9綛目 封じ直された外巻きの下に、捨てられた元糸が一本ある
「外巻きは、正しく結び直されています」
古糸倉の帳役ノイラは、そう言った。
声は落ち着いていた。
第5綛目の頃とは違う。
祖糸箱の鍵は持っていない。
一人では古糸倉へ入らない。
古い糸へ触れる時は、必ず立会人を置く。
仮説。
使った糸。
失敗。
戻した糸。
残した糸。
すべて木札へ書く。
その手順を守るようになっていた。
それでも、今回の荷は止まった。
外巻きが正しく結び直されているのに、中の布が違っていたからである。
*
荷主は、ネヴァ。
第15文化圏ダークエルフの女性商人だった。
黒い布外套。
銀の留め具。
地下道の湿りを読む細い革靴。
声は低い。
言葉は短い。
だが、荷の由来について聞く時だけ、質問が増える。
「これは、私が買った布ではない」
ネヴァは言った。
台の上には、黒灰色の布束が五つある。
地上では、夜外套用の厚布に見える。
地下では、坑道幕、荷覆い、灯り避け、祭具の包みへ使われる。
名は、夜岩布。
光を吸うように見える。
湿りを受けても色が浮きにくい。
地下側の商人には値がある。
契約倉番のメルダは、契約糸と荷札を並べた。
「本契約糸は合っています」
「控え糸も」
「合っています」
「外巻きは」
「正しく結び直されています」
ノイラが言った。
ネヴァは布を見た。
「なら、なぜ違う」
エルネは、五つの布束を見た。
黒い。
灰色が混じる。
表だけなら、夜岩布に見える。
だが、折り目が深すぎる。
夜岩布は、同じ厚みの布より戻りが遅い。
この布は、戻らない。
古い荷覆い布である。
染め直し。
油抜き。
再洗い。
見た目だけを夜岩布へ寄せている。
「ネヴァ様」
エルネが言った。
「買った時の見本端はありますか」
「ある」
ネヴァは外套の内側から、小さな布包みを出した。
見本端。
由来札。
売り手の印。
灰橋の仲買印。
見本端は本物だった。
台の上の布は違う。
「途中で入れ替えられています」
エルネは言った。
*
「封じは切れていない」
メルダが言った。
「切らずに外巻きを直した者がいます」
ノイラは答えた。
「できますか」
「できます」
ノイラは、すぐに答えた。
答えたあと、少しだけ目を伏せた。
「古糸倉の者なら」
「あなたも」
「はい」
空気が重くなる。
第5綛目の記憶が、皆の中にあった。
始まり糸を無断で取ったノイラ。
鍵を失ったノイラ。
監督下で働くノイラ。
今度も、古糸の扱いを知る者。
「私はしていません」
ノイラは言った。
「分かっています」
エルネは答えた。
「まだ、誰も決めていません」
疑うことと、決めることは違う。
過去に悪いことをした者は、次も悪いと決めやすい。
だが、決めやすい答えほど、糸を見なくなる。
*
外巻きを見る。
布束を包む外糸。
結び目。
折り返し。
荷札の穴。
封じ糸。
古い補修箇所。
見た目には正しい。
ノイラが言った。
「この外巻きは、いったん解かれています」
メルダが驚く。
「でも、結び目は同じです」
「同じに作り直しています」
「どうして分かるのですか」
「撚りの寝方が違う」
元の外巻きは、荷を締めた時に片側へ強く寝る。
解けば、撚りは少し戻る。
結び直す時、同じ形にはできる。
だが、寝た向きまでは戻らない。
「ここです」
ノイラが木針で示した。
「結び目の下だけ、撚りが立っている」
「誰かが古い外巻きをほどき、荷を入れ替え、同じように結び直した」
「はい」
「元の外巻きは」
ノイラは周囲を見た。
「残っていないなら、分かりにくいです」
その時、ミサが声を上げた。
「捨て糸籠を動かさないでください」
倉の端で、若い下働きが籠を持ち上げかけていた。
「それは昨日の糸です」
下働きが言った。
「だからです」
ミサは籠へ近づく。
「元の糸を捨てないでください」
「これは切れ端です」
「切れ端でもです」
エルネは頷いた。
「そのまま置いてください」
*
捨て糸籠の中には、短い外巻きが一本あった。
黒灰。
表面に細かな石粉。
荷札穴の近くに、灰白色の擦れ粉。
夜岩布の外巻きに使われる糸と同じ太さ。
だが、長さが足りない。
途中で切られている。
「これが元糸ですか」
メルダが聞いた。
「まだ分かりません」
エルネは言った。
「比べます」
ミサが、控え糸と白い見本布を持ってくる。
ノイラは、元糸らしきものを直接触らない。
木針で持ち上げる。
撚り。
灰。
石粉。
白錫の擦れ。
外巻き札の控えと比べる。
灰白色の粉は、灰橋で値の張る荷に使う、白錫を薄く被せた鉄鋲の擦れだった。
