episode7:納品と返事
翌朝、十二本の夢見薬は小さな木箱に収められた。
薄紫色の液体が朝の光を受けて、瓶の中できらきらと揺れている。自分が作ったものだと思うと、少し不思議な気分だった。
「じゃあ、これ納品してきますね」
「僕も行こうか?」
「いいです。師匠、今日はその山を片づけてください」
フィオナが指差した先には、作業台の隅に積み上がった書類がある。
「帰ってきたら減ってます?」
「善処します」
「減らす気ない人の返事ですね、それ」
「フィオナ」
「なんです?」
「気をつけてね」
いつもの笑顔で言われて、フィオナは一瞬だけ返事に詰まった。
昨日から、どうにも調子が狂う。
「……行ってきます」
木箱を抱え、逃げるように研究室を出た。
◇
王都の魔法薬店は、研究院から歩いて十分ほどのところにある。
納品された夢見薬を一本ずつ確認していた店主は、最後の瓶を光に透かすと、満足そうに頷いた。
「さすがクロウリー先生だ。今回も綺麗ですね」
「あ、それ……」
フィオナは言いかけて、口を閉じた。
ローレンスが作ったものではない。
けれど自分が作りました、と名乗るのもなんだか気恥ずかしい。
「何か?」
「いえ。十二本、確かにお渡ししました」
受領書を受け取り、店を出る。
王都は今日も人が多かった。馬車が行き交い、通りの店から客を呼ぶ声が聞こえる。その向こうには、見慣れた研究院の尖塔が見えていた。
フィオナは足を止めた。
鞄の中には、一通の封筒が入っている。
返事の期限は、今日だった。
受けるか、受けないか。
三日前から何度も考えて、それでも答えは出なかった。
研究院に興味がないわけではない。ここでしか読めない魔法書も、見たことのない術式も山ほどある。魔法使いとして働くなら、恵まれた場所なのだろう。
けれど、それが一番の理由かと聞かれれば違った。
フィオナは振り返る。
王都の向こう、さらにその先。ここからでは見えない場所に、十六年暮らした家がある。
朝になれば向かいにローレンスがいて、夜になれば同じ家へ帰る。庭には二人で植えたものが育ち、居間には二人分の椅子がある。
昨日だって、そうだった。
隣に立って魔法を教えてもらった。手を重ねられただけで心臓がうるさくなって、いつもの声で名前を呼ばれるだけで嬉しかった。
五年も好きでいて、まだこれだ。
このままそばにいたら、きっと諦められない。
いつか自然に気持ちが消えるのだと思っていた。十八の頃には、二十歳になれば。二十歳を過ぎた頃には、もう少し大人になれば。
そうやって五年経った。
「……無理ですよね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
待っているだけでは、何も変わらない。
だったら、自分から離れるしかない。
研究院で働くことになれば、王都へ出る理由ができる。一人で暮らして、毎朝顔を合わせることもなくなれば、いつかこの気持ちにも終わりが来るかもしれない。
それは前向きな決意というより、逃げ道を選ぶことに近かった。
それでも今のフィオナには、ほかの方法が思いつかなかった。
鞄から封筒を取り出す。
しばらく見つめてから、研究院へ向かって歩き出した。
◇
「決めたんですね」
受付で名前を告げると、以前と同じ部屋へ通された。
ハインツはフィオナが差し出した封筒を受け取り、静かにそう言った。
「はい。試験、受けます」
「クロウリー先生には?」
「まだ言ってません」
ハインツの眉がわずかに上がる。
「言わないつもりですか?」
「試験が終わるまでは」
「それはまた、ずいぶん思い切りましたね」
「師匠に言ったら、余計なことしそうなので」
「余計なこと?」
「試験問題を調べるとか」
「さすがにしないでしょう」
「します」
即答すると、ハインツが笑った。
「……否定しきれませんね」
「でしょう?」
本当は、それだけではない。
ローレンスに言えば、きっと応援してくれる。
フィオナなら大丈夫だよ。
頑張っておいで。
いつもの笑顔で、そう言うのだろう。
そしてそんなふうに言われたら、自分が何のために試験を受けるのか分からなくなりそうだった。
「一か月後です。試験内容については、当日までお伝えできません」
「分かりました」
「それと、合格した場合も辞退はできます。試験を受けたからといって、必ず研究院に入らなければならないわけではありません」
「……はい」
少しだけ肩の力が抜けた。
まだ、すべてを決めたわけではない。
今日はただ、一歩だけ。
それでいい。
部屋を出ると、廊下の大きな窓から王都が見えた。
ここで働く自分を想像してみる。
知らない人たちに囲まれ、知らない仕事をして、一日の終わりにはローレンスのいない部屋へ帰る。
胸が少し痛んだ。
それでもフィオナは、もう引き返さなかった。
◇
「ただいま戻りました」
「おかえり」
家へ帰ると、ローレンスは居間にいた。
朝と同じ椅子、朝と同じような本、朝とほとんど変わらない姿。
「納品、どうだった?」
「問題ありませんでした」
「褒められた?」
「師匠が」
「あれ、僕が作ったことになってる?」
「なってました」
「じゃあ今度はフィオナの名前で出そうか」
「結構です」
いつものやり取りをしながら、フィオナは鞄を置いた。
もう、中に封筒はない。
「フィオナ」
「なんです?」
「何かいいことあった?」
どきりとした。
「……どうしてです?」
「なんとなく」
昨日から、その「なんとなく」は信用できない。
「何もありませんよ」
「そう?」
「はい」
ローレンスはしばらくフィオナを見ていたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、お茶にしようか」
「師匠が淹れてください」
「フィオナの方がおいしいよ」
「たまには自分でやってください」
「一緒に飲まない?」
結局、そう言われると断れない。
「……飲みます」
「よかった」
嬉しそうに笑うローレンスを見て、胸の奥がまた痛んだ。
試験を受けることは言わなかった。
言えなかったのではない。
言わないと決めた。
この人を嫌いになることは、たぶんできない。
だからせめて、そばにいなくても平気になりたい。
そのための最初の一歩を踏み出したことを、ローレンスはまだ知らない。




