episode9:勇気薬
(文字数が多くなってしまいました・・・)
マルセルは胡桃パンの残りを置いて、上機嫌で帰っていった。
「じゃあ頼んだぞ、フィオナ」
「まだちゃんと作れるって決まったわけじゃありませんからね」
「先生ができるって言ってるんだから大丈夫だろ」
「その先生が一番信用ならないんです」
「ひどいなあ」
背後から聞こえた抗議を無視して扉を閉める。窓越しにマルセルの大きな背中が門の向こうへ消えていくのを見届けてから、フィオナは振り返った。
「……本当に私が作るんですか?」
「作るよ」
「今から?」
「材料はあると思う。確認してみようか」
ローレンスはそう言うと、さっさと裏口へ向かってしまった。こういうときだけ行動が早い。
「待ってくださいって」
フィオナも慌てて後を追った。
二人は裏庭を抜け、別棟の研究室へ向かう。
ローレンスが扉に触れると、刻まれた封印術式が淡く光り、一つずつほどけていった。フィオナもその後に続いて中へ入る。
夢見薬を作ったときと同じ研究室、同じ作業台。壁際には相変わらず大小さまざまな瓶が並び、奥には魔力で熱を生み出す術式炉が据えられている。
前にここへ立ったときは、ローレンスがすぐ隣にいた。
今日はどうなるのだろう。
「勇気薬なら……」
ローレンスは棚を眺め、いくつかの瓶を取り出した。
「生姜、ミント、シナモン。あとは――フィオナ、何がいる?」
「え?」
「勇気薬。作るんでしょう?」
「いきなり試すのやめてください」
「僕が全部言ったら、フィオナが作る意味がないじゃない」
「そういうのは始める前に言ってください」
文句を言いながらも、フィオナは頭の中で処方を思い返した。
勇気薬は、その名前に反して心そのものへ働きかける薬ではない。
恐怖や緊張を感じると、人の身体を巡る魔力には細かな乱れが生じる。胸が詰まり、指先が冷え、呼吸が浅くなる。勇気薬はその乱れを整え、身体を温め、意識を前へ向けやすくするためのものだ。
ならば必要なのは、身体へ作用する薬草だけではない。
「……陽晶石」
「うん」
「少量を粉末にして使います」
「正解」
ローレンスが別の棚から、小指の先ほどの橙色の結晶を取り出した。
陽晶石は、日の出から正午までの光を吸収する性質を持つ魔石だ。暗い場所へ持ち込めば、昼間に蓄えた光をゆっくりと放つ。魔法薬では主に、冷えた魔力を温めたり、滞った流れを動かしたりするときに使われる。
「量は?」
「一瓶につき……これくらい」
フィオナは指先で示す。
「曖昧だね」
「師匠だっていつも目分量じゃないですか」
「僕はいいの」
「どうして」
「大魔法使いだから」
「便利ですね、その肩書き」
ローレンスは笑いながら陽晶石をフィオナへ渡した。
「じゃあ今日は、フィオナの目分量を信じよう」
「急に責任を押しつけないでください」
「大丈夫だよ」
その一言だけを残して、ローレンスは作業台から一歩離れた。
フィオナは陽晶石を握ったまま、その顔を見る。
「……師匠?」
「なに?」
「やらないんですか?」
「作るのはフィオナでしょう?」
「教えてくれるって言いましたよね」
「聞かれたら教えるよ」
そういう意味だったのか。
夢見薬を作ったときは、すぐ隣に立っていた。魔力を流す感覚が分からなければ手を重ね、どこを見ればいいのかまで一つずつ教えてくれた。
今日は最初から、自分でやれということらしい。
「……失敗しても知りませんからね」
「そのときは僕がなんとかする」
「それ、一番ずるいやつです」
「そう?」
「そうです」
何があっても最後にはどうにかしてくれると分かってしまえば、やるしかなくなる。
フィオナは袖を捲り、作業台へ向き直った。
まず、乾燥させた生姜を乳鉢へ入れて粗く砕く。そこへシナモンを加えると、甘さの奥に刺激を含んだ香りが立ち上った。
ミントにはまだ触れない。熱を加えすぎれば、香りだけでなく葉に宿る魔力まで抜けてしまう。
銀鍋へ蒸留水を注ぎ、術式炉の上へ置く。
炉の縁には炎を表す古い文字が八つ刻まれていた。フィオナが最初の一つへ指先を触れさせ、わずかに魔力を流すと、眠っていた文字が赤く灯る。