銀ではない。
鉄鋲の頭へ白錫を被せ、遠目にも普通荷の鋲と見分けられるようにしたものだ。
白錫は柔らかい。
仮札を外し、同じ穴へ鋲を戻せば、穴の縁と外巻きへ灰白色の粉が残る。
「元の外巻きです」
ノイラが言った。
「なぜ捨て糸籠に」
「誰かが、切ったあと捨てた」
ミサが言った。
「でも、昨日の捨て糸は、全部古糸倉へ回したはずです」
ノイラが顔を上げた。
「誰が回した」
「私です」
ミサは答えた。
「誰が受け取りました」
「ノイラさんです」
また、空気が重くなる。
*
「昨日、捨て糸籠を受け取りましたか」
エルネが聞いた。
「受け取りました」
ノイラは答えた。
「この糸を見ましたか」
「見ていません」
「なぜ」
「籠の上だけ確認し、奥へ置きました」
「一人で」
「いいえ。見張り役がいました」
「誰ですか」
「セムです」
夜番のセムが呼ばれた。
第3綛目でレムに利用され、三度の市日の夜番停止を受けた男。
今は夜番へ戻っている。
開閉札。
鈴糸。
火番。
荷札の向き。
それらを以前より細かく残している。
「昨日、古糸倉へ入りましたか」
エルネが聞いた。
「入りました」
「ノイラと」
「はい」
「捨て糸籠を見ましたか」
「見ました」
「中身は」
「上だけです」
「なぜ全部を見なかったのですか」
「濡れ糸が混じっていないかだけ確認しました」
「この糸を入れた者は」
「見ていません」
「籠は、どこから」
「契約倉裏の捨て糸置きです」
「誰でも入れますか」
「荷役と倉番なら」
セムは善意の見張りだった。
嘘はついていない。
だが、籠の中身まで確認する手順はなかった。
ノイラも受け取った。
だが、上だけを見た。
そこへ、切った元糸を紛れ込ませることができた。
「ノイラの管理不足です」
バルネが言った。
ノイラは頭を下げた。
「はい」
「故意か」
「違います」
「証は」
「ありません」
ノイラの声は硬かった。
「だから、故意ではないと決めることも、故意だと決めることもできません」
正しい答えだった。
*
ネヴァは、ずっと黙っていた。
「私の荷を入れ替えた者は、まだ分からないのか」
「元糸を捨てた者は分かっていません」
エルネは答えた。
「荷がどこで入れ替えられたかは、絞れます」
ネヴァの目が細くなる。
「どこだ」
「灰橋です」
「白い粉だけで決めるのか」
「いいえ」
エルネは元糸、仮札、外巻きを順に示した。
「粉だけなら、似た鋲を使う荷場もあります。これ一つでは決められません」
理由は三つ。
一つ。
元糸に、灰橋の高値荷用鋲から出る白錫の擦れがある。
二つ。
外巻きに、地下道の湿りではなく、地上側の石灰埃が付いている。
三つ。
荷札の折り目が、灰橋の仲買所で使う仮札幅と合う。
白錫の擦れだけでは、灰橋と断じられない。
石灰埃だけでも足りない。
折り幅だけでも足りない。
三つが、同じ元糸と同じ外巻きに重なっている。
「仲買所か」
「はい」
「誰が扱った」
メルダが紙写しをめくる。
灰橋仲買所。
荷預かり。
夜岩布五束。
受取先、細雨工房契約倉。
仲買印。
その下に、下役の印。
名は、トルグ。
灰橋の仲買人の下働き。
荷を預かる。
外巻きを確認する。
荷札を仮札へ替える。
翌朝、正規札へ戻す。
その立場なら、外巻きを外せる。
「トルグは」
メルダが言った。
「昨日から姿がありません」
*
灰橋へ照会札が出された。
仲買所の返答は早かった。
トルグは、前日の夕方に仕事を放り出し、西道へ逃げた。
宿代を払っていない。
荷車を一台借りたまま返していない。
夜岩布の売却先は不明。
灰橋仲買所は、監督責任を認めた。
だが、トルグの身柄はない。
「捕まらないのか」
ネヴァが聞いた。
「追い手は出ています」
バルネが答えた。
「戻る保証は」
「ありません」
ネヴァは、偽物の布を見た。
「なら、私は損をする」
「はい」
エルネは答えた。
「正直だな」
「戻ると言って戻らなければ、さらに損を増やします」
ネヴァは黙った。
商人は、嘘の慰めを嫌う。
*
ノイラへの処分は、難しかった。
元糸が捨て糸籠へ入った。
籠を受け取った。
上だけを見た。
記録は残した。
だが、中身の確認が足りなかった。
さらに、外巻きを結び直す技術を知っていた。
疑われる条件が揃いすぎている。
それでも、トルグとの連絡。
金の受取り。
荷への接触。
そうした証はない。
「管理責任はある」
バルネは言った。
「はい」
ノイラは答えた。
「故意の共謀は」
「証明できません」
エルネが答えた。
