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アラクネ・ミステリー 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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9/10

9綛目 封じ直された外巻きの下に、捨てられた元糸が一本ある

「外巻きは、正しく結び直されています」


 古糸倉の帳役ノイラは、そう言った。


 声は落ち着いていた。


 第5綛目の頃とは違う。


 祖糸箱の鍵は持っていない。


 一人では古糸倉へ入らない。


 古い糸へ触れる時は、必ず立会人を置く。


 仮説。


 使った糸。


 失敗。


 戻した糸。


 残した糸。


 すべて木札へ書く。


 その手順を守るようになっていた。


 それでも、今回の荷は止まった。


 外巻きが正しく結び直されているのに、中の布が違っていたからである。


     *


 荷主は、ネヴァ。


 第15文化圏ダークエルフの女性商人だった。


 黒い布外套。


 銀の留め具。


 地下道の湿りを読む細い革靴。


 声は低い。


 言葉は短い。


 だが、荷の由来について聞く時だけ、質問が増える。


「これは、私が買った布ではない」


 ネヴァは言った。


 台の上には、黒灰色の布束が五つある。


 地上では、夜外套用の厚布に見える。


 地下では、坑道幕、荷覆い、灯り避け、祭具の包みへ使われる。


 名は、夜岩布。


 光を吸うように見える。


 湿りを受けても色が浮きにくい。


 地下側の商人には値がある。


 契約倉番のメルダは、契約糸と荷札を並べた。


「本契約糸は合っています」


「控え糸も」


「合っています」


「外巻きは」


「正しく結び直されています」


 ノイラが言った。


 ネヴァは布を見た。


「なら、なぜ違う」


 エルネは、五つの布束を見た。


 黒い。


 灰色が混じる。


 表だけなら、夜岩布に見える。


 だが、折り目が深すぎる。


 夜岩布は、同じ厚みの布より戻りが遅い。


 この布は、戻らない。


 古い荷覆い布である。


 染め直し。


 油抜き。


 再洗い。


 見た目だけを夜岩布へ寄せている。


「ネヴァ様」


 エルネが言った。


「買った時の見本端はありますか」


「ある」


 ネヴァは外套の内側から、小さな布包みを出した。


 見本端。


 由来札。


 売り手の印。


 灰橋の仲買印。


 見本端は本物だった。


 台の上の布は違う。


「途中で入れ替えられています」


 エルネは言った。


     *


「封じは切れていない」


 メルダが言った。


「切らずに外巻きを直した者がいます」


 ノイラは答えた。


「できますか」


「できます」


 ノイラは、すぐに答えた。


 答えたあと、少しだけ目を伏せた。


「古糸倉の者なら」


「あなたも」


「はい」


 空気が重くなる。


 第5綛目の記憶が、皆の中にあった。


 始まり糸を無断で取ったノイラ。


 鍵を失ったノイラ。


 監督下で働くノイラ。


 今度も、古糸の扱いを知る者。


「私はしていません」


 ノイラは言った。


「分かっています」


 エルネは答えた。


「まだ、誰も決めていません」


 疑うことと、決めることは違う。


 過去に悪いことをした者は、次も悪いと決めやすい。


 だが、決めやすい答えほど、糸を見なくなる。


     *


 外巻きを見る。


 布束を包む外糸。


 結び目。


 折り返し。


 荷札の穴。


 封じ糸。


 古い補修箇所。


 見た目には正しい。


 ノイラが言った。


「この外巻きは、いったん解かれています」


 メルダが驚く。


「でも、結び目は同じです」


「同じに作り直しています」


「どうして分かるのですか」


「撚りの寝方が違う」


