episode8:パン屋の頼みごと
研究院の採用試験まで、あと三週間と少し。
申し込みを済ませた日から、フィオナは夜になると自室で魔法書を開くようになった。
試験内容は当日まで知らされない。術式理論、魔法史、薬学、魔法具の基礎。何が出るか分からない以上、できることは思いつく限りさらっておくことくらいだった。
問題は、それをローレンスに知られないようにしなければならないことだ。
昼間はいつも通り過ごし、夜になって自室へ戻ってから勉強する。研究院から渡された資料は机の引き出しの一番奥へ入れ、朝になれば魔法書も本棚へ戻す。
隠し事というのは、思った以上に疲れる。
昨夜も眠ったのは随分遅かった。
「フィオナ、最近夜更かししてる?」
朝食の席で突然そう聞かれ、フィオナは紅茶を飲む手を止めた。
「……してませんけど」
「そう?」
「なんでです?」
「眠そうだから」
向かいでは、ローレンスがいつものように本を開いている。こちらを見てもいないくせに、どうしてそんなことには気づくのだろう。
「師匠に言われたくありません。昨日も書斎の灯り、遅くまでついてたでしょう」
「僕は夜更かししても平気だから」
「そういう問題じゃありません」
「じゃあ、どういう問題?」
「生活習慣の問題です」
パンをちぎって口へ運ぶ。
これ以上話を広げたくないのに、ページの向こうから視線を感じた。
「……なんですか」
「いや?」
「さっきからこっち見てるでしょう」
「見てないよ」
「本、さっきから同じページです」
ローレンスが手元へ目を落とした。
「本当だ」
「自分で気づいてなかったんですか?」
「フィオナを見てたからね」
「認めたじゃないですか」
楽しそうに笑う顔を見て、フィオナはため息をつく。
この人の目を一か月も誤魔化せるのだろうか。
少し不安になったが、今さら引き返すつもりもなかった。
◇
昼を過ぎた頃、玄関の扉を叩く音がした。
裏庭から戻ったばかりのフィオナが扉を開けると、そこには見慣れた大柄な男が立っていた。袖を肘まで捲り、前掛けには白い小麦粉がついたまま。片手には紙袋を抱えている。
「こんにちは、フィオナ」
「マルセルさん。どうしたんですか、その格好」
「店を女房に任せて抜けてきたんだ。先生いるか?」
「いますよ。朝から書斎に籠もってます」
「また飯も食わずに?」
「朝は食べさせました」
マルセルは一瞬黙り、それから腹の底から笑った。
「十六年経っても変わらんなあ、あの人は」
「もう諦めました」
「フィオナも苦労するな」
「本当に」
街でパン屋を営むマルセルとは、フィオナがまだ幼い頃からの付き合いだった。
この家へ来たばかりの頃、ローレンスに連れられて初めて店へ行った日のことも覚えている。大きな声で話しかけてくるマルセルが怖くて、ローレンスの外套を握ったまま離せなかった。
今では店へ行けば世間話をして、焼きたてのパンを一つ余分に持たされる。
「これ、新しい胡桃パン。味見してくれ」
「ありがとうございます。あとで師匠といただきますね」
「先生には半分でいいぞ」
「聞こえてるよ」
階段の方から声がして、二人で振り返った。
ローレンスがちょうど降りてくるところだった。
「僕の家に持ってきたパンなのに、僕だけ半分?」
「フィオナに持ってきたんだよ」
「僕の弟子なのに」
「関係あるか?」
「ありますよ。師匠のものは弟子のもの、弟子のものは師匠のものです」
「逆です」
フィオナが即座に返すと、マルセルがまた笑った。
「相変わらずフィオナには勝てんな、先生」
「勝とうと思ってないよ」
「負け惜しみですか?」
「フィオナには負けてもいいから」
さらりと言って笑う。
またそういうことを言う、とフィオナは紙袋を抱え直した。
「それで、今日はパンを届けに来ただけじゃないんでしょう?」
「そうだった」
マルセルは笑いを収めると、ローレンスへ向き直った。
「先生に頼みたいものがあってな」
「僕に?」
「ああ。薬を一つ作ってほしい」
その言葉に、フィオナも興味を引かれて居間へ入った。
三人で机を囲み、マルセルの持ってきた胡桃パンを切り分ける。結局ローレンスにもきちんと一人分渡すと、「フィオナは優しいね」と嬉しそうに言われたので無視した。
「それで、何の薬?」
ローレンスがパンを齧りながら尋ねる。
マルセルは紅茶を一口飲んでから、少し言いにくそうに口を開いた。
「……勇気薬」
フィオナは胡桃パンを持ったまま止まった。
「マルセルさんが?」
「なんだ、その顔は」
「いえ……誰かに喧嘩でも売りに行くのかと」
