episode10:夜更かしの理由
家中が静まり返る頃になると、フィオナの部屋だけに明かりが残るようになった。
研究院の採用試験まで、あと三週間。
昼間はいつも通りに過ごし、ローレンスが寝室へ引き上げたのを確認してから机に向かう。もっとも、あの人が素直に眠っているとは限らない。書斎で本を読んでいるかもしれないし、思いつきで研究室へ向かっているかもしれない。
だから、研究院から渡された資料は必要なときだけ引き出しから出し、終われば必ず一番奥へ戻すことにしていた。
今夜、机の上に広げているのは術式解析の問題だ。
複雑な魔法陣が描かれた紙を前に、フィオナはもう何度目か分からないため息をついた。
「……なんで繋がらないの」
魔法陣は、ただ綺麗に線を繋げれば完成するものではない。
外周の円は注がれた魔力を留め、そこへ刻まれた文字が性質を与え、内部を走る線が魔力の行き先を決める。どこから入り、何に触れ、どこへ抜けるのか。一本の線を違えるだけで、同じ魔力を注いでも結果はまるで変わる。
今夜フィオナが解いているのは、壊れた術式を修復する問題だった。
本来なら水を温めるだけの簡単な生活魔法。それなのに、示された魔法陣には三か所の欠損があり、二か所には余計な線まで加えられている。
一つ目はすぐに分かった。
二つ目も、おそらく合っている。
問題は三つ目だ。
「ここを繋いだら、熱が戻ってくるし……」
羽根ペンの先で魔法陣を辿る。
熱を生む文字から伸びた魔力は、器を示す文字へ入り、そのまま外周へ――行ってはいけない。そこへ流せば、術式そのものが加熱される。
「じゃあ、こっち……?」
線を一本書き足しかけて、止めた。
違う。
これでは途中で魔力が滞る。
紙から顔を上げ、椅子の背にもたれた。
分からない。
そして、分からないときにどうすればいいのかを、フィオナはよく知っている。
この紙を持って階段を下り、書斎の扉を叩けばいい。
ローレンスなら、おそらく一目見ただけで答えが分かる。
七歳で魔法を教わり始めてから、ずっとそうしてきた。
分からなければ聞く。
できなければ見てもらう。
間違えれば直してもらう。
それが当たり前だった。
「……だめ」
小さく呟き、もう一度紙へ向き直った。
これは、自分で解かなければ意味がない。
試験会場にローレンスはいない。
分からないからといって、「師匠」と呼ぶことはできないのだ。
もう一度、最初から魔力の流れを辿る。
入口。
変換。
循環。
放出。
違う。
また最初から。
何度目かのやり直しで、とうとうフィオナは机へ突っ伏した。
「分かんない……」
思わず零れた、そのときだった。
こん、こん。
扉が二度、軽く叩かれた。
フィオナは跳ね起きた。
「フィオナ?」
聞き慣れた声に、心臓が大きく鳴る。
どうして。
もう寝たと思っていたのに。
「起きてる?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて机の上を見る。
研究院の名前が入った資料を掴み、引き出しへ押し込む。その上から別の紙を重ね、羽根ペンを戻したところで、もう一度扉が鳴った。
「入っていい?」
「……どうぞ」
できるだけ平静を装って答える。
扉が開き、ローレンスが顔を覗かせた。
いつものシャツに、薄い羽織を一枚引っかけている。眠そうな様子はまるでない。
「まだ起きてた」
「師匠もでしょう」
「僕はいいの」
「よくありません」
ローレンスは笑いながら部屋へ入り、手にしていたカップを机の端へ置いた。
「これ」
「なんです?」
「ミルク。蜂蜜入れた」
白い湯気が細く立ち上っている。
「……わざわざ?」
「台所に行ったら、フィオナの部屋にまだ明かりがついてたから」
どうやら様子を見に来たらしい。
フィオナはカップを両手で包んだ。じんわりとした温かさが指先へ移ってくる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ローレンスはそう言いながら、机の上へ目を向けた。
フィオナの背筋が伸びる。
「勉強?」
「……はい」
「こんな時間まで?」
「昼間は色々ありますから」
「最近ずっと?」
「毎日じゃありません」
嘘ではない。
三日に一度くらいは、眠気に負けている。
ローレンスは机の上に散らばった紙を眺めた。研究院の資料は隠した。残っているのは自分で書き写した魔法陣と、普段から使っている魔法書だけだ。
「術式解析なんて珍しいね」
「たまには勉強します」
「フィオナ、薬学の方が好きだったでしょう?」