 元の外巻きは、荷を締めた時に片側へ強く寝る。


 解けば、撚りは少し戻る。


 結び直す時、同じ形にはできる。


 だが、寝た向きまでは戻らない。


「ここです」


 ノイラが木針で示した。


「結び目の下だけ、撚りが立っている」


「誰かが古い外巻きをほどき、荷を入れ替え、同じように結び直した」


「はい」


「元の外巻きは」


 ノイラは周囲を見た。


「残っていないなら、分かりにくいです」


 その時、ミサが声を上げた。


「捨て糸籠を動かさないでください」


 倉の端で、若い下働きが籠を持ち上げかけていた。


「それは昨日の糸です」


 下働きが言った。


「だからです」


 ミサは籠へ近づく。


「元の糸を捨てないでください」


「これは切れ端です」


「切れ端でもです」


 エルネは頷いた。


「そのまま置いてください」


     *


 捨て糸籠の中には、短い外巻きが一本あった。


 黒灰。


 表面に細かな石粉。


 荷札穴の近くに、灰白色の擦れ粉。


 夜岩布の外巻きに使われる糸と同じ太さ。


 だが、長さが足りない。


 途中で切られている。


「これが元糸ですか」


 メルダが聞いた。


「まだ分かりません」


 エルネは言った。


「比べます」


 ミサが、控え糸と白い見本布を持ってくる。


 ノイラは、元糸らしきものを直接触らない。


 木針で持ち上げる。


 撚り。


 灰。


 石粉。


 白錫の擦れ。


 外巻き札の控えと比べる。


 灰白色の粉は、灰橋で値の張る荷に使う、白錫を薄く被せた鉄鋲の擦れだった。


 銀ではない。


 鉄鋲の頭へ白錫を被せ、遠目にも普通荷の鋲と見分けられるようにしたものだ。


 白錫は柔らかい。


 仮札を外し、同じ穴へ鋲を戻せば、穴の縁と外巻きへ灰白色の粉が残る。


「元の外巻きです」


 ノイラが言った。


「なぜ捨て糸籠に」


「誰かが、切ったあと捨てた」


 ミサが言った。


「でも、昨日の捨て糸は、全部古糸倉へ回したはずです」


 ノイラが顔を上げた。


「誰が回した」


「私です」


 ミサは答えた。


「誰が受け取りました」


「ノイラさんです」


 また、空気が重くなる。


     *


「昨日、捨て糸籠を受け取りましたか」


 エルネが聞いた。


「受け取りました」


 ノイラは答えた。


「この糸を見ましたか」


「見ていません」


「なぜ」


「籠の上だけ確認し、奥へ置きました」


「一人で」


「いいえ。見張り役がいました」


「誰ですか」


「セムです」


 夜番のセムが呼ばれた。


 第3綛目でレムに利用され、三度の市日の夜番停止を受けた男。


 今は夜番へ戻っている。


 開閉札。


 鈴糸。


 火番。


 荷札の向き。


 それらを以前より細かく残している。


「昨日、古糸倉へ入りましたか」


 エルネが聞いた。


「入りました」


「ノイラと」


「はい」


「捨て糸籠を見ましたか」


「見ました」


「中身は」


「上だけです」


「なぜ全部を見なかったのですか」


「濡れ糸が混じっていないかだけ確認しました」


「この糸を入れた者は」


「見ていません」


「籠は、どこから」


「契約倉裏の捨て糸置きです」


「誰でも入れますか」


「荷役と倉番なら」


 セムは善意の見張りだった。


 嘘はついていない。


 だが、籠の中身まで確認する手順はなかった。


 ノイラも受け取った。


 だが、上だけを見た。


 そこへ、切った元糸を紛れ込ませることができた。


「ノイラの管理不足です」


 バルネが言った。


 ノイラは頭を下げた。


「はい」


「故意か」


「違います」


「証は」


「ありません」


 ノイラの声は硬かった。


「だから、故意ではないと決めることも、故意だと決めることもできません」


 正しい答えだった。


     *


 ネヴァは、ずっと黙っていた。


