↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/17

episode10:夜更かしの理由


 家中が静まり返る頃になると、フィオナの部屋だけに明かりが残るようになった。


 研究院の採用試験まで、あと三週間。


 昼間はいつも通りに過ごし、ローレンスが寝室へ引き上げたのを確認してから机に向かう。もっとも、あの人が素直に眠っているとは限らない。書斎で本を読んでいるかもしれないし、思いつきで研究室へ向かっているかもしれない。


 だから、研究院から渡された資料は必要なときだけ引き出しから出し、終われば必ず一番奥へ戻すことにしていた。


 今夜、机の上に広げているのは術式解析の問題だ。


 複雑な魔法陣が描かれた紙を前に、フィオナはもう何度目か分からないため息をついた。


「……なんで繋がらないの」


 魔法陣は、ただ綺麗に線を繋げれば完成するものではない。


 外周の円は注がれた魔力を留め、そこへ刻まれた文字が性質を与え、内部を走る線が魔力の行き先を決める。どこから入り、何に触れ、どこへ抜けるのか。一本の線を違えるだけで、同じ魔力を注いでも結果はまるで変わる。


 今夜フィオナが解いているのは、壊れた術式を修復する問題だった。


 本来なら水を温めるだけの簡単な生活魔法。それなのに、示された魔法陣には三か所の欠損があり、二か所には余計な線まで加えられている。


 一つ目はすぐに分かった。


 二つ目も、おそらく合っている。


 問題は三つ目だ。


「ここを繋いだら、熱が戻ってくるし……」


 羽根ペンの先で魔法陣を辿る。


 熱を生む文字から伸びた魔力は、器を示す文字へ入り、そのまま外周へ――行ってはいけない。そこへ流せば、術式そのものが加熱される。


「じゃあ、こっち……?」


 線を一本書き足しかけて、止めた。


 違う。


 これでは途中で魔力が滞る。


 紙から顔を上げ、椅子の背にもたれた。


 分からない。


 そして、分からないときにどうすればいいのかを、フィオナはよく知っている。


 この紙を持って階段を下り、書斎の扉を叩けばいい。


 ローレンスなら、おそらく一目見ただけで答えが分かる。


 七歳で魔法を教わり始めてから、ずっとそうしてきた。


 分からなければ聞く。


 できなければ見てもらう。


 間違えれば直してもらう。


 それが当たり前だった。


「……だめ」


 小さく呟き、もう一度紙へ向き直った。


 これは、自分で解かなければ意味がない。


 試験会場にローレンスはいない。


 分からないからといって、「師匠」と呼ぶことはできないのだ。


 もう一度、最初から魔力の流れを辿る。


 入口。


 変換。


 循環。


 放出。


 違う。


 また最初から。


 何度目かのやり直しで、とうとうフィオナは机へ突っ伏した。


「分かんない……」


 思わず零れた、そのときだった。


 こん、こん。


 扉が二度、軽く叩かれた。


 フィオナは跳ね起きた。


「フィオナ?」


 聞き慣れた声に、心臓が大きく鳴る。


 どうして。


 もう寝たと思っていたのに。


「起きてる?」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 慌てて机の上を見る。


 研究院の名前が入った資料を掴み、引き出しへ押し込む。その上から別の紙を重ね、羽根ペンを戻したところで、もう一度扉が鳴った。


「入っていい?」


「……どうぞ」


 できるだけ平静を装って答える。


 扉が開き、ローレンスが顔を覗かせた。


 いつものシャツに、薄い羽織を一枚引っかけている。眠そうな様子はまるでない。


「まだ起きてた」


「師匠もでしょう」


「僕はいいの」


「よくありません」


 ローレンスは笑いながら部屋へ入り、手にしていたカップを机の端へ置いた。


「これ」


「なんです?」


「ミルク。蜂蜜入れた」


 白い湯気が細く立ち上っている。


「……わざわざ?」


「台所に行ったら、フィオナの部屋にまだ明かりがついてたから」


 どうやら様子を見に来たらしい。


 フィオナはカップを両手で包んだ。じんわりとした温かさが指先へ移ってくる。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 ローレンスはそう言いながら、机の上へ目を向けた。