低い音とともに、鍋の下へ青白い炎が生まれた。
「火、これくらいですか?」
「フィオナはどう思う?」
背後から返ってきた言葉に、フィオナは眉を寄せた。
「質問に質問で返さないでください」
「作ってるのはフィオナだよ」
振り返ると、ローレンスは少し離れたところで作業台に腰を預けている。
本当に手を出す気がないらしい。
フィオナは鍋へ視線を戻した。
水面にはまだ何の変化もない。指先から伝わる術式炉の熱を確かめ、炎の強さを一段落とす。
「……これでいきます」
「うん」
それだけだった。
湯気が立ち始める少し前に、生姜とシナモンを入れる。透明だった水がゆっくりと色づき、研究室に香辛料の匂いが広がった。
ここまでは普通の薬と変わらない。
魔法薬になるのは、ここからだ。
フィオナは陽晶石を乳鉢へ入れた。
硬い魔石は、ただ砕けばいいわけではない。内側に蓄えられた光の魔力が一気に放出されれば、薬に必要な性質まで失われてしまう。
先に、眠らせる。
結晶へ指先を添え、ゆっくりと魔力を流す。
自分の魔力で押さえつけるのではない。陽晶石の中を巡る光の流れを探し、その行き先を少しずつ内側へ変えていく。
外へ。
また外へ。
放たれようとする光を、一筋ずつ中心へ導いていく。
橙色だった結晶の輝きが、ゆっくりと弱くなった。
やがて石がただの透明な結晶に見えるほど静まったところで、フィオナは杵を下ろす。
澄んだ音が一度だけ響いた。
陽晶石は細かな粉になった。
「上手」
背後から声が飛んでくる。
「まだ途中です」
「途中でも上手なものは上手だよ」
「集中してるので話しかけないでください」
「はいはい」
その返事に聞き覚えがあって、フィオナは振り返りそうになった。
今は無視する。
鍋の火をさらに落とし、陽晶石の粉をひとつまみ落とした。
その瞬間。
琥珀色の液体の底を、細い光が走った。
一本、二本、三本。
根を伸ばすように金色の筋が広がり、鍋の底から水面へ昇っていく。ほどなく液体全体に細かな光の粒が浮かび始めた。
フィオナは息を整えた。
ここからが、一番難しい。
陽晶石に閉じ込めた光を、今度は薬液の中で目覚めさせる。
杖は使わない。
鍋の縁へ両手を添え、目を閉じた。
自分の魔力を注ぎ込むのではなく、すでにそこにあるものを探す。
生姜の熱。
シナモンの巡り。
陽晶石が抱えていた、朝から昼へ向かう光。
目を閉じれば、それぞれ違う性質を持った魔力が、薬液の中にばらばらに浮かんでいるのが分かる。
それらを無理に混ぜてはいけない。
強い魔力で従わせれば、薬は完成するかもしれない。けれど素材の性質は潰れ、効き目は鈍くなる。
だから、道だけを作る。
こちらへ。
次はこちらへ。
一つずつ呼びかけるように魔力の流れを導いていくと、指先がじわりと温かくなった。
鍋の中で、ばらばらだった金色の粒が動き始める。
小さな光は螺旋を描きながら集まり、またほどけ、やがて一つの流れになって薬液の中を巡り始めた。
今だ。
フィオナは刻んでおいたミントを落とした。
ぱっと緑の光が弾けた。
「――っ」
思わず手を引きそうになる。
けれど離さない。
緑の光は陽晶石の金色へ飛び込み、二つの色が激しくぶつかった。
金と緑。
絡み合った光が液面から立ち上り、湯気に乗って細い帯を作る。まるで小さな風が生まれたように、それは鍋の上を一度、二度と巡った。
香りが変わった。
生姜とシナモンの温かな香りの中へ、ミントの清涼感が一本の線を引く。
胸いっぱいに吸い込めば、それだけで背筋が伸びるような香り。
フィオナは光の流れを見つめる。
一度。
二度。
三度。
「今」
術式炉へ送っていた魔力を切った。
青白い炎が消える。
同時に、鍋の上を巡っていた光の帯が崩れ、無数の粒となって薬液へ降り注いだ。
金色の光が一つ、また一つと沈んでいく。
最後の一粒が消えると、研究室に静寂が戻った。
鍋の中には、透き通った琥珀色の薬液が残っている。
フィオナはすぐには動かなかった。
色を見る。
香りを確かめる。