「私の荷を入れ替えた者は、まだ分からないのか」


「元糸を捨てた者は分かっていません」


 エルネは答えた。


「荷がどこで入れ替えられたかは、絞れます」


 ネヴァの目が細くなる。


「どこだ」


「灰橋です」


「白い粉だけで決めるのか」


「いいえ」


 エルネは元糸、仮札、外巻きを順に示した。


「粉だけなら、似た鋲を使う荷場もあります。これ一つでは決められません」


 理由は三つ。


 一つ。


 元糸に、灰橋の高値荷用鋲から出る白錫の擦れがある。


 二つ。


 外巻きに、地下道の湿りではなく、地上側の石灰埃が付いている。


 三つ。


 荷札の折り目が、灰橋の仲買所で使う仮札幅と合う。


 白錫の擦れだけでは、灰橋と断じられない。


 石灰埃だけでも足りない。


 折り幅だけでも足りない。


 三つが、同じ元糸と同じ外巻きに重なっている。


「仲買所か」


「はい」


「誰が扱った」


 メルダが紙写しをめくる。


 灰橋仲買所。


 荷預かり。


 夜岩布五束。


 受取先、細雨工房契約倉。


 仲買印。


 その下に、下役の印。


 名は、トルグ。


 灰橋の仲買人の下働き。


 荷を預かる。


 外巻きを確認する。


 荷札を仮札へ替える。


 翌朝、正規札へ戻す。


 その立場なら、外巻きを外せる。


「トルグは」


 メルダが言った。


「昨日から姿がありません」


     *


 灰橋へ照会札が出された。


 仲買所の返答は早かった。


 トルグは、前日の夕方に仕事を放り出し、西道へ逃げた。


 宿代を払っていない。


 荷車を一台借りたまま返していない。


 夜岩布の売却先は不明。


 灰橋仲買所は、監督責任を認めた。


 だが、トルグの身柄はない。


「捕まらないのか」


 ネヴァが聞いた。


「追い手は出ています」


 バルネが答えた。


「戻る保証は」


「ありません」


 ネヴァは、偽物の布を見た。


「なら、私は損をする」


「はい」


 エルネは答えた。


「正直だな」


「戻ると言って戻らなければ、さらに損を増やします」


 ネヴァは黙った。


 商人は、嘘の慰めを嫌う。


     *


 ノイラへの処分は、難しかった。


 元糸が捨て糸籠へ入った。


 籠を受け取った。


 上だけを見た。


 記録は残した。


 だが、中身の確認が足りなかった。


 さらに、外巻きを結び直す技術を知っていた。


 疑われる条件が揃いすぎている。


 それでも、トルグとの連絡。


 金の受取り。


 荷への接触。


 そうした証はない。


「管理責任はある」


 バルネは言った。


「はい」


 ノイラは答えた。


「故意の共謀は」


「証明できません」


 エルネが答えた。


「では、処分は」


「古糸倉の受入れ確認を、一人分増やします」


 メルダが言った。


「ノイラを外しますか」


「外しません」


 バルネは答えた。


「だが、外巻き、契約糸、捨て糸の受入れ判断を、ノイラ一人の確認で通さない」


 ノイラは頭を下げた。


「はい」


「三度の市日、受入れ役から外れる。その間、ミサとセムへ確認順を教えろ」


 ノイラが少しだけ顔を上げた。


「私が教えるのですか」


「お前が抜いた手順だから、お前が埋めろ」


「はい」


 重い処分だった。


 だが、故意犯として裁く処分ではない。


 管理不備への処分である。


     *


 セムには処分がなかった。


 見張りとして立った。


 見た範囲を答えた。


 嘘をつかなかった。


 ただし、新しい手順では、見張りも籠の中身を一緒に確認することになった。


「また、見るものが増えます」


 セムが言った。


「はい」


 メルダが答えた。


「夜番札も長くなります」


「はい」


「忘れそうです」


「忘れる前提で、札へ書きます」


 セムは苦い顔をした。


「前より、メルダさんが厳しい」


「前に、紙荷商を入れた人がいるからです」


「私です」