「では、処分は」
「古糸倉の受入れ確認を、一人分増やします」
メルダが言った。
「ノイラを外しますか」
「外しません」
バルネは答えた。
「だが、外巻き、契約糸、捨て糸の受入れ判断を、ノイラ一人の確認で通さない」
ノイラは頭を下げた。
「はい」
「三度の市日、受入れ役から外れる。その間、ミサとセムへ確認順を教えろ」
ノイラが少しだけ顔を上げた。
「私が教えるのですか」
「お前が抜いた手順だから、お前が埋めろ」
「はい」
重い処分だった。
だが、故意犯として裁く処分ではない。
管理不備への処分である。
*
セムには処分がなかった。
見張りとして立った。
見た範囲を答えた。
嘘をつかなかった。
ただし、新しい手順では、見張りも籠の中身を一緒に確認することになった。
「また、見るものが増えます」
セムが言った。
「はい」
メルダが答えた。
「夜番札も長くなります」
「はい」
「忘れそうです」
「忘れる前提で、札へ書きます」
セムは苦い顔をした。
「前より、メルダさんが厳しい」
「前に、紙荷商を入れた人がいるからです」
「私です」
「知っています」
少しだけ、倉の空気が緩んだ。
*
ネヴァの荷は、契約不成立となった。
偽の布五束は、灰橋仲買所と細雨工房の共同保留。
ネヴァには、前金の返還。
追加の運賃。
次の夜岩布の優先買付け。
それが提示された。
「信用は戻らない」
ネヴァは言った。
「はい」
バルネは答えた。
「布を戻せば終わりではない」
「はい」
「この荷が、どこから来た偽物か調べろ」
「調べます」
「売った者まで」
「追います」
ネヴァは頷かなかった。
だが、席を立たなかった。
地下側の商人は、由来を重く見る。
布の質だけではない。
誰が織ったか。
誰が運んだか。
どの坑道を通ったか。
誰の手で止まったか。
それが信用になる。
だから、ネヴァは被害者であるだけでは終わらない。
以後、灰橋と地上側の荷の由来を確かめるため、細雨工房へ情報を送ることになった。
*
新しい仮手順が木札へ増えた。
一、外巻きは、結び目だけでなく、撚りの寝方を見る。
二、捨て糸籠は、上だけでなく中身を一度広げて確認する。
三、外巻き、契約糸、捨て糸を同じ籠で運ばない。
四、灰橋仲買所を通る荷は、仮札と正規札の両方を残す。
五、外巻きを結び直した荷は、元糸を添えなければ通さない。
六、元糸を捨ててはならない。
七、古糸倉の受入れは二人以上で行う。
八、過去の違反歴だけで、故意の共謀を決めない。
九、管理不備と故意の隠匿を分けて記録する。
バルネは木札を見た。
「長い」
「はい」
エルネが答えた。
「石へ残すなら」
エルネは、捨て糸籠から見つかった元糸を見た。
「元の糸を捨てないこと」
「短いな」
「捨てた糸が、一番よく残すことがあります」
*
三度の市日のあいだ、ノイラはミサとセムへ確認順を教えた。
「結び目だけを見るな」
ノイラが言う。
「撚りが、どちらへ寝ているかを見る」
ミサは触らずに見る。
セムは札へ書く。
「切れ端は」
「捨てない」
「濡れていたら」
「別布へ包む」
「誰が持ってきたか分からなければ」
「分からないと書く」
「ノイラさんが怪しい時は」
ミサが聞いた。
ノイラは少し黙った。
「怪しいと書く」
「怒りませんか」
「怒る」
「でも書きますか」
「書け」
ミサは頷いた。
*
西道へ逃げたトルグは、捕まらなかった。
借りた荷車だけが、二つ先の宿場で見つかった。
車台には、黒灰の糸くず。
灰橋の仮札片。
地下側で使う銀留め具の空包み。
夜岩布を売った後の跡はあった。
だが、相手は分からない。
トルグは悪人だった。
荷を入れ替えた。
元糸を捨てた。
逃げた。
それでも、すべてが分かったわけではない。
誰へ売ったか。
誰から偽布を仕入れたか。
単独だったか。
残った謎はある。
解けない糸もある。
*
契約倉の灯りが落ちる前に、エルネは元の外巻きを見た。
切られている。
汚れている。
捨てられていた。
荷を包む役は、もう果たせない。
だが、何が起きたかを残す役は果たした。
正しく結び直された外巻き。
合っている契約糸。
切れていない封じ糸。
それだけを見れば、荷は通ったかもしれない。
だが、捨てられた元糸が残っていた。
だから見る。
新しい結び目だけではなく。
捨て糸籠。
撚りの寝方。
仮札の折り目。
白錫の擦れ。
灰。
そして、過去に罪を犯した者へ、答えを急いで結びつけていないかを。
封じ直された外巻きの下に、捨てられた元糸が一本ないかを。