細いガラス棒を入れて一度だけ回すと、琥珀色の液体の中に細かな金色の光が現れ、ガラス棒の後を追うようにゆっくりと尾を引いた。
魔力の濁りもない。
熱も安定している。
「……できてる」
「うん」
「できてますよね?」
「フィオナはどう思う?」
「またそれですか」
思わず振り返った。
ローレンスは笑っている。
答えるつもりはないらしい。
フィオナはもう一度、鍋を見る。
教本に書かれていた完成時の色。香り。光の残り方。魔力の巡り。
自分で確かめる。
自分で考える。
そして、自分で決める。
「……できてます」
「正解」
ようやくローレンスが作業台へ近づいてきた。
鍋を覗き込み、満足そうに頷く。
「綺麗だね。陽晶石の眠らせ方もちょうどいいし、ミントを入れるタイミングもよかった」
「だったら最初からそう言ってください」
「僕が言ったら、フィオナが自分で決められないでしょう?」
「確認くらいしてくれてもいいじゃないですか」
「必要ないと思ったから」
あまりにもあっさり返されて、フィオナはローレンスを見た。
「……どうしてそんなに信用できるんです?」
「何が?」
「私が作れるって。夢見薬だって、この前初めて最初から作ったばかりなのに」
ローレンスは少し不思議そうな顔をした。
それから、当たり前のことを言うように答える。
「フィオナを十六年見てきた僕より、フィオナのことを知ってる人いる?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうの、今いりません」
「そういうの?」
「そういうのです」
「褒めただけなのに」
「集中できなくなります」
「もうできてるよ」
「師匠のせいです」
「僕、何もしてないけど」
「何もしないでそういうこと言うから悪いんです」
ローレンスはよく分からないという顔で笑っている。
きっと本当に分かっていない。
フィオナは熱くなった顔を誤魔化すように、完成した薬を小さな保存瓶へ移していった。
透き通った琥珀色の液体の中で、時折、金色の光が瞬く。
「でも、勇気薬って変な名前ですよね」
最後の瓶に栓をしながら言うと、ローレンスが一本を手に取った。
「そうだね。これを飲んだからって、怖くなくなるわけじゃない」
「緊張はしますしね」
「するよ。足だって震えるし、逃げたくもなる」
ローレンスは琥珀色の瓶を窓から差し込む光に透かした。
薬液の中で金色の粒がゆっくりと揺れる。
「勇気なんて、薬で作れるものじゃないからね。これはちょっと背中を押すだけ」
「背中を?」
「身体を温めて、息をしやすくして、ほんの少し前を向きやすくする。それだけ。そこから歩くのは本人だよ」
フィオナも並んだ瓶へ目を落とした。
怖くなくなるわけではない。
逃げたくなくなるわけでもない。
ただ、一歩を踏み出すための手助けをする。
なら。
研究院の試験を受けると決めたことも、勇気と呼べるのだろうか。
そう考えて、少し違う気がした。
フィオナが選んだのは、立ち向かうことではない。
逃げることだ。
五年も諦められなかった恋から。
何も知らずに「好きだよ」と笑う人のそばから。
「フィオナ?」
「なんです?」
「またぼんやりしてる」
「考え事です」
「難しいこと?」
「師匠には秘密です」
ローレンスの眉が、わずかに上がった。
「最近、秘密多くない?」
「女の子には秘密の一つや二つあります」
「僕にも?」
「師匠だからです」
「それは寂しいなあ」
軽い声だった。
いつもなら、フィオナも軽く流せたはずなのに、今日はなぜかその一言が胸に残った。
「……大したことじゃありませんよ」
「そう?」
「はい」
嘘をついて、フィオナは最後の瓶を棚へ並べる。
勇気なんて、薬では作れない。
薬にできるのは、ほんの少し背中を押すことだけで、そこから先は自分で歩かなければならない。
それを勇気と呼ぶには、少し違う気がした。
フィオナが選んだのは、立ち向かうことではなく、逃げることだから。
それでも。
逃げるためにだって、少しくらい勇気はいる。
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