「知っています」


 少しだけ、倉の空気が緩んだ。


     *


 ネヴァの荷は、契約不成立となった。


 偽の布五束は、灰橋仲買所と細雨工房の共同保留。


 ネヴァには、前金の返還。


 追加の運賃。


 次の夜岩布の優先買付け。


 それが提示された。


「信用は戻らない」


 ネヴァは言った。


「はい」


 バルネは答えた。


「布を戻せば終わりではない」


「はい」


「この荷が、どこから来た偽物か調べろ」


「調べます」


「売った者まで」


「追います」


 ネヴァは頷かなかった。


 だが、席を立たなかった。


 地下側の商人は、由来を重く見る。


 布の質だけではない。


 誰が織ったか。


 誰が運んだか。


 どの坑道を通ったか。


 誰の手で止まったか。


 それが信用になる。


 だから、ネヴァは被害者であるだけでは終わらない。


 以後、灰橋と地上側の荷の由来を確かめるため、細雨工房へ情報を送ることになった。


     *


 新しい仮手順が木札へ増えた。


 一、外巻きは、結び目だけでなく、撚りの寝方を見る。


 二、捨て糸籠は、上だけでなく中身を一度広げて確認する。


 三、外巻き、契約糸、捨て糸を同じ籠で運ばない。


 四、灰橋仲買所を通る荷は、仮札と正規札の両方を残す。


 五、外巻きを結び直した荷は、元糸を添えなければ通さない。


 六、元糸を捨ててはならない。


 七、古糸倉の受入れは二人以上で行う。


 八、過去の違反歴だけで、故意の共謀を決めない。


 九、管理不備と故意の隠匿を分けて記録する。


 バルネは木札を見た。


「長い」


「はい」


 エルネが答えた。


「石へ残すなら」


 エルネは、捨て糸籠から見つかった元糸を見た。


「元の糸を捨てないこと」


「短いな」


「捨てた糸が、一番よく残すことがあります」


     *


 三度の市日のあいだ、ノイラはミサとセムへ確認順を教えた。


「結び目だけを見るな」


 ノイラが言う。


「撚りが、どちらへ寝ているかを見る」


 ミサは触らずに見る。


 セムは札へ書く。


「切れ端は」


「捨てない」


「濡れていたら」


「別布へ包む」


「誰が持ってきたか分からなければ」


「分からないと書く」


「ノイラさんが怪しい時は」


 ミサが聞いた。


 ノイラは少し黙った。


「怪しいと書く」


「怒りませんか」


「怒る」


「でも書きますか」


「書け」


 ミサは頷いた。


     *


 西道へ逃げたトルグは、捕まらなかった。


 借りた荷車だけが、二つ先の宿場で見つかった。


 車台には、黒灰の糸くず。


 灰橋の仮札片。


 地下側で使う銀留め具の空包み。


 夜岩布を売った後の跡はあった。


 だが、相手は分からない。


 トルグは悪人だった。


 荷を入れ替えた。


 元糸を捨てた。


 逃げた。


 それでも、すべてが分かったわけではない。


 誰へ売ったか。


 誰から偽布を仕入れたか。


 単独だったか。


 残った謎はある。


 解けない糸もある。


     *


 契約倉の灯りが落ちる前に、エルネは元の外巻きを見た。


 切られている。


 汚れている。


 捨てられていた。


 荷を包む役は、もう果たせない。


 だが、何が起きたかを残す役は果たした。


 正しく結び直された外巻き。


 合っている契約糸。


 切れていない封じ糸。


 それだけを見れば、荷は通ったかもしれない。


 だが、捨てられた元糸が残っていた。


 だから見る。


 新しい結び目だけではなく。


 捨て糸籠。


 撚りの寝方。


 仮札の折り目。


 白錫の擦れ。


 灰。


 そして、過去に罪を犯した者へ、答えを急いで結びつけていないかを。


 封じ直された外巻きの下に、捨てられた元糸が一本ないかを。

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