「他のことも勉強したくなったんです」
「ふうん」
短い返事だった。
疑われている気がする。
ローレンスは何も言わないまま、机の上の魔法陣へ目を落とした。
「あ」
「なんです?」
「ここ――」
「言わないでください!」
思ったより大きな声が出た。
ローレンスが目を瞬く。
フィオナ自身も驚き、少し声を落とした。
「……答え、言わないでください」
「分からないんじゃないの?」
「分からないです」
「じゃあ教えようか?」
「だめです」
いつもなら、迷わず頷いていた。
何度教えてもらったか分からない。ローレンスの説明は腹が立つほど分かりやすくて、一人で何時間考えても理解できなかったことが、たった一言で腑に落ちることもある。
だからこそ、今日は聞けなかった。
「自分で解きたいんです」
そう言うと、ローレンスは少しだけ黙った。
驚いているようにも見えた。
けれどすぐに、いつもの柔らかな笑みに戻る。
「そっか」
それだけ言って、魔法陣から視線を外した。
「じゃあ教えない」
「……あっさりですね」
「教えるなって言ったのはフィオナでしょう?」
「そうですけど」
「頑張って」
ローレンスは本当に何も言わず、机から離れた。
そのことに安心したはずなのに、ほんの少しだけ物足りないと思ってしまった自分が嫌になる。
昔なら、分からないと言えばすぐに隣へ来てくれた。
けれど今は、自分が「一人でやる」と言えば、その言葉を信じて離れていく。
それを望んでいるのは、自分なのに。
「師匠」
扉へ向かいかけていたローレンスが振り返った。
「なに?」
フィオナは少し迷ってから、口を開いた。
「私が、師匠に教えてもらわなくても魔法を使えるようになったら、どう思います?」
ローレンスは一度、目を瞬いた。
「嬉しいよ」
答えは早かった。
「……そうですか」
「うん。すごく嬉しい」
分かっていたはずなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分が一人で歩けるようになれば、ローレンスは喜んでくれる。
それは師匠として、きっと正しい。
「でも」
続いた声に顔を上げる。
ローレンスは扉の前に立ったまま、少し困ったように笑っていた。
「僕に何も聞いてくれなくなるのは、寂しいかな」
「……どっちなんですか」
「どっちも」
「欲張りですね」
「そうだね」
さらりと認めて、ローレンスは笑う。
「一人でできるようになってほしいし、たまには僕を頼ってほしい」
「面倒くさい師匠」
「知ってる」
「自覚あるんですね」
「フィオナに十六年言われてるから」
思わず笑ってしまった。
胸の奥にあった小さな痛みが、少しだけほどける。
「ほら、もう寝なよ。続きは明日にしたら?」
「もう少しだけやります」
「朝までやっちゃだめだよ」
「子どもじゃありません」
「知ってるよ」
その言葉が、思っていたより静かに返ってきた。
フィオナは一瞬、何も言えなかった。
七歳の自分を知っている人。
眠れない夜にはそばにいて、魔法ができなければ何度でも教えてくれて、失敗して泣けば笑って頭を撫でてくれた人。
その人が今は、自分を一人でやらせようとしている。
「……おやすみなさい、師匠」
「おやすみ、フィオナ」
扉が閉じる。
部屋に再び静けさが戻った。
フィオナはしばらく扉を見つめ、それから蜂蜜入りのミルクを一口飲んだ。
甘くて、温かい。
「……よし」
頬を軽く叩いて、もう一度魔法陣へ向き直る。
入口から考えるから分からないのかもしれない。
完成したとき、魔力はどこへ行かなければならないのか。
水を温める。
なら、最後に必要なのは熱を生むことではない。生まれた熱を、水へ渡すことだ。
「……あ」
羽根ペンが動く。
器を示す文字へ直接繋ぐのではなく、その手前にある変換式を反転させる。
一本の線を消し、別の線を書き足した。
途端に、ばらばらだった術式が一つに繋がった。
試しにほんの少しだけ魔力を流す。
紙の上に描かれた線が淡い青色に光り、外周を一周する。やがて中央に置いていた小さな水差しへ光が移り、底から小さな気泡が浮かび上がった。
「……できた」
思わず声が漏れる。
誰も答えない。
静かな部屋で、完成した魔法陣だけが淡く光っている。
フィオナはしばらくそれを見つめてから、嬉しさを噛みしめるように小さく笑った。
十六年間、分からないことがあれば師匠に聞けばよかった。
それが当たり前だった。
けれどこれからは、自分で答えを見つけなければならないことが、きっと増えていく。
それがほんの少し寂しくて、少し怖い。