 フィオナの背筋が伸びる。


「勉強?」


「……はい」


「こんな時間まで?」


「昼間は色々ありますから」


「最近ずっと?」


「毎日じゃありません」


 嘘ではない。


 三日に一度くらいは、眠気に負けている。


 ローレンスは机の上に散らばった紙を眺めた。研究院の資料は隠した。残っているのは自分で書き写した魔法陣と、普段から使っている魔法書だけだ。


「術式解析なんて珍しいね」


「たまには勉強します」


「フィオナ、薬学の方が好きだったでしょう?」


「他のことも勉強したくなったんです」


「ふうん」


 短い返事だった。


 疑われている気がする。


 ローレンスは何も言わないまま、机の上の魔法陣へ目を落とした。


「あ」


「なんです?」


「ここ――」


「言わないでください!」


 思ったより大きな声が出た。


 ローレンスが目を瞬く。


 フィオナ自身も驚き、少し声を落とした。


「……答え、言わないでください」


「分からないんじゃないの?」


「分からないです」


「じゃあ教えようか?」


「だめです」


 いつもなら、迷わず頷いていた。


 何度教えてもらったか分からない。ローレンスの説明は腹が立つほど分かりやすくて、一人で何時間考えても理解できなかったことが、たった一言で腑に落ちることもある。


 だからこそ、今日は聞けなかった。


「自分で解きたいんです」


 そう言うと、ローレンスは少しだけ黙った。


 驚いているようにも見えた。


 けれどすぐに、いつもの柔らかな笑みに戻る。


「そっか」


 それだけ言って、魔法陣から視線を外した。


「じゃあ教えない」


「……あっさりですね」


「教えるなって言ったのはフィオナでしょう?」


「そうですけど」


「頑張って」


 ローレンスは本当に何も言わず、机から離れた。


 そのことに安心したはずなのに、ほんの少しだけ物足りないと思ってしまった自分が嫌になる。


 昔なら、分からないと言えばすぐに隣へ来てくれた。


 けれど今は、自分が「一人でやる」と言えば、その言葉を信じて離れていく。


 それを望んでいるのは、自分なのに。


「師匠」


 扉へ向かいかけていたローレンスが振り返った。


「なに?」


 フィオナは少し迷ってから、口を開いた。


「私が、師匠に教えてもらわなくても魔法を使えるようになったら、どう思います?」


 ローレンスは一度、目を瞬いた。


「嬉しいよ」


 答えは早かった。


「……そうですか」


「うん。すごく嬉しい」


 分かっていたはずなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 自分が一人で歩けるようになれば、ローレンスは喜んでくれる。


 それは師匠として、きっと正しい。


「でも」


 続いた声に顔を上げる。


 ローレンスは扉の前に立ったまま、少し困ったように笑っていた。


「僕に何も聞いてくれなくなるのは、寂しいかな」


「……どっちなんですか」


「どっちも」


「欲張りですね」


「そうだね」


 さらりと認めて、ローレンスは笑う。


「一人でできるようになってほしいし、たまには僕を頼ってほしい」


「面倒くさい師匠」


「知ってる」


「自覚あるんですね」


「フィオナに十六年言われてるから」


 思わず笑ってしまった。


 胸の奥にあった小さな痛みが、少しだけほどける。


「ほら、もう寝なよ。続きは明日にしたら?」


「もう少しだけやります」


「朝までやっちゃだめだよ」


「子どもじゃありません」


「知ってるよ」


 その言葉が、思っていたより静かに返ってきた。


 フィオナは一瞬、何も言えなかった。


 七歳の自分を知っている人。


 眠れない夜にはそばにいて、魔法ができなければ何度でも教えてくれて、失敗して泣けば笑って頭を撫でてくれた人。


 その人が今は、自分を一人でやらせようとしている。


「……おやすみなさい、師匠」


「おやすみ、フィオナ」


 扉が閉じる。


 部屋に再び静けさが戻った。


 フィオナはしばらく扉を見つめ、それから蜂蜜入りのミルクを一口飲んだ。


 甘くて、温かい。


「……よし」


 頬を軽く叩いて、もう一度魔法陣へ向き直る。


 入口から考えるから分からないのかもしれない。


 完成したとき、魔力はどこへ行かなければならないのか。


 水を温める。


 なら、最後に必要なのは熱を生むことではない。生まれた熱を、水へ渡すことだ。


「……あ」


 羽根ペンが動く。


 器を示す文字へ直接繋ぐのではなく、その手前にある変換式を反転させる。


 一本の線を消し、別の線を書き足した。


 途端に、ばらばらだった術式が一つに繋がった。


 試しにほんの少しだけ魔力を流す。


 紙の上に描かれた線が淡い青色に光り、外周を一周する。やがて中央に置いていた小さな水差しへ光が移り、底から小さな気泡が浮かび上がった。


「……できた」


 思わず声が漏れる。


 誰も答えない。


 静かな部屋で、完成した魔法陣だけが淡く光っている。


 フィオナはしばらくそれを見つめてから、嬉しさを噛みしめるように小さく笑った。


 十六年間、分からないことがあれば師匠に聞けばよかった。


 それが当たり前だった。


 けれどこれからは、自分で答えを見つけなければならないことが、きっと増えていく。


 それがほんの少し寂しくて、少し怖い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。