは二枚の布を見た。
どちらも美しい。
どちらも悪い布ではない。
悪いのは、布ではない。
母糸でもない。
断れずに裂いた手である。
*
評議は、夜番の鐘まで続いた。
二組の親族が呼ばれた。
工房頭のバルネが頭を下げた。
シアも立った。
泣かなかった。
八つの下肢の先が、ずっと震えていた。
最終的に、二枚の婚礼布は、どちらも元の契約名では通さなかった。
一枚は、裂き母糸であることを明記した上で、当人たちが承知して使うことになった。
もう一枚は、工房が費用を負担し、別母糸で作り直すことになった。
どちらがどちらになるか。
決めたのは、親族ではなかった。
婚礼の当人たちだった。
第13文化圏の織屋家へ嫁ぐ娘は、裂き母糸を選んだ。
「裂かれたことを隠されるのは嫌です。でも、裂かれたと知って結ぶなら、これは私たちの布です」
そう言った。
第1文化圏の商家へ嫁ぐ娘は、作り直しを選んだ。
「私は新しい土地で、この糸のことを何度も説明し続ける自信がありません」
そう言った。
どちらも間違いではなかった。
だから、誰も笑わなかった。
*
シアへの処分は軽くなかった。
婚礼布を一人で受ける役から外された。
母糸箱へ単独で近づく権限も失った。
母糸の取り出し、撚り直し、最終確認には立ち会えない。
しばらく下織りへ戻された。
その後は、婚礼布の補助役として、別の担当者の下につくことになった。
裁断幅を測る。
糸札を運ぶ。
控え糸を並べる。
湿りを確認する。
異常を見つけた時は、自分で直さず、担当者へ申告する。
「糸を裂く手は、もう一度、揃えるところから始めろ」
バルネは言った。
シアは深く頭を下げた。
それでも、追放はされなかった。
盗んだわけではない。
売り飛ばしたわけでもない。
偽の印を作ったわけでもない。
だが、正式な母糸を勝手に裂き、二つの契約へ使った。
悪い。
明確に悪い。
だから権限を失う。
同時に、戻る道までは切らない。
バルネはそう判断した。
*
新しい仮手順が木札へ増えた。
一、母糸付き婚礼布は、織屋印だけでなく、母糸の太さと撚り戻りを見る。
二、同じ母糸名の婚礼布を同じ市日の間に受ける時は、別札へ並べて記す。
三、母糸箱から出した長さと、箱へ戻した残りを二人で確かめる。
四、母糸を分けて使ってはならない。
五、やむを得ず由来糸を分ける場合は、母糸付き婚礼布とは別の品名と契約にする。
六、婚礼布の最終確認には、担当者以外の文様見が立つ。
七、担当者が異常を見つけた時は、自分で直さず申告する。
バルネは長い木札を見た。
「また長くなった」
「はい」
エルネは答えた。
「婚礼は急ぐ」
「はい」
「急ぐ者ほど、手順を嫌う」
「はい」
「だが、急いで隠したものほど、あとで大きくほどける」
「はい」
バルネはため息をついた。
「三度の市日で試せ」
「はい」
「石へ残すなら」
エルネは、二枚の婚礼布を見た。
「母糸は分けないこと」
「それだけか」
「原則は短い方が守れます」
細かな手順は木札へ残す。
試して、直す。
変えてはならない一行だけを、後で石へ刻む。
*
夕方、エルネは母糸箱の前に残った。
古い箱だった。
中には、名を付けられた母糸束が眠っている。
それぞれの母系織屋家。
工房の始まり。
師から弟子へ渡った技。
失敗した布。
ほどいた布。
結び直した布。
そういうものが、札と糸の癖として残っている。
糸は、完全には忘れない。
だからこそ、勝手に裂いてはいけない。
分けるなら、別の契約として知らせなければならない。
意味を変えるなら、変えたことを隠してはいけない。
エルネは指を伸ばしかけて、止めた。
母糸には、許可なく触れない。
見る役であっても、触れてよいわけではない。
契約倉の灯りが落ちる前に、エルネは仮手順の木札をもう一度見た。
――母糸は分けないこと。
まだ石には刻まれていない。
三度の市日を越えて、工房で守れると分かれば残る。
母糸は偽物ではなかった。
だが、一本のままでもなかった。
本物であることと、正しく使われていることは同じではない。
だから見る。
印だけではなく。
由来だけではなく。
同じ織屋印の中に、裂かれた母糸が隠れていないかを。