「勇気薬をなんだと思ってるんだ」
ローレンスが吹き出した。
「フィオナ、勇気薬を飲んでも喧嘩は強くならないよ」
「分かってます」
「じゃあ何でそんな発想になるんだ」
「マルセルさんだから?」
「お前なあ」
呆れた声を出しながらも、マルセルも笑っている。
勇気薬と呼ばれてはいるが、実際には少し強めの気付け薬に近い。身体を温め、緊張で乱れた魔力を整えて頭をすっきりさせる。名前ほど大層なものではなく、大事な商談や試験、人前で話す前に飲む者もいる。
「でも、どうして急に?」
「来月、王都で大きな市があるだろ。うちも出すことになったんだ」
「それはすごいじゃないですか」
「パンを売るだけならな」
マルセルは深いため息をついた。
「出店する職人が集まる場で、店の紹介をしろって言われてる。俺は昔から人前で喋るのが駄目でな」
「マルセルさんが?」
「だからその顔やめろ」
「だって、お店ではいつも大声じゃないですか」
「知ってる顔と知らん顔じゃ違うんだよ」
「へえ」
「お前、信じてないな?」
信じていないというより意外だった。
フィオナの知るマルセルは、いつも大きな声で笑っている。そんな人でも、知らない人々の前に立つとなれば緊張するらしい。
「女房に相談したら、そんなに嫌なら先生に勇気薬でも作ってもらえって言われてな」
「それで本当に来たんですか?」
「俺も最初は冗談だと思ったんだよ。でも、考えれば考えるほど嫌になってきてなあ」
「いいんじゃない?」
ローレンスが気楽に言った。
「勇気薬くらいならすぐ作れるよ」
「助かる」
「フィオナが」
短い沈黙が落ちた。
フィオナはゆっくりとローレンスを見る。
「……今、なんて?」
「フィオナが作ればいいよ」
「どうして私なんです?」
「作れるから」
あまりにも当然のように返されて、言葉に詰まった。
「作ったことありませんけど」
「僕が教えるよ」
「それなら師匠が作った方が早いでしょう」
「それじゃフィオナが覚えられない」
ローレンスは残っていたパンを口へ入れ、満足そうに紅茶を飲んだ。
まるで最初から、そのつもりだったような顔をしている。
「夢見薬だって作れたでしょう?」
「あれは師匠がずっと横にいたからです」
「今回もいるよ」
「そういう問題じゃなくて……」
「俺は構わんぞ」
思いがけずマルセルが口を挟んだ。
フィオナが振り向くと、大きな手でカップを包みながら、ごく普通のことのように笑っている。
「フィオナが作ってくれるなら、それでいい」
「……本当に私でいいんですか?」
「何年先生の弟子やってると思ってるんだ」
「十六年ですけど」
「じゃあ十分だろ」
「年数で決めるものじゃないですよ」
「でも俺は、フィオナが魔法を覚え始めた頃から知ってるからな」
その言葉に、フィオナは黙った。
自分ではいつまでも、ローレンスの背中を追いかけているつもりだった。
七歳の頃からずっとそうだ。教えてもらって、失敗して、また教えてもらう。どれだけ魔法を覚えても、隣にいるのがこの人では、自分が一人前になった実感など持てるはずもない。
けれどマルセルの目には、少し違って見えているらしい。
「ほら。僕より信用されてる」
隣から楽しそうな声がする。
「それは師匠の日頃の行いに問題があるんです」
「ひどいなあ」
「先生に任せると、頼んでもない効能を足されそうだからな」
「そんなことしないよ」
「前に眠気覚まし頼んだら、一晩まったく眠れなくなったぞ」
「あれはよく効いたでしょう?」
「効きすぎなんだよ!」
マルセルの声が居間に響き、フィオナはとうとう吹き出した。
さっきまで胸の中にあった不安が、少しだけ軽くなる。
「……分かりました。作ります」
「お、頼んだぞ」
「ただし、師匠にも見てもらいますからね。私一人では作りません」
「もちろん」
ローレンスは笑って頷いた。
その表情には迷いがなかった。
「大丈夫。フィオナなら作れるよ」
また、その言葉だった。
幼い頃から何度も聞いてきた。できないと言っても、怖いと言っても、この人だけはいつだって先に信じてしまう。
フィオナは小さく息を吐いた。
「……師匠のその自信、どこから来るんです?」
「僕がフィオナの師匠だから」
「答えになってません」
「なってるよ」
ローレンスはそう言って、何でもないことのように笑った。
一か月後、自分がその師匠のいない場所で魔法を使おうとしていることを、彼はまだ知らない。
その秘密を胸の奥へ押し込めながら、フィオナは残っていた胡桃パンを一口齧った。




